5/40 壊れた歪が砕け散る
手を胸の前で組み、蒼白な顔で眉を下げる。彼女たちは懇願する。涙さえ浮かべて、すがろうとする。にじり寄ってくる。
『見捨てないで』『家族でしょう』『実の姉の願いよ』。
「せめてせめて、穏やかにお話をしましょう? 物騒なことはやめて? 私の子、母の願い、聞いてくれるでしょう?」
マリン夫人もエミリー嬢も、エルの横の私は見ない。アッケンバーグ伯爵たちも黙っている。沈痛な表情でうつむく姿。その背後で伯爵家使用人が目頭にハンカチをあてる。
その姿はこの場面だけを見れば同情を誘うのだろう。いっそこちらが悪役だ。些細なすれ違いから仲たがいした家族の間に誤解が生じた、それに泣いて仲直りをしようとする健気な女性、だから許すのが道理とでもいうように。だが、私が思ったことは一つだけ。
気持ち悪い。
おそらくは夫人と令嬢は伯爵に言われていた。もともとの力では公爵家が上だ。そこをゴリ押しして意見を通すには、エルの伯爵家への隷属ともいえる従順さが必要で、交渉がうまくいかないということはその従順さが足りないということ。それを補うのに、『情』を利用しようとした。『母親』と『実姉』という存在。守られ、他者にこびる存在だと、女性を認識している伯爵が考え付きそうな手だ。
エルは優しい。優しい子だ。紳士でもある。女性を無下に扱いはしない。
そして愛に飢えていた。『家族』をだれよりも欲していた。それにすがっていた。だから彼らは血のつながりを盾にしようとしている。自分たちでその利点を手放しておきながら、自らの愚行すら棚に上げ、先ほどエル自身にも拒否されたにもかかわらず。伯爵たちが沈黙を守るのはそのためだ。
確かに『母親』という存在は大きい。ランスリー公爵家には父母たり得る存在はいない。加えて政治的にも立場的にも肉体的にも強い『父親』よりも『母親』『姉』という存在にほだされる可能性のほうが高い。
反吐が出る。女を軽視しながら女を利用する伯爵も、いまさら家族を名乗る夫人と令嬢にも。よほど殴られたいのか。メリィとアリィが闇より出づるとてつもなく禍々しい『何か』を生み出しそうなほどに微笑みながらアップを始めている。彼らは殺る気である。そんな殺る気あふれる彼らと同じ部屋にいながら悲劇の一家を演じられるアッケンバーグ家がとてつもなく鈍感で意味が分からない。まあどうでもいいくらいには私も殺る気満々なのだけれど。
――まあでも、今ここで『それ』をするのは、私たちの役目ではないから。
「伯爵夫人、エミリー嬢」
柔らかい、少年の声が呼ばう。優しげで、丁寧だ。それにわずかに喜色を浮かべ、救われたかのようにエルを見上げる、夫人と令嬢。
けれど、それは一瞬で困惑に変わる。
「僕たちが、以前からジルファイス殿下と親しくさせていただいていることはご存じでしょうか」
意味が分からない、という表情を夫人と令嬢は浮かべた。ざっと顔色を変えたのは伯爵と長男・エイシアス。次男・エディスは呆けているのか話が聞こえていないのか、反応はない。
「僕たちはランスリー家としてこの場にいますが、王家の使者でもあるのです」
アリィ、とエルは呼んだ。音もなく近寄ったアリィが書状を取り出す。
「召喚状です……王城への」
「……っ!?」
がたっと席を立った伯爵が、固まってしまった夫人たちを押しのけ、書状をひったくる。血走った目でそれを開き、目を通す。何度も。何度も。そこに書いてあることは変わらない。
「すでに陛下もご存じです。ランスリー家から貴家への対応としては、援助の打ち切り、賠償金の請求、交易優遇権並びにもろもろ権利のはく奪。ああ、実行犯への求刑は既に済んでいます。それらとは別にもちろん、王城にて沙汰が下される。……陛下に認められた契約の反故とはそのまま王家の侮辱なのだから」
――逃げようなんて、思わないほうが身のためですよ。
柔らかに黄土の髪を揺らし、やさしげな声で、どこまでも冷静に。丁寧に。鉄壁なまでの無表情で。エルは告げる。
あと一年半早く、同じ茶番をエルの前で繰り広げたなら。ランスリー家に来た直後だったなら。効果はあったのかもしれない。でもそんなものは今更で、滑稽な芝居にもなれはしない。
最初から、私もエルも言っている、『もう遅い』のだと。『戻れない』のだと。
切り捨てられたのはどちらだったのか、なんて。
マリン夫人は崩れ落ちた。隣のエミリー嬢は震える両手を握りしめている。エディスは相変わらず反応がなく、エイシアスは頭を抱えて身を縮ませる。アッケンバーグ伯爵は――
「この、このっ……冷血な、悪魔が……っ。父を何だと……」
エルは笑った。感情のない笑みだった。
「――伯爵。あなた方は、僕を、家族と思っていらしたのですか?」