5/32 愛してた、(エルシオ視点)
弱さを知っていた。孤独を知っていた。憎しみを知っていた。無力を知っていた。愛されない慟哭を知っていた。……愛される、喜びを知っていた。
たくさんのものが、ここにあった。たくさんのものを、もらっていた。
これからも僕は何度でも迷うのだろう。何度でも間違えるのだろう。まだまだ弱くて、僕ができることは多くはない。でも、気づけば気付くほどに、いろんなものが見える。世界が広がる。
……それは楽しいばかりじゃないけれど。
僕は家族を愛してなかったわけじゃない。それは、嘘じゃない。優しい記憶が、僕にだってあった。あったはずなのだ。遠くて遠くて、もう思い出せなくても。
愛していた。もう一度、愛されたかった。それを欲して、努力だってした。
『かつて』だ。もうそれは、『かつて』になってしまった。……『過去』になってしまったのは、いつだったのだろう。一年半前か。それより、前だったのか。
笑顔など思い出せなくて、ただ恐怖だけを抱いていて。
――悲しかった。
もうきっと、僕は彼らを愛せない。そう気づいてしまったことが、とても悲しい。憎しみにすら変わらないほど緩やかに、彼らに対する情愛は、潰えてしまっていたのだろう。
家族の定義はなんだろうか。
血など繋がっていなくても、かけがえがないと思える人たちに出会えたのに、確かなつながりがあるはずのあの人たちとは、他人よりも冷えている。
何を間違ったのだろう。どちらが間違っていたのだろう。……わかったところで、戻れないけど。
迷ったのだ。たった一年半。それだけ。それまでは確かに彼らと暮らしていて、『家族』という枠組みで。今だって、血縁関係がなくなることは決してないのに。それでももう、彼らに愛を乞うことはないだろう。
そして僕は、自分に嘘をついてまで、だれかを愛せない。
薄情だろうか。薄情なのだろう。こんなにも簡単に手のひらを返して。だから、戸惑った。怖かったことも愛されたかったことも覚えていたのに、彼らを断罪することをすぐに理性で判断して、そしてその結論に心が揺れなかった自分に。
動揺した。迷った。これほどに単純に、血縁を切り捨ててしまうような薄情者が人の上に立っていいものかと。
答えは決まっていた。ただ、迷っていた。その決断をすることを、躊躇していた。自分の心がそのように変わってしまったことに、どうしようもなく、驚いていた。……優しいと、エイヴァ君は僕のことをそう言ってくれたけれど。もしかすれば彼にとって、僕は優しくあれたのかもしれないけれど。
それでも、『家族であった』彼らへのこの迷いは、優しさじゃない。優しさじゃないよ。だって理性で理解して、彼の言う通り。とるべき行動は迷いなく決まっていた。それを実行することを、躊躇していただけ。自分のためだ。自分のためなんだ。ただ僕は弱かった。博愛になれない僕は、冷酷にもなれない、中途半端な臆病者だっただけ。
それでも、彼は優しいといったから。シャロンが信じているといってくれたから。
僕は僕のいとおしい人のために、ありたいのだ。
間違え、おびえ、逃げて、迷って。僕は善人にはなれない。善でしかない人間などいないとシャロンは笑うのだろうけど。彼女はちょっと悪人みたいに笑うっていうか清濁併せのみすぎていると思うけれどそのくらいでないとしたたかに生きてはいけないのだろう。
だから僕も、僕の生きる道を選んだ。僕の意志で、答えを出した。選び取った。後戻りはしない。だから、自分の足で、会いにきた。
愛されていないけれど、愛せなくなってしまったけれど、それでも『家族』だった彼らに。
だって僕は、『エルシオ・ランスリー』なのだ。僕を僕に、してくれた、この居場所が、この名前が、誇り。シャロンと血縁なんて薄くしかなくて、使用人さんたちにいたっては完全につながりもないけれどそれでも今の『家族』。
彼らがいるから――こんなふうに、今、彼らの前に立てる。立てるようになった。
……本当は、彼らを目の前にしたら、委縮してしまうのではないかと思っていた。冷静ではいられないような気がしていたんだ。それくらいに恐れていた。ましてや反意を伝えるのだ。アッケンバーグ家では当主の言うことは絶対の権力を持つ。それに逆らうという思考がそもそも存在しない程度に盲目だ。それに真っ向から逆らう形。
――けれど案外と心は平穏で、凪いでいた。
こんな人たちだっただろうかと、思った。冷静に立場を考えて、状況判断も出来ないような、感情的な人だったろうかと。今でもひどく覚えているのは冷めた瞳が決して『僕自身』を見てはくれないことと、紡がれる言葉がいつだって鋭利な刃を持っていたということ。たったそれだけ。かかわりは薄くて、心も通ってはいなくて、理解しあえるなんて不可能もいいところだったと判っている。
それでも、恐ろしい人だと思っていた。強い人たちなのだと、思っていたんだ。
それなのに。……目の前の彼らは、僕の何かを厭い、嫌悪し、怒りの言葉を吐くけれど。僕を罵倒するそれが、上っ面しか撫でては行かない。中身がない。むしろ横のシャロンと後ろのアリィとメリィがとっても笑顔でとんでもなく黒いものを醸し出しているのが怖い。僕は傷ついていないので落ち着いてほしいという目線を送ったのに『わかっているわ』と視線で返ってきて笑みが深くなった。何が分かったんだろう。すごく怖い。そしてそれに気づかない目の前の彼らが意味が分からない。意味が分からないくらい鈍いことに恐怖を覚えそうだ。
シャロンたちの黒いものに気づかない彼らは今、『僕はすでにランスリーなのだ』と告げたその事実を前に、自失に近く呆けているけれど。
恩知らずと言われた。それに返したのは、本心であり事実ではあったけれど、確かに僕がここまで生きていられたのは、彼らが僕を見捨てながらも切り捨てはしなかったからだけと判っている。
それでも、それでも。
――ごめんなさい。
愛に餓えて、求めて、泣き叫んで、手を伸ばして。うずくまっていた僕ではもうないのだ。満たされてしまった。差し出して、差し出し続けて、だれも受け取ってくれなかったそれを手に取って微笑み、同じだけの、それ以上の愛を返してくれた人たちに。
僕は、博愛にも善人にも、なれないのだ。