霧生冷河は隠れたい➁
まーたやってしまった。
午後の授業中、冷静になったら超バカなことを約束したと猛省。
教えたがりの悪い癖が出た。
滝沢という悪しき前例を繰り返すつもりなのか。
過去から学んでよ。
だいたい滝沢を鍛えた方法論だって、昔の自分が思いつくまま適当こいてただけだし。
滝沢が愚直にも言いつけを守ったから、うまくハマっただけの成功体験だ。
いや……自分にとっては大いなる失敗体験か。
おかげで今日の授業に集中できなかった。
口うるさかった女神の不在、滝沢の運命、バカ男子二人の教育と順調に悩みは増えていく。
さらに一週間前に滝沢から提案された旅行の誘いもある。
なんでも滝沢にご執心の令嬢が主催したバカンスらしい。
避暑地みたいな場所でのバカンス……それはいいのだけど、メンバーが面倒くさい面子ばかり。
やたら自分にベタベタしたがる美夏に、滝沢を監視するアシリア、面識のないメス豚令嬢に、ぐーたら秀才の遠山。そこに滝沢と自分が加わって、もう一人誰を誘おうかという段階で止まっている。
六人もいれば十分でしょと思うのに、滝沢はそう思わないらしい。
ここのところ熱心に仁美を誘う様子をよく目にした。
まだ前向きな返事は貰っていないようだ。
なんで仁美を誘いたいのと尋ねたら、小学校からの友だちだからと言っていた。
滝沢自身の都合のように言っていたが、恐らく自分のことを慮ったんだろう。
昔からの知り合いというと滝沢姉弟を除けば仁美しかいないからね。
相変わらず余計な気遣いばかりするやつだ。
昔の滝沢といい勝負ってくらい自己主張の苦手な仁美が、こんな陽キャイベントの旅行について来るとは思えない。
放課後になっても、仁美に執着する遠山は、絶対に誘い出せと滝沢を焚きつけていた。
「頼む滝沢。なんとしても宝多に一緒に来るよう言わせるんだ。これが俺にとって最後のチャンスなんだよ!」
「俺もそうしたいとはいえ、どっちにしろタツの希望通りにはならないと思うなあ……」
やれやれと肩を落としながら、滝沢はうなづいていた。
冷河にとっても仁美には一緒に来てほしかった。二ヶ月前に滝沢のことで口論して以来疎遠気味だ。仲直りしたいと思うほど罰が悪くなり、謝罪の言葉が詰まってしまう。
教室の前席で滝沢の勧誘を受けていた仁美が、ちらりと後方の冷河に儚げな目を向けた。
冷河は反射的に視線を避け、そのまま教室から出て行った。
まーたやってしまった。
なぜ逃げる必要があるのか。考えるまでもなかった。仁美はなにも悪くないからだ。不仲である原因は、自分の強情っぱりに違いないから。
あー、イライラする。なんでわたしがこんなにイラつかなきゃいけないの? 自分が悪いと分かってるぶん怒りが増幅するようだ。いや、違うわね。そもそも仁美との諍いの根源は滝沢なわけだし。仁美は、親切心でわたしと滝沢の仲を心配してくれただけに過ぎない。滝沢がいなきゃケンカなんかしようがないんだから。ようするに全部滝沢が悪い。今日のイラ立ちは、午後から始まる滝沢との勉強会で発散してやろう!
物事の筋道が通るとなぜか未来が楽しみになるから不思議だ。滝沢を叱ってやれば悩みの全ては解決する気がする。
校舎の玄関口に着くと、アシリアが柱に寄りかかりスマホを見ながらため息をついていた。
「妙成寺さん、どうかしたの?」
「あ、レイカ……いやあ、その……」
逡巡するようにスマホと冷河の顔を交互に目をやると、諦めたようにスマホの画面を見せてくれた。
LINEのトークグループで、相手の名前はアキポン。
『リアの学校に滝沢恵太って人いるよね?』
『うん いるよ』
『どんなファッションが好みなのかな?』
『どんなって普通?かな? 本人が派手だから癖の強いコーデは好きじゃないのかも』
『そうじゃなくて 女の子のファッション!』
『女子のファッション? え? なんで?』
『あ べつに深いイミはないよ! ちょっとだけ気になっただけだから!』
解せない面持ちでアシリアがまた深くため息をついた。
うん、これはごくまれによく頻繁にあるやつだな!
