同期と言うには、近すぎて
会社から二駅先、須藤課長に指定された場所は、小洒落た和食割烹だった。引き戸を開け紺色の暖簾をくぐれば、檜のカウンターに並べられたおばんざいの皿から良い匂いが漂ってくる。カウンター八席だけの小じんまりとした店内は、課長の姿以外に客はいない。カウンター越しに着物姿の女将に会釈をし、奥に座る課長の元へと足を進めた。
「あぁ、冬野、お疲れさん」
「須藤課長、お疲れさまです。お待たせして申し訳ありません」
「いや、俺も今さっき来たところだ」
江戸切子の徳利に入った日本酒が半分なくなっているところを見ると、今さっき来たと言う言葉は嘘なのだろう。相手に気を遣わせない言葉をさらりと言えるところが上司としても、大人の男としても出来た人だと思う。
「そんなことより、冬野。課長って言うのはやめてくれないか。同期なんだし、プライベートくらい仕事を忘れたい」
「では、須藤さん……、慎二さんとでもお呼びしましょうか?」
「はは、慎二さんときたか。俺は、それでもいいが、冬野の彼氏に悪いな」
課長の口から飛び出た『彼氏』と言う言葉に、一瞬、橘の顔が頭に浮かぶが、慌ててそれを打ち消す。
もう、恋人契約を解消したのだ。橘とは赤の他人であって恋人でもなんでもない。
そもそも、恋人ですらなかったわね。
「彼氏? そんなものいませんよ」
「えっ!? だってお前……、付き合っている彼氏がいただろう?」
「あっ……、そう言えばいましたね」
「そう言えばって、彼氏の浮気がどうとかって荒れていたのは、最近の話じゃなかったか?」
「あぁぁ、別れましたよ。いや違うか。捨てられました、誕生日に」
「嘘だろ!! 本当に別れたのか?」
「別れましたよ。ただ、捨てられたって言った方が正しいですけど」
顔を歪め、口元に手を当て目を伏せた課長を見て、慌てて言いつのる。
「あっ、大丈夫ですよ。思ったより引きずっていませんから」
本当に不思議だった。最悪の誕生日当日は何もかもがどうでも良くなり、全てのモノが色褪せて見えた。自棄になり、寂しさを紛らわすためだけに行きずりの男を漁るほどには壊れていた。でも、今はどうだろう。日々を思い返してみても、元彼の事を思い出しもしない。それどころか、女にダラシない奴とよく五年間も付き合っていたなと冷静に分析している自分すらいる。
たった数ヶ月前の出来事なのに、『橘真紘』と過ごした日々が良くも悪くも強烈で、鮮烈な印象を私に刻み込んでいった。
彼は言った。
『自分を見ようとしない私の心に存在を刻み込みたかった』と。
彼は見事に私の心の奥底に強烈な印象を残した。
元彼と同等のクズ男。いいや、それ以上かもしれない。女を弄び、一時の快楽が満たされれば容赦なく切り捨てるような男だ。ただ、心に巣食って離れないのは、刹那に魅せる全てを諦めたような空虚な瞳のせいなのだろうか。
どうしてこうもクズ男ばかりに惹かれるのよ。
自分の男運の悪さにため息しか出てこない。
「すまん。まさか、別れていたとは……、傷口に塩を塗ったな。引きずっていないのか?」
「えぇ。全く」
「信じられん。浮気男と何度も別れろって言ったのにかたくなに別れなかったじゃないか。サバサバした性格の癖に何故か恋愛に関しては意固地になってたというか、かたくなだったよな」
確かに何度浮気されようが、何度別れるように言われようが、かたくなに別れようとはしなかった。必死に頭を下げて謝る元彼に絆されて、最後には必ず自分の所に戻って来ると信じていた。彼にとって私は特別な存在だと思い込み、他の浮気相手とは自分は違うと、愛されていると信じ優越感に浸っていた。それがいかに愚かな事だったのか、今なら分かる。愛されていたと思い込んでいたのは幻想でしかなかったのだ。
「そうですね。彼にとって私は都合の良い女だっただけ。そんな事にも気づかないくらい、以前の私は愚かだった。それに気づけただけ成長出来たのかもしれません」
「……冬野、変わったな。今のお前、憑き物が取れた顔しているぞ。何かあったのか? 冬野のかたくなな心をぶち壊す程の何かが?」
「えっ!?………」
課長の言葉に、突然頭に浮かんだ『橘真紘』の顔を慌てて打ち消す。
アイツの訳ない。彼は、ただの後輩よ……
「ははっ、ある訳ないですよ。そんなことより、課長はどうなんですか? 入江製薬の田ノ上部長のお嬢さんとの婚約話が出ているとかなんとか?」
「あぁ、あの話か。乗り気じゃないんだが、先方がしつこくてな。あの部長、ねちっこいからさ。下手に断ると後々の仕事に響くんだわ。デカい仕事も控えているしな」
「あぁ、例の億越えの新薬開発の件ですか」
「あれの締結が済まない限りは、断れんのよ」
確かに、入江物産との共同開発案件は、我が社の威信をかけた一大プロジェクトだ。ただ、共同開発とは名ばかりで、医薬業界に販路の薄い入江物産に代わり新薬を売るのが我が社という前代未聞の事業内容なのだ。先方の機嫌を損ねれば、他の製薬企業に鞍替えされる危険をはらんでいる。しかも、田ノ上部長は開発部門の窓口でもある。
「確かに、今は不本意でも断れませんね。課長、ご愁傷様です」
「おい、冬野。本当に、そう思っているか? 他人事だと思って」
「だって、他人事ですもん。我が社のために頑張ってくださいね、課長!」
「あぁぁ、仕事一筋、お前はそう言う奴だった」
「仕事一筋って、年頃の女性にひどいですよ。私だって、恋の一つや、二つ……」
「……、そうか安心した。最近の冬野、仕事、仕事で心配だったんだよ。無理すんなよ」
ぽんぽんと頭を撫でられ、心が跳ねる。言葉の節々に散りばめられた優しさに荒んだ心がわずかに癒される。
よく見ている人だと思う。
辛さに気づき、サッと手を差し伸べられる人。
敵わないなぁ……
「須藤課長……、ありがとうございます」
「あぁ、無理すんなよ。同期なんだからさ」
江戸切子のグラスに注がれた冷酒に口をつければ、フルーティーな香りが鼻腔を抜けていく。
言葉もなく過ぎていく時間の心地良さに、暗く淀んだ心が晴れていくような気がした。




