酔いが見せる幻想か ※
橘が作った料理は、どれも抜群に美味しかった。
トマトベースのシンプルなパスタに、野菜のポタージュスープ。トマト、ブロッコリー、レタス、ベビーリーフなど色鮮やかな野菜の上に半熟卵が乗ったフレンチサラダ。あの短時間で数品を手早く仕上げた彼の料理の腕は、かなりのモノだろう。
「ご馳走さま。とっても美味しかったです」
「それは良かった。簡単な物しか作れなかったけど、時間があればもう少し凝った物も作れたんだけどな。鈴香との買い物が楽しくてさ、あっという間に夜になってたよ」
「そっか……」
橘も楽しいと思ってくれていたのか。
そんな些細な一言にも心がフワフワする。
「少し飲む? さっき買った白ワイン。明日も休みだし、映画でも観ながら飲むのもいいかなって」
「えぇ」
「じゃあ、先にソファ行ってて。軽くツマミ作って持って行くから」
二人分のワイングラスを受け取るとその足でソファへと向かい、テーブルが置かれたラグの上へと座る。程なくして、ワインとツマミが乗った皿を手にやって来た橘がソファへと座った。
「何でソファに座らないの?」
「こっちの方が楽だから」
「……そう」
目の前に差し出されたワイングラスを受け取ると口をつけチビチビと飲み出す。
よく冷やされた白ワインは口当たりもよく、爽やかな香りが鼻腔を抜けていく。ほんのりと甘く、スッキリとした喉ごしのせいか気づいたらグラスが空になっていた。
暗く落とされた証明と淡々と流れる映画の映像。静かな時間が流れる室内は、わずかに動いた時に聴こえる衣擦れの音ですら大きく響く。
ソファのギシッと軋む音に肩が震え、同時に感じた温もりに緊張感が走った。
「ちょっ、待って……」
「……鈴香、ダメかな?」
背後から肩を抱かれ、キュッと引き寄せられる。
「何もしないから……。ただ、こうしているだけ。約束した通り、鈴香がいいって言うまでは絶対に手は出さない。ただ、抱き締めたり、キスしたりは許してくれないかな? ダメかな?」
至近距離で響く艶めいた低い声が、頭の中を蹂躙し身体から力が抜けていく。ダメだと分かっている。ここで断らなければ、なし崩しに全てを許してしまいそうで怖い。
フルフルと頭を振れば腕の力が強まり、さらに抱き込まれてしまう。首筋に感じる熱い吐息と嗅ぎ慣れた彼の香りが鼻腔を抜け、甘い痺れが全身を支配する。
「ダメ…よぉ……」
拒否の言葉はあまりに小さく掠れていた。首筋に一瞬感じたチリっとした痛みが全てを霧散させていく。
あぁぁぁ、もうどうでもいい……
フワフワと揺蕩い、思考を放棄した脳は、全身を巡る甘い痺れだけでは足りないと貪欲に刺激を欲しがる。
「足りない……」
むずがる子供のように暴れ出した私に驚いたのか、腕の拘束が緩んだ隙に振り向き橘の頬を両手で包み、真っ直ぐに見つめる。
「こんなんじゃ足りないのぉ……」
熱く湿った肉感的な唇にむしゃぶりつき、舌で味わう。開いた歯列の隙間から舌先を侵入させれば、直ぐに彼の舌に絡めとられ、離さないとでも言うように吸われる。
強く甘い痺れが駆け巡り、歓喜に全身が打ち震えた。
あぁぁぁぁ、これが欲しかった。
わずかに漏れる吐息すら奪うが如く重ねられた口淫は、いつしか主導権を奪われていた。
「……もう、止まれない。本当にいいのか?」
切羽詰まった声で紡がれた言葉に頷いてしまえば、もう後戻りは出来ないと分かっている。自分の意思で彼を受け入れる意味も分かっている。
でも、もう止まれない。
これ以上の言葉は必要なかった。自ら唇を重ね、大きな背中に腕を回す。
深くなるキスに溢れた唾液が顎を伝い、首筋を流れていく感触ですら焦ったく、与えられる口淫に貪るように応えていく。
「鈴香…綺麗だ……」
掠れた声に閉じていた瞳を開ければ、欲望を宿す瞳に射抜かれ、胸がキュっとなり視線を外すことも出来なくなる。
あっという間に脱がされたパジャマは何処かへ投げられ、ブラジャーとショーツのみの心許ない格好を視姦され思わず両手で胸元を隠す。しかし、その行為を許さないとでも言うように頭上で手を固定されてしまった。
「やっぱり似合っている。真っ白な肌に淡いブルーが映えて、とても綺麗だ」
「……似合うわけない。こんな可愛らしいブラジャー、三十路のおばさんに似合うわけない」
