5/34 捨てた小石が岩を崩し、(エルシオ視点)
「なに、が、」
もう、遅いのだ。シャロンの笑みを受けて、僕は『それ』をここで明らかにしようとした――けれど。
「……エディス。座れ。……ランスリー家の方々に置かれては何をおっしゃっているのか。仮にもエルシオの血のつながった実家族に対して非礼ではないか。関係を打ち切るなど……エルシオが御家の養子となったことは変わりがなきことだ」
顔色が悪いながらも言葉を発したのは父だった。父の言に従って唇をかみしめて腰を下ろしたエディスと似た面立ち。茶の瞳、短くそろえた瞳より明るい茶髪、口ひげを蓄えた壮年のというべき年齢の男。アッケンバーグ伯爵家現当主、ギムート・アッケンバーグ。
シャロンの威圧。それを真正面から受けて、それでも反抗じみた口を利けたのはさすが一家を率いる大黒柱というべきなのだろうか。持ち前の鈍さがあるので何とも言えない。どちらにしろ、それはシャロンには何の意味もない。
「ええ、感謝しておりますわ。素晴らしいご子息を私共ランスリー家の次代として迎えられたこと、これ以上なく喜ばしいと思っておりますのよ」
威圧から一転、ころころと鈴を転がすように笑ったシャロンに、光明を見出したかのようにアッケンバーグ伯爵は身を乗り出す。
「それならば、」
「けれど、お忘れのようですわね、伯爵」
伯爵の声を鈴の声音がぶった切った。慈母のような微笑みだった。
「は、」
「おっしゃられていたでしょう? そして契約の書面にも残されたはずですわ。『エルシオの身の責任は一切をランスリー家が負う』ことも、今後『エルシオによって何があろうと伯爵家の責任はない』ということも。……まさか本当に覚えていらっしゃらないとでも? 高々一年半前でしてよ?」
メリィ、とシャロンは呼ばう。
「はい、こちらに」
音もなく寄ったメリィがシャロンに一枚の書面を恭しく差し出した。割と大きなもので、厳重に箱に入れられていた。ちなみにメリィは一瞬前まで手ぶらで背後の壁際にかしこまっていた。おまえ、いつ近寄った……? そして、それをどこから出した……? アッケンバーグ家一同の困惑が手に取るように僕にはわかったけれど微笑むメリィと微笑み返すシャロンの笑顔の麗しさに全員が一瞬見とれて疑問を忘れたのも分かった。最小限の動きで疑問自体をなかったことにする主従と、こうもあっけなく手玉に取られた実家の人間。どちらをより嘆くべきなのか僕にはわからなかった。
ともかく。メリィが恭しく差し出した書面――それは正確にはランスリー公爵家本邸に保管されているものの写しであったようだけれど――には、こまごまと文章が書かれていたが、一見してそれがランスリー家とアッケンバーグ家にとって重要なものであるとわかる。そこには両家、そして王家の家紋と署名が、間違いようもなく記されていたからだ。
「こちらが、エルを我が家に迎えた時の契約書ですわ。貴家にも、そして王城にも。同じものがあるはずですわね」
「それが、」
「つまり、おわかりかしら」
先ほどからことごとく発言を遮られて次第に怒りがぶり返している伯爵に対して、シャロンは慈母のような笑顔に陰りがない。ここで殿下ならそんな彼女に同じタイプの麗しいほほえみでもって「はは、あなたは相変わらず見識深く礼儀正しいのですね」などと反撃からの高次元嫌味合戦へと移行するのだけれども伯爵は口元を引きつらせ握り締めたこぶしをわずかに震わせている。かろうじて理性が残っているのはまだ先ほどの威圧が利いているのだろう。
「……何が、言いたいのだね。ランスリー公爵令嬢?」
問う伯爵、笑う令嬢。
「エルシオはすでに『ランスリー』の者。彼が貴家に関係など今後ないものと断じ、同意したのはそちら。証拠はここに明らか。伯爵、血縁であるからとエルシオがあなたに従う道理など今やないとあなた自身が認めているのですよ」
――それとも、陛下にも認められた契約をここで、身勝手にも一方的に理由なく、破棄するとでもおっしゃるのかしら。
そこで、一気に血の気が下がったのはアッケンバーグ家一同。背後に控えた使用人も蒼白、目線を交わしあい不安を殺せず身じろぎをする。
「その、ようなことはっ……」
「あら、では貴家からの発言と要求はそれ以外のなんだというのでしょう」
「ちが、私は、……、……」
「これは我らが陛下への侮辱ですわ。そして公爵家への侮辱でもある……」
そこでにこり、シャロンが僕に笑った。伯爵は言い訳すら浮かばないのか視線をしきりに泳がせるも周囲も一様にうろたえ、あるいは自失し、あるいは恐怖し、援護はない。平然としているのはランスリー家の者だけである。どこからともなく「お嬢様、尊い……!」と恍惚とした声が聞こえた気がするが、気のせいだと思いたい。
とにもかくにも、シャロンは僕に引導を渡す役割を譲った。……初めからそのつもりだったのだろうけど。
――国王陛下への侮辱、公爵家への不敬。それだけではない彼らの、アッケンバーグ家が犯した過ち。
許されないから、戻るには遅いから。けじめをつけなければならないのだ。