You And I
人間は泣きながら生まれ、泣きながら死んでいくものだ。
夜空に輝く星に似た光を見ながら、アトロポスは目覚めた。
星の光は緩やかならせんを描くように暗黒の海を流れていた。
機能不全に陥っていたらしく、状況を理解できない。
ここは……どこだ。
他に状況を推察するための情報はないか。視線を下に移すと細く美しい指が目に入る。現在、憑依の対象となっている霧生冷河の手。そして、星の光が回っているのではなく、冷河の体が回転しているのだということをアトロポスは理解した。
キリウレイカ。
運命に翻弄され、多くのものを破壊した少女の名だ。
愛する者を奪われて、運命に絶望したレイカは運命を壊そうとした。
そのために多くの異次元世界を消滅させてきた。
キリウレイカは悪人だったのか。
いや、そうではない。
彼女は弱きものに手を差し伸べる優しさを持った人間だった。
キリウレイカのやったことは罪だったのか。
関係のないものにとってはそうだろう。
まったくあずかり知らぬことで消滅させられて迷惑に思わないものはいない。
罪があるというのなら、タキザワケイタのほうだ。
最初に禁忌に触れてしまったのが彼なのだから。
キリウレイカは死の運命に魅入られた少女だったが、タキザワケイタには受け入れられなかった。
タキザワケイタは、彼女を生かすために異次元世界へ干渉し、他者の運命を捻じ曲げてしまった。
人の身に余る力を持って生まれたばかりに……。
どのような事情があろうとも、人は神の領域に踏み込んではならない。
死者の復活を願ってはいけないのだ。
愛するものを救いたい。
その純粋で危険な愛こそが、宇宙に破滅をもたらすスイッチとなる……。
(……うぅ……ここは………?)
「目覚めたか」
体の持ち主である霧生冷河本人だ。
クロトとの戦闘で神器を破壊されたうえ、レイカの捕縛が尾を引いている。
もはや彼女を眠らせる力も残されていない。
「ここは赤い闇の深淵……さらにその深層だろう。運命に翻弄された女が作り出した嘆きと慟哭の世界だ」
(その翻弄された女って……それがわたしってこと?)
「知っていたのか」
(眠らされてる間に、あなたの気持ちが伝わってきてね。あなたが話してくれなかったことぜんぶ……」
「そうか。ならば理解していると思う。お前を助けることはできない。ここで命を散らしてもらうことになる」
(そっか……)
「すまない。お前には、もっとまともな死に方をさせてやりたかった」
(…………そっか)
冷河は諦めたようにつぶやいた。
生き残ってはならないことを悟っているのだ。
「わたしを恨んでいないのか」
(ムカつきはしたけど……しかたないと思ってるわ。『お前は世界に災厄をもたらす女だ』なんて言われても、わたしの性格上信じなかったでしょうしね)
「……すまない。なんの慰めにもならないだろうが、お前を一人にはしないよ。わたしも最後まで付き合おう」
(あのおばあさんみたいに?)
