9話
めちゃくちゃお久しぶりです。
数日経って、段々生活リズムが掴めてきた。何もせずに自室にい続けるよりはやることがある方が気が楽だし、体調も安定してきたように思う。お医者さんにも、もうしばらく様子を見て大丈夫そうならダンスレッスンも始めていいと言われた。
幸いというべきか、礼儀作法は身体に染み付いたものがあって無意識に出来るものも多かった。知識として覚えているわけではないから勉強し直す必要はあるけれど、付け焼き刃の所作では恥をかいてしまいそうだと思っていたから、その心配は多少薄れてほっとした。
家に帰ってからは授業の復習をしつつ、自室――リュシルの部屋の中を漁っている。まだ日記も引き出しの鍵も見つかっていない。
夕食は、結局週四日はオールヴェルニュ家で食べることになった。両親はもうちょっと減らしても良いのではと渋っていて、”リュシル”は愛されていたのだなと申し訳なさが増した。とはいえオールヴェルニュ家の方が格上なのでナミュール家として強く断るわけにもいかず、アレクシ様の要望通り週四日となったのだ。
「仕事行きたくないな。せっかくリュシルが僕の家にいてくれるのに」
「我儘言ってないでお仕事行ってちょうだいな」
「なんかちょっと僕の扱い適当になってない?」
アレクシ様が不服そうな顔をするけれど、いちいち真面目に反応していたらキリがないことをこの数日で学んだのだ。それになんだかんだアレクシ様は真面目だから最終的にはちゃんと出仕するし、王子様が乗った馬車を家の前に待たせておいて毎日こんな問答をするのだから、私としては色んな意味でさっさと行ってほしい。
せっかく僕の家に家庭教師を呼んでいるのにこれでは意味がない、とかなんとか不平不満を垂れながら渋々出て行ったアレクシ様を玄関先まで見送ってから、私も授業部屋へと向かう。そもそも私自身はこんなに早くからオールヴェルニュ家に来る必要はなく、せめて朝は会いたいと駄々を捏ねたアレクシ様に押し負けて朝早くからオールヴェルニュ家に来ている。
「あの、アレクシ様を悪く思わないでくださいませ」
この数日で少し打ち解けたメイドのリコがおずおずと話しかけてくる。
彼女は年がリュシルと近くて、三個上の商家出身の女の子だった。元々のリュシルとも交流があったようで、リュシルが大怪我をしたと聞いた時はたいそう心配してくれていたようだ。
「アレクシ様は、リュシルお嬢様のことが好きなだけなのです。愛情が少々暑苦しいこともあるかもしれませんが……」
「リコ、自分の主のことをそこまで言わなくていいのよ」
ここ数日で分かったことは、リコはちょっと私――というかリュシル贔屓なところが強くて、時々アレクシ様に失礼な態度になりがちだということだ。
「でも、アレクシ様とリュシルお嬢様がくっついてくれないと私はリュシルお嬢様に会えなくなってしまいます」
「……私がこの家に来られなくなっても、どこかで会おうと思えば会えるわ」
「そんなことになったらアレクシ様は自害なさってこの家は大変なことになりますよ!?」
リコが目を見開いて声を荒げる。周りの使用人の目が一気にこちらを向いて、リコは我に返って恥ずかしそうに周りに軽く頭を下げた。他の使用人たちは「いつものやつね」といった様子で自分の仕事に戻っていく。
「大丈夫、円満にするから」
「それまさか円満な”婚約破棄”のことではないですよね……?」
不安そうなリコに曖昧な笑みを返して授業部屋の扉を開ける。
