6/49 わたがしにうもれた、おひめさま(シルヴィナ視点)
この混乱の場で、最善の行動を最速で取ることのできる人。震えるわたくしを、真摯な瞳で射抜く人。
わたくしにとって、お姉さま……シャーロット・ランスリー公爵令嬢は、憧れの人ですわ。
初めて彼女を見た時。ただ、『美しい』と思ったの。
夏の昼食会。隣国の友好使節団の歓迎会。同世代の王子殿下と公爵令嬢が、一行の中にいるからと、わたくしも参加することになったそれ。当時、まだまだ人見知りで、大人の話に割り込めるほどの見識深くもなかったわたくしは、ただただ上座の皇族席でおとなしく挨拶を受け、定型句を返し、……そして、ジルファイス殿下を、見ていましたわ。
かつて。おとぎ話の中から抜け出してきたような、麗しくて優しく、聡明な『ジルファイス・メイソード王子』に恋をしていたのです。『恋に恋をしていた』とは、あのような状態をいうのでしょうけれど。でもだからと言って当時のわたくしは彼のそばに自ら行けるほどの度胸も自信も持ち得ていなかったので、遠くから見ているだけでしたわ。それで精いっぱいだったのですもの。
けれどそうしたら、必然的に『シャーロット・ランスリー公爵令嬢』も、目に入ってくるのです。ジルファイス殿下に盲目だった当時のわたくしでさえ、引き付けられたのですもの。誰もが、あの方を無視できるはずがありませんわ。
完璧なまでに整った、美しい容姿。堂々として、媚びるでもなく、委縮するでもなく、だからと言って傲慢でもない振る舞い。
……理想、だったのです。ただ、『美しい』と思ったのです。
確固たる『自分』を持っている。自分の足で、自分の意志で、そこに立っている。そうあることができる、同い年の少女に、どうしようもなく、目を引かれてしまったのですわ。
憧憬でしたわ。そして、羨望が、なかったといえば、嘘になるのです。
わたくしにない強さで。わたくしにない輝きで。わたくしにない自信をもって、うつむくことなく、異国の地で大人と対峙するその姿に。
だからためらいましたの。歓迎会の後の、女性だけのお茶会。決まっていたことだったけれど、何か理由をつけてキャンセルしてしまおうか、なんて考えたくらいでしたわ。
それでも、それでもわたくしは皇女だから。最低限の義務は果たさなければならないのだからと、足を運んだその場で、……救われたのですけれど。
溺れるように甘い甘い世界から、きっとわたくしは救われたの。
――わたくしの世界を形作った、皇帝である父はいつも言っていましたわ。
「私のかわいい娘。シルヴィー。この世界のどんな怖いものからも守ってやろう。だから、お前はここで安心して、笑っていてくれればいい。お前を傷つけようとした痴れ者は既に遠くに行ったからね。何も心配はいらないよ。こんなことは、もう二度とないから」
皇妃である、母は言いました。
「ああ、シルヴィー。母のそばにいてくださいね。ここにいれば陛下が守って下さるのだから。危ないことをしてはいけませんよ。どこかに行っては、いけませんよ?」
侍女が、侍従が、メイドが、教育係が、教師が、口々にいました。
「シルヴィナ様は素晴らしい」「おかわいらしい」「さすが皇女であらせられる」「まさに深窓の姫君だ」「ここにいてくださいね」「外へ出てはいけませんよ」「皇女様のためを思って」「皇女様のためなのだから」「愛されているのですよ」……
耳にやさしい言葉ばかりでしたわ。小さい頃は何も疑問になんて思いませんでしたもの。世界の中心はそれこそわたくしで、この場所が一番幸せでいっぱいなのだと信じて疑っておりませんでしたわ。父の言っていた言葉の意味だって深くは考えていませんでした。……わたくしの命を狙う輩がいたということに他ならなかったのでしょうけれど。
でも、いつからかしら。わたくしはわたくしを、『箱庭のお人形さん』だと思ったのですわ。思って、しまったのですわ。
……守られていましたわ。愛されていましたわ。でも、大事に大事に囲われて、汚いものも恐ろしいものもわたくしには見せないようにしていただいていることを、知ってしまいました。
きっかけは何だったのかしら。『友人』であるはずの令嬢の笑顔が張り付けたそれに見えて仕方がなかった時? 明らかに『何か』があったに違いない、切羽詰まった空気で話をしていたのに、わたくしが近づいた瞬間にごまかすように微笑まれて、何も教えてはもらえなかったとき? それとも、ほんの少し、それこそ気に入らないアクセサリーを持ってきた侍女に文句をわたくしが言っただけだったのに、それから二度とその侍女をわたくしの周囲で見なくなった時?
別に、わたくし、声を荒げて怒ったわけではないの。ちょっと、「これは気分じゃないわ」って言っただけでしたの。それなのに。それだけでしたのに。
父に聞きましたわ。けれど返ってくるのは、「何も心配はいらないよ。こんなことは、もう二度とないから」という言葉と優しい笑顔。違う、といえば、困った顔をされました。「お気に入りの子だったのかい?」と聞かれれば、そうではありません。そうではないのだけれど。
――わたくしの言動一つで、何かが動く。そしてきっと、だからこそ、そんなわたくしのことを、みんなが見ているのです。……わたくしの知らない、恐ろしい世界がその向こうにあるのでしょう。だっていなくなった侍女が、本当はどういう理由があったのかも、なかったのかさえ、わたくしは、知らないの。わたくしがわたくしの無知とそぐわない力を知った日。
ベールの向こうに、恐ろしい世界がある。甘い世界に溺れるわたくしには見えない場所で、何かが動く。そして見えないのに、向こう側なのにわたくしの言動が影響するのです。
けれど、けれどそこにわたくし自身の意思なんて、本当にあったのかしら?
美しく飾り立てられました。優しく扱われていました。誰もかれもが、わたくしには甘かったのです。
それが、どうしようもなく、怖くて、そして虚しかったのです。