滝沢を叱る理由が一つ増えたわ。
「アキポンって近くの女子高通ってるアタシの友だちなんだけど、バレー一筋であんま男子に興味なかったはずなんだよね。なんで元カノのアタシに聞いちゃうし」
「気にしたら負けよ。あいつは所かまわず女の子に粉かける習性がある虫みたいなもんだと思って。無駄に顔広いからきっと人づてに知り合っちゃったのね。そのアキポンって子の心の平和が乱されないかが心配でならないわ」
「うん。にしてもいったいいつの間に……」
アシリアは口を尖らせていた。
気持ちはよくわかる。誰だって好きな人には特別扱いしてもらいたいものだ。でも、滝沢にそういった期待をするのはまちがいなのだ。
彼は、相手が女子なら誰にでも柔和に接するだろう。
下に見たり、優先したり、厳しく接することはない。
女性であるというだけで、どこまでも平等に、だ。
「あ~ら、妙成寺さん。ご機嫌いかが?」
冷河の背後から上品ぶった声がかかった。
背後にいた人物は、ゆるふわボブと大きな瞳が可愛らしい胸の大きな女子だった。
腕を組んで、人を上から見下ろすような尊大な態度を隠そうともしていない。
「どうも……」
冷河が訝しんでいると、嫌な顔したアシリアが耳打ちした。
「この人、ミカの友だちの水城舟穂高って先輩でさ。ほら、恵太が誘ってくれた夏休み旅行のスポンサーだよ。性格、超捻じ曲がってるの」
「ああ……」
ということは、この人が滝沢を囲いたがるメス豚令嬢か。
見た目は男子が好みそうなおっとり系なのに、ガツガツいっちゃうタイプか。
「なにか?」
「いーえ、なんでも!」
眉をひそめた穂高にアシリアが取り繕う。
「ところで妙成寺さん、もしかしてこちらの方が、旅行に同伴するという例の……」
「ええ、そうです! 恵太の幼馴染の──」
冷河は一歩前に出て頭を下げた。
「霧生冷河です。この度は素晴らしい旅行にお招きいただいてありがとうございます。新参者ですが、よろしくお願いします」
旅行費出してくれるパトロンだからね。立場はわきまえとく。
「あら、思ったより殊勝な方ね。聞くところによると、恵太くんとお付き合いされているとか?」
「それはデマです。滝沢くんが転校してきたわたしを気遣ってるのを見て周りが誤解したのかなって思います」
「あらそうなの? ということは、恵太くんは今フリーだと思っても?」
「ええ、もちろんですよ」
笑顔を心掛けて。
パトロンメス豚の機嫌を損ねて良いことなんてないからね。
穂高がアシリアに目を向けると。
「あーら、ごめんあ・そ・ば・せ。わたしとしたことが配慮が足らなくってぇ。一年間もお付き合いしてたのに、突如として別れを切り出されたあわれな女性もいましたっけ。原因は性格の不一致? それとも殿方を焦らす女の嗜みに欠けていたせいかしら?」
「ぐっ……」
話しを振られたアシリアが苦虫を噛み潰したような顔で。
「あわれといえば、先輩はこんなハナシ知ってますか。動物が本能で持ってる警戒心って、捕食者から逃れるための立派な能力なんだって。誰かさんの仲がちっとも進展しないのは、捕食するみたいに迫ろうとするから逃げられるんじゃないかって、アタシは思うなあ!」
「まあ、そのような方がいらっしゃるのなら、ぜひともお会いして応援してさしあげたいわ。ところで、わたし考えておりましたの。いずれまた芸能界に戻るかもしれない方って、将来のスキャンダルになりかねない迂闊な交遊は控えたほうがよろしいんじゃないかと」
「誰のことだかわかりませんが、あんな息苦しい世界にカムバックしたくないって思ってるんじゃないかな」
穂高が平手を打った。
「ああ、わたしとしたことが! そういえばうちの別荘って、お部屋の数が足らないのでした。困ったわぁ、どなたか旅行を辞退していただければいいのですけど……具体的には一年間も付き合ってた方なんかが特に」
「軽く調べたら例のリゾート地って他にも別荘ありますよね? なんだったらアタシは自費でもいいんで!」
別荘については冷河も調べていた。
とある山稜を開発し、約千世帯分くらいは定住できる規模の広大な面積を有する土地で、近くに空き別荘の一つくらいはあるだろう。
「うふふ。必死になっちゃってぇ。そういうとこ嫌いじゃありませんが、やっぱり慎みには欠けてるわぁ」
「そっちこそ、人を狩る気満々の爪と牙を隠しきれてないし」
二人が険のある顔でにらみ合っていた。
……この人ら、本当は仲良しでは?
