6/47 溢れ、零れ落ちる
魔物の氾濫。魔物が異常大量発生し、文字通り『氾濫する』現象である。
その現象が、目前で起こった瞬間、私とエルが光の速さで快楽主義者の最古の『魔』を見たのは仕方がないことであっただろう。混乱する生徒たち、自然と集まっていた私たち三人。エイヴァはつぶやいた。
「その手があったか……」
正直が過ぎる。私とエルは丁寧に拳を左右から、そのおきれいな顔面に叩き込んでおいた。何を言い出したんだこいつはという蔑みの視線に背筋が震えたと後にエイヴァは語ったが、これ以上ない自業自得である。せめて思っても口に出さないという思考はやつの脳みそにはなかったのだろうか。
だがしかし、奴は正直が過ぎるがゆえに下手人ではなかったことがここに判明した。まさかのそれがフェイクとかいう可能性はあり得ないだろう。エイヴァという『魔』はある意味非常に純粋なのである。彼が下手人であればためらいなく吐き出された言葉はこれに類するものであっただろう。
「見ろ! やったな! さあ遊ぼう!」
私とエル、後日はジルとラルファイス殿下と国王。全員の意見の一致を見た。全然よろしくない方向の信用である。
ともかく。
エイヴァが原因ではないのであれば、あれは自然発生した事象であるということになる。なんというタイミング。なんという引きの強さ。トラブル体質ここに極まれりである。そしてあまり悠長にもしていられない。発生源はあの『森』なのである。実はあの森、巣食う魔物が他と比べても圧倒的に『でかくて』『狂暴』であるという特徴があるのだ。
すでに聞こえ始めているケダモノの咆哮に、場は一気に混乱を深めてゆく。『森』への認識は学院の生徒にもきっちりと根付いている。
……ではなぜそのような場所の近くで『実習』だったのかと問われれば、これまで一度も魔物の氾濫が、『森』では起こったことがなかった、というのが大きいだろう。魔物の氾濫は不定期に平原、砂漠地帯、一般的な森、洞窟、海辺と様々な場所で起こるが、人間が普段は足を踏み入れない場所であることは共通している。しかしそれを踏まえて過去の記録を確認しても、かの『森』で魔物の氾濫が起こった、という事実は確認ができない。
足を踏み入れれば暴虐にさらされるが、その外には魔物が迷い出ることもなく、ただそこにある。それがこれまでの『森』であった。それはわがメイソード王国だけではない。近隣の国全ての共通認識として。
ゆえに、あれがそうなのだ、と遠目に確認することで知識を身にしていくという目的があったのだ。それで全く危険もなかったことから続いている慣習である。だから当然のように私たちの年も同じ場所で実習を行うに至ったのだ。
そして現在。このざまである。なんということでしょう。はるか向こう、深緑の帯としか見えなかった『森』から、地響きと咆哮と土煙がすさまじく轟いてくるではありませんか。もはや周囲は混乱のるつぼ。悲鳴の嵐。明確な命の危険を感じて、変態師匠連のせいで耐性がついていたにもかかわらず恐怖が上回って統率もくそもない。最初の私の指示も、この分では頭に残っていないのだろう。
さもありなん、変態は二匹しかいない上に言葉が通じないこともないはずだと思い込もうと努力もできるが、魔物の大群は集団であって言葉は絶対に通じない。
教師たちが声を張り上げ、どうにか場を収め、迅速な行動に移らせようとしてるが、その教師たち自体が予想外の緊急事態に大概混乱している。しかしそれもある程度は目をつぶらねばならないだろう。彼らは戦闘職ではない。いや、対人戦闘経験も魔物との戦闘経験もあるが、『森』の魔物、しかも魔物の氾濫に行き会ったことはさすがにない、一介の教育者であるのだ。
この場で冷静に状況を判断できるのは、堂々の戦闘職である騎士・ソレイラ殿と、魔物の大群に放り込まれて無双をしたことすらある私とエル。そしてエイヴァだけである。「よく考えると意外と多いよね。僥倖だね」と、冷静な人間を数えて言ったのはエルであった。確かにそうかもしれない。これが例えば一つ上のジルの学年であればジルのみが奮闘することになっただろう。しかしここでは四人も冷静だ。いや、顔面を強打されたエイヴァはのたうち回っているので冷静ではないかもしれないが、今はどうでもいいだろう。
何であれ、今すべきことは。
「お黙りなさい!」
私はその場の全員に、声をとどろかせる。一瞬――訪れた、静寂を私は見逃しはしない。声を張る。
「恐れる必要などありませんわ。ここにいるのは優秀な学院の生徒ばかり。そして――」
ふっと、笑う。その空間の視線を、空気を、人々の意識を。掌握する。
「私がいます。……何が、怖いのです?」
そして周囲は完全に沈黙し、――次の瞬間。
「「「「「きゃああああああああああああああああああああああああああああああっ!」」」」」
「「「「「うおおおおぉぉぉおおおぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」」」」」
轟いたのは黄色い悲鳴と歓声だった。私はにっこり、笑って告げる。
「お黙り!」
ぴたりとやむ声。集まる視線。その強さ。彼らに迷いはもうない。
「さあ、イイ子で、私の指示を聞けるわね?」
時間はないのだ。迅速に。的確に。私たちは、動き出す。