「なに?」
(はじめてあなたに会ったとき、なんて冷酷な奴なんだろう、って思った。横断歩道で亡くなったおばあさんを見つめるあなたの目がとんでもなく冷たく見えた。そこらの石とか雑草みたいに、人をただのモノとしか見ていないんじゃないかって感じたの)
「…………」
(でも……そうじゃなかった。あの時、あなたは、おばあさんの背中を引き裂くような痛みを引き受けてた。あの人が苦しまないように、あなたがすべて。すごく痛かったでしょうに、あなたは何でもないみたいに無表情で……。いいえ、おばあさんだけじゃない。それよりも前からずっとあなたは、死んでいく人たちの苦痛を引き受けて……)
「大したことはない。痛みなど、わたしにとってはただのデータだ」
遠隔念動装置の用途は幅広い。物体の牽引と射出に留まらず、その物体の構造を組み替えたり、他者が思考する際に生じる微弱な電気信号を読み取れる。他者の感じる苦痛を取り去ることもそのひとつだ。
運命の女神は、人間を幸福にするために存在する。
人間を死の苦痛から解放することは、女神としての義務だ。
(ウソばっかり。もっと素直になったら? そうしたら優しい女神だって、誰かにわかってもらえるよ)
「からかわないでくれ。運命の女神が人間にしてあげられることは、これくらいしかない」
その役目もしばらく休業になるだろう。
誰かに回収してもらわなければ脱出できそうにない。
冷河の死を看取ったあと、機能を停止するまで深淵に取り残されるだろう。
停止後は他の女神による相互バックアップが働く。
バカ姉どもに残された記録を用いて、新たな死と未来の運命アトロポスが誕生し、滞りなく役目を果たしてくれる。
もっとも、それはまた別の自分、ということになる。
霧生冷河とともに朽ち果てるアトロポスは、ここにいるわたしだけだ。
しばらくして、冷河が再び質問した。
(滝沢くんたち……どうなったのかな)
「わからない。もう一人のレイカに消されたか、それとも追い出されたか。どちらにしろ何もできないだろう」
(甘く見ないほうがいいわよ。あいつはわたしが育てた一番の男の子だからね。なにかびっくりするようなことをやってくれるかも)
「だといいがな」
仮に逃げ延びたところで滝沢恵太の寿命は残りわずか。指示を守らなかった場合を考慮して、彼の糸は切断してある。糸とはすなわち寿命。剪刃の神器の本来の使い道は、運命の糸を切断することにあるのだ。糸の壊れた部分を切り離し、現地時間八時十六分に死を迎えるよう細工を施している。一度切断した糸を修復するには、紡ぎの神器を使うしかないが、クロトのあのザマでは使いこなせまい。
死を受け入れなければ救世は成しえない。
この宇宙は病に侵されている。レイカという名の大病だ。
特効薬を作れぬまま病は蔓延し、とうとう残りの宇宙はあとひとつというところまで追いつめられた。
この世には個人の死以上の恐怖が存在する。
それは身近な家族、友人、恋人、さらには人類すべてを道連れにした消滅と、世界そのものの破滅。
滝沢恵太と霧生冷河の両名は確実に抹消する。でなければ彼らの生み出した地獄は終わらない。どちらかが生き残れば第二第三のレイカが生まれ、最後の宇宙も破壊されつくしてしまうだろう。この因果を断たなければ、人類に未来はない。
深淵に動きがあった。ドン、ドン、と巨大な太鼓を打ち鳴らしたかのような振動が身体を震わせる。
(なにが起こってるの)
「相が変化している……フェイズシフトの前兆か」
(……あいかわらず、何言ってるのかわからないって)
「赤い闇の深淵を成り立たせていたのはレイカの比類なき憎悪だった。空間を支える意思と意志が消失すれば深淵はおのずと閉じていくのみ」
(それってレイカが……もうひとりのわたしが死んじゃったってこと?)
「死んだというより、癒されたというべきか。長い時間をかけて堆積した氷が溶けだすように……。少年がやったのか」
(そうよ! きっと滝沢くんがやってくれたのよ)
「だとしたら朗報だな。長い時を漂流しなくてよくなった。フェイズシフトによる死は一瞬。重力や電磁気力など、我々が存在可能だった物理法則が破壊される。身体を構成する原子結合が解かれるだけなら何の苦しみもない」
(あなた……、人をがっかりさせる天才なんじゃない?)
