短編 「退職後の成長」
### 短編 「退職後の成長」
退職して半年ほど経った頃。
社員Aは、不思議な感覚に気付いた。
何かが減っていた。
最初は分からなかった。
疲れが抜けたのかと思った。
だが違った。
焦りだった。
首になるかもしれない。
怒られるかもしれない。
明日居場所がなくなるかもしれない。
十年間、
ずっと背中に張り付いていた不安。
それが少しずつ消えていた。
すると、
別のものが見えてきた。
朝の空。
近所の犬。
スーパーの店員。
道端の花。
昔からあったはずなのに、
見えていなかったもの。
社員Aは思った。
自分はずっと戦っていたんだな、と。
戦場にいる人間は、
周囲を見る余裕がない。
生き残ることで精一杯だからだ。
安心感が生まれると、
心の中に空き場所ができる。
その空き場所に、
何かが自然と広がっていった。
社員Aは、
それを「愛」と呼ぶしかなかった。
特別な恋愛感情ではない。
誰かを独占したい気持ちでもない。
もっと静かなもの。
子供が笑っていると、
よかったなと思う。
老人が元気そうだと、
安心する。
店員が親切だと、
ありがたいと思う。
そんな感情だった。
若い頃は違った。
認められたかった。
愛されたかった。
恋人が欲しかった。
結婚したかった。
異性から評価されたいと思った。
だが退職後、
少しずつ変わっていった。
異性に狂わなくなった。
もちろん好意はある。
美しいと思うこともある。
だが、
人生の中心ではなくなった。
昔は、
手に入らないものばかり見ていた。
今は、
既にあるものを見る時間が増えた。
欲しいものも減った。
流行の服。
高い時計。
立派な車。
昔は羨ましかった。
だが、
本当に欲しいかと聞かれると、
そうでもなかった。
欲望が消えたわけではない。
ただ、
必要以上に膨らまなくなった。
社員Aはある日、
ノートに書いた。
『欲望が減るのは老化ではない』
そして少し考え、
『安心が増えた結果かもしれない』
と続けた。
昔の自分は、
空腹だった。
金銭的にも。
精神的にも。
承認にも。
愛情にも。
だから何でも欲しかった。
今は違う。
満腹ではない。
だが飢えてもいない。
その差は大きかった。
夕暮れ。
社員Aは公園のベンチに座っていた。
子供たちが遊んでいる。
若い夫婦が歩いている。
犬を散歩させる老人がいる。
その光景を見ながら、
社員Aは静かに笑った。
昔なら、
羨ましかったかもしれない。
今は違う。
ただ、
「みんな生きてるな」
そう思った。
そしてそれだけで、
少し嬉しかった。