熱に浮かされたように紡がれる賛美の言葉にも、心の奥底に潜む劣等感が邪魔し素直に受け取れない。
「わかってないなぁ。大人の女が着けるから意味があるんじゃん。可愛いブラと大人の色気、そのギャップに萌えるってわかんないかぁ」
「そんなのわからない」
「それに鈴香は普段とのギャップがねぇ。普段はお固いイメージなのに、sexの時は大胆になる。今だって、誘ったのは俺だけど押し倒したのは鈴香だしね」
「そんなこと……」
ないとは言えなかった。橘と関係を持つようになり、彼の言葉に煽られて大胆な行動を取ってきた自覚はある。売り言葉に買い言葉なやり取りが、心の奥底に潜んでいた過激な性を解放してしまった。
元彼とのsexが淡白で受け身だっただけに、予想外の変化を指摘され正直驚いていた。
「俺は嬉しいけどね。欲望のまま俺を求めてくれて。嫌いだったらそんな事しないだろう」
「……知らないわよ」
今の私の気持ちを見透かされているようで居た堪れない。こんなに分かりやすい性格してなかったはずなのに。
自分でも知らなかった一面を暴かれていく感覚に心がザワつく。ただ、それを嫌だと思えない自分の感情が一番タチが悪いのかもしれない。
「そういう素直じゃないところも可愛い」
「大人を揶揄わ…ない…で……」
「大人ねぇ。鈴香は大人じゃないよ。年下の男に翻弄されて、sexを知ったばかりの女と同じで、性に対して貪欲だ。だから理性なんて捨てて溺れて仕舞えばいい。何も考えず、俺に溺れて……」
「ひっ…あぁぁぁ……」
胸の谷間に感じた痛みに思わず声を上げれば、慰めるようにチロチロと舌を這わされむず痒い感覚に身体を捩る。
「綺麗についた、ココ」
ジンジンと熱を持ち痺れる胸元を指先でトントンと叩かれ、見下ろせば真っ赤に色づいた花びらが一つ散っていた。
「キスマーク……、俺のモノっていう印。たくさん付けたら他の男に取られる心配もなくなるかな? 鈴香気づいてないでしょ。狙ってる男が社内に沢山いるの」
「えっ!? そんな男いない……。下僕がいるとかいないとか言っているのも、揶揄い目的のただの噂でしょ」
「ほら。分かってない。下僕志願者がいるのも事実だけど、鈴香がフリーだと知って動き出した奴らもいる。鈍感にも程があるだろ」
「そんな事ないわよ」
「俺が牽制してなければ今頃喰われてるわ」
「まさかぁ……」
橘の言葉が、にわかには信じがたい。
元彼に何度も浮気されるような女だ。容姿が特別良いわけでもなければ、男受けする可愛らしい性格をしているわけでもない。仕事に関しては、上司部下、男女問わず間違った事をしていれば指摘するし、それに反感を覚える者も沢山いるだろう。性格もどちらかというと男勝りで勝ち気。
こんな女の何処に惚れる要素があるのだろうか?
だからこそ、元彼の前では出来るだけ可愛い女の振りをしていたと思う。聞き分けが良く、従順な女の振りを。その結果、浮気され捨てられたのだから、元彼と付き合っていた十年の努力は全て無意味な悪あがきだった。
「本当、そろそろ自覚してくれ。自分がどれだけ男の欲を煽る存在かって事を。男顔負けの豪胆さと信頼に足りうる仕事振りで社内でも一目置かれる存在なのに、たまに見せるオトボケ感。アンタのそういう無防備なところに男の欲が刺激されるんだよ。高嶺の花のアンタでも手に入るんじゃないかってね。二人の時は別の顔があるかもって、想像するだけでヨダレが出るわなぁ。暗がりに一人で行くとかやめてくれよ」
以前に明日香からも同じ事を言われた覚えはある。でも、橘からも言われる羽目になろうとは思ってもみなかった。
「……はは…はいぃ……」
「さて、まだ分かって無さそうな鈴香ちゃんは信用出来ないので、やっぱり身体中にキスマーク付けておこうね」
「へっ…えっ…ひぃぁぁぁ……」
首筋に落とされた唇が強く皮膚を吸い上げ、痛みと共に与えられた赤い鬱血痕にさらに歯を立てられる。強い痛みが脳髄へと伝わり、生理的な涙が溢れて頬を伝っていく。
「泣かせちゃったね……」
優しいキスの雨が頬を流れる涙を吸い取っていく。
「鈴香、ごめん。先に謝っておく。もっと泣かせると思うから」
耳元で囁かれた言葉に全身が戦慄く。
鈴香を俺でいっぱいにしたい……