舌戦に忙しいアシリアたちと別れ、冷河は自宅へ帰った。
「ただいま」
返事はなかった。母は外出しているようだ。
さて、今日もまた滝沢家に出向かねばならない。本日の復習内容を頭の中で反芻しながら準備する。小腹が空いたけれど、滝沢家に行く日は何も食べないほうがいい。家庭教師代として夕飯が振舞われるからだ。おかげで滝沢、美夏、そして彼らの母親と食卓を囲むことにあまり違和感を感じなくなってる自分が嫌だ。
時計を見る。四時半だった。
午後六時に間に合えばいい。それまで仮眠をとるのもいいかもしれない。
家に一人でいるとどうでもいい考えばかり浮かぶ。
二十四時間眠らずにいられる薬があるのなら、是が非でも欲しい。眠るという時間が無ければ人の人生は二倍になる。眠らなければもっと勉強して目標に到達しやすくなると思う。
自分には人より優れた才能や能力なんてものはない。そんな自分にできることがあるとしたら、がむしゃらに寝る間も惜しんで努力を重ねるしかない。
そうしていけば、きっと、きっといつかは……。
昔はよくそんなことを空想していたのに、アトロポスに憑りつかれてる間はすっかり忘れていた。
あの女神は不気味だし、ポンコツだし、説教臭かったけれど、彼女と一緒にいる間は肩肘張らずにすんだ。
だってアトロポスには心を読まれてしまうので気取る必要もないのだ。
人間相手じゃなかったからだろうか。
どんなに親しい人であっても遠慮は必要だ。
礼儀は欠くべきでない。
自分の中の醜い部分は隠さなきゃいけない。
本音と建て前を使い分けなきゃいけない。
そうするということは、肩肘を張るということだ。
アトロポスは、違う。
彼女は、こちらの言うこと、思うこと、行動することを認めてくれた。
たまに頭おかしいこと(エロいこと)言ってしまう以外は、二十四時間付きっきりの──なんだろう?
長年一緒にいた侍女のような、気の休まる近所のお姉さんのような、なんでも知ってる先生のような……なんとも形容しがたい存在だった。
よくトイレの傍らに立ってはビビらせてくれるし、彼女は口には出さなかったが絶対楽しんでたと思う。
どこか幼くてアンバランスな女神さま。
少なくとも死の運命なんて物騒なものには似つかわしくなかった。
女神は、今ごろどこで何をしているんだろう。
机に置いていたスマホが震えた。メールが来たらしい。
メールの送り主とタイトルが文字化けしていて誰からのものかわからない。
怪しいウイルスメールかもしれないと思いゴミ箱へ入れようとした時、メールは自動で開かれた。
『個体名・キリウレイカへ告ぐ』
冷河は驚いてスマホを落としかけた。
間違いない。これはアトロポスからのメールだ!
『何も告げずにいなくなったわたしを憂慮しているかもしれないと考えこのメールを送る。』
してねえよ! ……いやちょこっとだけしてたかな。
それにしてもなぜメールなの?
いつもみたいに直接降臨すればいいのに。
相変わらずツッコみどころの多い女神め。
『まず結論から言っておく。少年のことはもう何も心配はない。すべては無事に解決した。』
やったね!
そっか。やっぱり仕事を終えたからいなくなったんだ。
まったく仕事してるようには見えなかったのに、やることはやってたのね。
『よってわたしは自らの役目を終えたため本来の使命に戻った。すなわち、いくつもの世界、いくつもの生命、いくつもの運命を監視することが女神であるわたしの使命。改めてお前に伝えておかねばならないことがある。以前に話したとおり、わたしは少年の運命を修復したに過ぎない。つまり、死そのものを退けたわけではないということだ。今でなくともいずれ死に追いつかれる時が来る。生きとし生けるすべての者には運命がある。始まりと終わりがある。生きているということは、死に向かって進んでいるということでもある。生と死を定めた糸は連綿と続いており、この摂理はどのような存在であっても逃れることはできない。少年だけではない。お前も、お前の親も、隣人も、友や仲間、例外はない。彼らの死は十年後かもしれないし、一年後かもしれない。今日会えた者が明日にはいなくなっているかもしれない。会いたいと願っても二度と会うことはないかもしれない。わたしには、人の子が何時何処で死ぬのか知覚することができる。だが、それをお前たちに教えるわけにはいかない。矛盾しているとはわかっている。それでも、人の子らには運命に翻弄されず生きてほしいと、わたしは願う。お前は、運命という力の片鱗を知っている。人生とは、糸のように細い道を歩いていく旅。道の脇には、暗黒の世界へと続く穴がいくつも開いている。穴は、道を踏み外した人の子らを飲み込もうとこちらを覗いている。一度穴に落ちると二度と同じ世界に這い出ることはできない。始まりは唐突で、終わりは理不尽にまみれた領域。地獄というものがあるとしたら、それは人の子らが住んでいる世界そのもののことだ。しかし、救いの無い地獄の中であっても一縷の望みは存在する。わたしは信じている。愛する者とともに生きる唯一の世界だったなら、光あふれる天国にもなるだろう。レイカ、お前は自分の感情に素直になれ。そして、最愛の者と結ばれるのだ。決して過ちを犯さぬように。いつかなどと言わず、これを読んだらすぐに少年を連れてラブホテルへ行け。』
そこまで引っ張って落とすなよ!
思わせぶりな雰囲気漂わせといてぜんぶ台無しにしやがった!!
なにがそこまであなたをラブホに執着させてんのよ!!!
なんだこの疲労感……。
一応励ましのメールっぽいけれどやっぱり頭おかしい……。
女神からの手紙ってもっとこう霊験あらたかなものがあってもよさそうなのに、この世でもっとも下劣で低俗な一節読ませやがってぇ……!
エロ女神、いやクソ女神め。
説教がしたかったら直接面と向かって言いなさいっての!