変わらない日常
「はぁぁ………」
パソコンの画面を見つめ大きなため息を吐き出す。時計をチラッと確認し、あまりに進んでいない長針に机の上へ突っ伏したくなった。今日の仕事は片付き、あとは定時に帰るだけ。仕事も順調、最近は残業をする事もなく、after6を謳歌し放題の好調子だと言うのに釈然としない。
原因は分かっている。あまりに平和過ぎるのだ。
橘真紘と関わる事もなくなり、私の心は平和そのものである。気まぐれに呼び出される事もなければ、意味不明な要求に応える必要もない。元の淡々とした生活に戻り、心を乱されることもなくなった。今の私の心は凪いでいる。水面を揺らす風すら吹かない日々は、私の望んでいたものだ。なのに、ため息ばかりがついて出る。
「どうしたの? さっきからため息ばかりついて。もしかして仕事終わってないとか?」
「終わってるわよ」
隣の席の明日香に小声で話しかけられるも、そっけない返事しか出来ない。
「そりゃそうか。あまりの集中力に誰も話しかけられないもんね。最近じゃ、『鉄壁の女王様』から『冷徹な女王様』に呼び名が変わったしね。話しかけでもしたら射殺されるってね」
「はぁぁ、何よそれ……」
だから仕事中に話しかけられなかったのか。決して不機嫌オーラは振り撒いていないはずだけど、この前も話しかけて来た後輩男子に一瞥くれただけで逃げられたような気がする。まぁ、誰にも話しかけられないから仕事が異様にはかどったのも事実だけど。
「下僕信者は増えるばかりよねぇ~。ただ、鈴香って意外と抜けてるところもあるから、夜道には気をつけるのよ。世の中には、女王様を組み敷いて、跪かせたいって考える変態もいるからね」
確かに若干一名、そんな奴がいた事を思い出し苦笑いが溢れる。
「ご忠告感謝します」
「素直でよろしい!」
そんなふざけた会話を続けていると、フロア内が俄かに華やぐ。橘真紘と彼のサポート役、近藤麻里奈ちゃんが入って来たのだ。ここ数ヶ月ですっかり馴染みとなった光景をシラけた気持ちで見つめていた私に明日香が耳打ちする。
「あの二人最近良い感じよね。営業とサポート役ってだけじゃなくて、何か雰囲気が甘いって言うか……。少し前までは、麻里奈ちゃんの一方的な恋心って感じだったけど、橘君も満更でもなさそうじゃない? やっぱりあの噂本当だったのかしらね」
「噂?」
「そう。鈴香と同じように麻里奈ちゃんも橘君のサポート役になってから嫌がらせを受けていたらしいのよ。貴方の時みたいなバカをやらかす女は居なかったけど陰でネチネチとね。麻里奈ちゃんは鈴香と違って普通の女の子でしょ。そんな嫌がらせが続けば参っちゃうじゃない」
「ちょ、ちょっと喧嘩売ってる!? 私もか弱い女ですけど!!」
かぶせるように叫んだ言葉に、近くの席からの冷たい視線が突き刺さり、慌ててトーンダウンする。
「またまたぁ。鈴香はか弱い女じゃなくて敵を完膚なきまでに叩きのめす女王様じゃない。守られるタイプじゃないない。まぁ、それはさておき、どうやらその嫌がらせをしていた女達を橘君が特定し制裁を加えたらしいの。大した事はしていないと思うけど、陰で嫌がらせするような女は最低だとでも言ったんじゃないかしら。好きな男にそう言われたら絶望的よね。嫌がらせはなくなり、橘君と麻里奈ちゃんの仲が急接近しましたとさって感じね。ほらっ! 見てよ。麻里奈ちゃんの嬉しそうな顔。夕飯にでも誘われたんじゃない」
「……そうかもね。年も近いし、お似合いのカップルよね」
あんな顔、私には一度も見せなかったのに……
爽やかな笑顔を振り撒き談笑する橘を見つめ、ドス黒い感情に支配されそうになる。
私、何考えているんだろう。
真っ黒に染まる感情を断ち切るように、デスク周りをそそくさと片付け始める。
「定時であがるの? じゃあ、一人者同士、飲みに行きますか?」
「それもそうね」
了承の返事をしつつ念のためメールを確認するべくスマホを開ける。
「あっ! ごめん無理みたいだわ。課長に呼び出された」
「そっかぁ、残念。じゃあ、また今度ね」
身支度を終え、手を振り去って行く友の背を見送り画面に目を落とす。
『今夜良ければ飲まないか?』
こうしてな何かあるたびに気にかけてくれる同期の優しさに笑みがこぼれる。
『了解です』の文字を打ち込みメールを返す鈴香は気づいていなかった。そんな様子をジッと見つめる目があったことに。