それでも冷河は歓喜に湧いている。あまり期待を持たせたくなかった。
「助かるかもしれない、とは思わないほうがいい」
(どうして? 元凶のわたしが思いとどまってくれたんだし、美夏ちゃんも来てくれてたじゃない)
「フェイズシフトの到来まで一刻もあるまい。しかもわたしたちを発見する手段もない。広大な宇宙と変わらない空間で人一人見つけるというのは、砂漠の中から一本の針を探すよりはるかに難しい」
(美夏ちゃんの能力は? 誰がどこにいたって見つけられるってあなたがよく知ってるはずでしょ)
「フェイズシフトというのは、空間のすべてが煮え立つような現象。バカ姉の見ている座標と実際の座標にも狂いが生じているはずだ。限られた時間内で発見する確率は極めて──」
(もういい。ストップ。……可能性がゼロに等しい、ってのはじゅうぶんよくわかったから)
「理解できたか」
(そっか……それじゃあしかたないわね)
いよいよ最後の時は近い。
「人間は、泣きながら生まれ、泣きながら死んでいくものだ」
(それって苦しくて泣いてるのかな)
「生まれるときは皆そうだ。母の胎内から環境の異なる外界に引きずり出されて苦しいのは当然だろう。しかし、死ぬときの涙は違う。わたしの知る限り、死ぬときの涙は自己満足によるものだ」
(自己満足?)
「たとえ失敗ばかりの人生だったとしても、後悔を抱えて死にたがるものはいない。自分で自分のことを認める、許す、肯定する。そうすると死への嫌悪感が薄れるのだ。もう一人のレイカは、そういった自己満足を一切しなかったがな……」
(じゃあわたしには、同じ失敗をしないよう、悟ったお坊さんみたいな心境でいろってこと?)
「いや。お前には、最後の瞬間まで笑っていてほしいと、わたしは願う」
(……ぜったいムリでしょ! わたしまだ十代よ。やりたいことがいっぱいあったの。最後の最後までみじめでぶざまに見苦しく叫び続けてやるんだから!)
「そうか……」
(あーあー! 東大受験したかったー! 夢も叶えたかったー! もっと人に優しくしとけばよかったし、もっと家族といっぱい話しとけばよかったし、もっと友だちとも遊んでおけばよかったーー!!)
「どうした? 遠慮するな。好きなだけ叫ぶといい。お前の本当の気持ちを」
躊躇したことを吹っ切ったように冷河は叫ぶ。
(でもって、滝沢くんの気持ちにちゃんと応えておけばよかったーーーっ!!!)
「……どうやら、その願いだけは叶いそうだ」
(え?)
冷河の身体の回転が止まった。闇の中から引っ張りこむ力があった。重力の鎖が両脚をとらえている。アトロポスの使うキネシスに比べればはるかに弱いが、確実に冷河を引っ張っていた。
一回、二回、三回とロープを引き込むように滝沢恵太が闇の中から姿を現した。
そして、冷河の身体を包んだ。
「よかった……本当によかった……」
感極まったように恵太は大粒の涙を零した。
「……どうやって見つけた? 少年」
「あ……あ……アトロさん?」
恵太は面食らっている。抹殺されかけた相手なのだから無理もない。
「バカ姉の現在視は当てにならなかったはずだが。いったいどうやって」
「あ、いや……冷ちゃんの使ってた暗記カードが落ちてて……それを追ってたら、なんとか見つかりました」
その手にはちっぽけな紙が数枚握られている。
「こんなもので……」
深淵は、四方を壁に囲まれた迷路ではない。迷路が書き込まれる前の白紙のようなもの。目印をつけることもできない異次元の深淵から探り当てる確率はゼロも同然だったはず。
恵太は冷河を見つけたのではなく、引き寄せたのかもしれない。キネシスとは異なる未知の引力、意思と意志の力によって。
まさに愛のなせる業というほかない。
アトロポスは、恵太の胸ぐらをつかんで顔を寄せた。
「少年、今からいうことは決して難しい指示ではない。少なくとも深淵を泳ぐことに比べればな。染色体がXYのペアであるのなら容易にこなせることだ。なのにお前はいつも肝心なときに物事をしくじる悪癖がある。いいか、レイカが目覚めたら決して手を離すな。全身全霊をもってつかまえておくのだ。例によって悪態をつかれてもすべて無視しろ。殴られようが罵られようがだ。この娘が天邪鬼であることは理解しているはずだ」