婚約破棄ではない。円満に、元のリュシルをこの身体に戻して私はこの世界から消えるのだ。
***
リュシルが僕の家にいる。
その事実だけで嬉しくて頬がだらしなく緩んでしまう。
「……聞くのもめんどくさいんですけど、俺は優しいから一応聞いてあげますね。アレクシさん何かあったんですか?」
僕に書類を提出しに来た部下であるキースが、呆れた顔を隠す気もない様子で近づいてくる。
キースが執務室に入ってきた時に僕の顔を見るなり「うーわ」とか言っていた気がするけど、今日の僕は機嫌がいいから全然気にしない。
「リュシルが僕の家で家庭教師の授業を受けることになったんだ。しかも週に四日は僕と一緒に夕食を取ってくれる。今日も家に帰ったらリュシルがいるんだよ? これを喜ばないわけがないよね? むしろもう家に帰りたい」
「喜ぶハードルが世間一般の仲のいい婚約関係と比べたら随分低いですが、まあ、前は結構アレでしたからね。アレっていうか、むしろ嫌われててもおかしくないっていうか」
「は?」
「あーなんでもないでーす」
低い声で聞き返すとキースは悪びれずに僕から視線を逸らした。
「ナミュール嬢、記憶喪失になったんですよね? 稀代の才媛が勿体無い。早く記憶戻るといいですね」
「……はははっ!」
キースが何気なく言った台詞に、堪えきれなくなって笑いが漏れ出た。
キースが怪訝な顔をするのを見て、僕は歪に口角を上げる。
王子やキースが言うことがこの世界での彼女への評価で、記憶喪失になった人には「早く記憶が戻ると良いですね」と言うのが普通の反応だろう。
馬鹿馬鹿しい。
何が才媛だ。何がこの国の損失だ。知ったことか。彼女を欲する人間がこの世で僕一人になるなら万々歳だ。早く世界にとって価値がなくなってしまえばいい。
「早く家に帰ってリュシルに会いたいな」
僕はうっそりとした笑みを浮かべて、僕の家がある方角の窓の外を眺める。
キースは「……こーわ。失礼しましたー」と引き気味な声色で形ばかりの礼だけをして執務室を出て行った。
***
ブシェ先生は丁寧に教えてくれるし、予習復習をしっかりやっている限りは厳しいとも感じない。間違えたからといってキツいことも言うわけではないし、良い先生だ。厳しいところがあるなら、出してくる課題の量くらいだろうか。でもそれも日本での高校時代と大して変わらない。
「それでは、今日の授業はここで終わりです。この単元の練習問題が今日の宿題です」
「わかりました。……あっ、先生」
ブシェ先生が授業道具を持って出ていこうとするのを呼び止める。
「……なんでしょう。何か質問がありましたか?」
「先生は前のリュシルを知っているんですよね?」
「……授業に関係ない質問ならお答えしません」
ブシェ先生はぴりと張りつめた様子でドアノブに手を掛ける。
この数日、ブシェ先生との仲は決して険悪ではなかった。授業の合間の休憩中に当たり障りない雑談くらいならしていたし、ブシェ先生の自然な笑みも何度か見た。
だからそろそろ切り出しても大丈夫かと思ったのだけれど、そこまで警戒されるとは。
記憶喪失の人間が記憶を取り戻すために前の自分のことを知りたがるのは、そこまで不自然なことではないはずだ。実際は違うのだけれどそれはブシェ先生に説明していないし。
なのにここまで急に警戒されるのは、前のリュシルのことを訊かれるとブシェ先生にとって困ることがあるのだろうか。それとも、アレクシ様に何かを口止めされている?