「あ、はい……わかりました…………」
恵太は首をかくかくと縦にふる。
「よし……」
もう一人のレイカが癒された以上、冷河の身体を掌握する必要はなくなった。
冷河に交代すると、彼女は恵太の胸に顔を埋め手で叩いていた。
「……来るのが遅い。もっと早く迎えに来てよ。死ぬかと思ったじゃない」
舌の根も乾かぬうちによく言う。
「ごめん。いろいろ手間取っちゃって。とにかく、まずはここから出よう」
恵太は、身につけた指輪に向かって語りかけた。
「姉さん、冷ちゃんを見つけたよ。これからそっちに戻る」
「よくやったーっ、グーット! すごいっ」
バカ姉の歓声に続きラケシスの警告。
「普通に来た道を戻ってたら間に合わないよ。キネシスモジュールを最大出力で使って」
「どうしたら?」
「帰りたい場所を強く念じて。正規の手順じゃないし、一か八かにはなるけど、それで空間と空間を繋げられる」
「やってみる」
たしかに、残された時間で退去する手段はそれしかないだろう。
キネシスモジュールは、掴みたいものを指定して引き寄せる機能を持つ。掴むものに空間を指定することもできる。空間を引き寄せることで間を縮め限りなくゼロにする、つまり空間跳躍が可能だ。
このワープによって異次元世界間を移動することもできる。
問題は、本来は専用装置を用いた入念な座標指定が必要であること。そうしなければ行き着く先が完全な恣意性に委ねられてしまう。水中や土中、空中は不可だ。ある程度の広さと空気のある地上に通じなければならない。それ以外の場所では命を失う結果になるだろう。
(言いたいことがあるのなら今のうちに伝えておけ。少年がやろうとしていることは、六発中五発の弾が込められた拳銃を頭に向けて撃つようなものだ。助からない算段のほうが高い。わずかに許された時間をつまらない見得や虚勢で潰したいのか)
「あなたを愛してる、とでも言えばよかった? ……いいのよ、わたしたちはこれで。たとえどんな結果が待ち受けていたとしても、わたしは受け入れるつもり。きっと滝沢くんも受け入れる。心配しなくて大丈夫、わたしたちは間違いを犯すことを知ったんだから。もう同じ過ちを繰り返したりしないわ」
そういった冷河の決意は固い。
諦めることを知らない眼差しで、爽やかさにも似た微笑みを浮かべていた。
(そうか)
すべてを受け入れる覚悟があるのなら、もはやなにも言うまい。
恵太は、左手のキネシスモジュールを虚空に向けた。
(今からわたしが言うことを、少年に聞こえるよう繰り返してくれ)
「わ、わかったわ」
戸惑いながらも冷河は了承した。
キネシスは、元々人間が持っている力。
モジュールは現象を増幅するだけの機械なのだ。
何時の時代、何処の次元でも人は夢や願いを引き寄せて実現してきた。
行動の前には意思と意志がある。
それこそが人間の持つ、どんな武器にも勝る能力だ。
だから、念じろ。
あのレイカがそうしたように、より強く、鮮明に、絵空事ではない現実を創るのだ。
帰りたい場所があるのなら、そうした世界を引き寄せることもできるはずだ。
恵太は静かに耳を傾け、口を真一文字に結んで深く集中していた。
ほどなくして空間にコップほどの穴が開いた。
錐で穿つように穴は広がっていき、人間が通れる大きさのゲートになる。
ゲートからは太陽が爆発したかのような強烈な光が放出されていた。
彼のキネシスが成功していれば、帰りたい場所、あるべき世界へと繋がったはずだ。
恵太は、冷河に問いかけた。
「鬼が出るか蛇が出るか……覚悟は?」
「滝沢くんといっしょならどこへでも」
恵太は冷河の手を固く握っている。
冷河も握り返した。
もう二度と離れないように。
胸の内をくすぐられるような優しい気持ちに包まれながら、二人はゲートを通った。