「前の私と比べて、今の私は学力はどうなのか気になるんです。前の私とあまりに様子が違ったら、前のリュシルを期待している方々をがっかりさせてしまうでしょう? だから知りたくて」
「……ナミュールさんは以前と比べても知能自体は遜色ありませんよ。知識は無くなっていますが、算学などは少し公式を教えるだけで授業をする必要もありませんし……むしろ……」
「どうかしましたか?」
「……いえ、とにかく貴女が気にすることは何もありません。この調子で励んでください」
ブシェ先生はかぶりを振って、私の次の言葉から逃げるように、お辞儀だけは完璧な所作でこなして部屋を去った。
前のリュシルのことを知っている人から何か聞ければ手掛かりになるかと思ったのだけれど、あの様子ではブシェ先生から何か聞くのは難しそうだ。
授業のカリキュラムがひと段落するまでは朝から晩までオールヴェルニュ家にいるから、接点を持てる人が限られる。
それに前のリュシルの交友関係もまだ把握できていない。せめてリュシルの日記が見つかれば分かることも増えると思うんだけど……。
「……はぁ」
「リュシル、お疲れ様。授業疲れた?」
「っ、アレクシ様、おかえりなさいませ」
「ふふ、うん、ただいま」
アレクシ様が上機嫌に私の手を取る。
授業が終わる頃にアレクシ様が帰ってきて、私を食堂までエスコートしてくれるのがこの数日ですっかり習慣付いた。
前のリュシルにもしていたのだろう。それにこの国――この世界ではこういうエスコートも作法のうちなのかもしれないので、彼に従っている。
「アレクシ様はお疲れでは?」
食堂までの道中ずっと沈黙なのは厳しいので、当たり障りない話題を振る。
輝かしい金髪がさらりと揺れて、流麗な造形の顔がこちらを向く。相変わらず信じられない綺麗な顔だなと思ったけれど、前よりは見慣れてきた気がする。私がリュシルとして過ごすことにも慣れてきたからなのか。
「リュシルの顔を見たら疲れなんて全部吹っ飛んだよ」
「……そう」
中身が違っても、リュシルの見た目ならそれだけでいいのだろうか。
「ずっとここにいてくれていいんだよ?」
「そういうわけにはいかないわ」
「即答しなくてもいいのに……」
食堂に着いて、アレクシ様の向かい側の席に座る。
今日も今日とて豪華な洋食のコース料理が運ばれてきて、まだ食べてないのに想像だけでコルセットに締められたお腹が胃もたれを錯覚した。
美味しそうなんだけど、実際すごく美味しいんだけど、せめてコルセットがなければ思い切り食べられるんだけど……!
「……ふふ」
「どうかしたの?」
いきなりくすくす笑い出したアレクシ様に首を傾げると、アレクシ様は楽しそうに料理のピーマンを指さした。
「リュシル、昔ピーマンが食べられなくて泣きながら僕の皿に移してきたよね。それをメラニーに見つかって怒られててもっと大泣きしながら僕に抱き着いてきて、それが可愛かっ……、あ……」
アレクシ様は懐かしそうに、大事な思い出を慈しむように話して、気づいたのか言葉が途切れて表情が昏く曇る。私がその”リュシル”ではないことを思い出したのだろう。
「ごめん……今の君は覚えてないんだったね」
アレクシ様が私から視線を落として、誤魔化すように切り分けた肉を口に入れた。
余計なことを言ってしまった口を塞ぐみたいな仕草に、私は先ほど抱いていた疑問の答えを悟った。
アレクシ様は、私が”リュシル”ではないことを頭のどこかでは分かっている。しかしそれを心が受け入れられてないから、単なる記憶喪失ということにしたいし、なんなら元の今まで通りの”リュシル”だと思いたいのだろう。
それなら、アレクシ様に”元のリュシル”を取り戻すために手伝ってもらうのは諦めた方が良さそうだ。そんな精神状態がギリギリの人に無理に現実を直視させるのも酷だし、すぐにもとに戻れればいい話だ。もしこの入れ替わりが長引きそうだったら、彼の精神状態の様子を見つつまた話を切り出そう。
元のリュシルの性格なんかは知らないから、元のリュシルを演じてあげたりとか器用なことはできないけど……と思いながらカトラリーを持ったところで、ふと手が止まった。
「”リュシル”はピーマンが苦手だったのね」
「そうだよ」
「私もピーマンが苦手で……そんな偶然あるのね」
まあ、ピーマンってわりと野菜の中では嫌われがちだしそういうものかもしれない。というか、この世界にも普通にピーマンがあることにも驚いたけれど。
「……そうなんだ」
曖昧な笑みを浮かべるアレクシ様と、お皿の上で存在を主張している生のピーマンを見比べて、私は色々なものを頭の中で天秤にかけた結果口を開いた。
「……あの、このピーマン食べて欲しいって言ったら、怒る?」
言いながら、いい歳して子どもっぽいこと言うのはリュシルっぽくなかっただろうし彼は機嫌を悪くしてるかもと過ぎた後悔が思考を巡って、冗談って言おうと思いながら顔を上げると、アレクシ様は苦しそうな笑みを浮かべて私を見つめていた。……たぶん、私じゃなくてリュシルを。
「いいよ。全部食べてあげるし、僕が代わりにメラニーに怒られてあげる」
きっと前にもリュシルにそう言ったのかなと頭に浮かんで、私は「やっぱり冗談です」とは言えなくなった。
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