5/28 俯瞰者はほくそ笑む
エルがぐるぐる悩んでいることも、屋敷の中をさながら夢遊病患者のようにさまよいながら迷っていることも、気づいてはいた。なんでさまようんだ……? 心配したアリィとメリィとその他メイド侍女侍従『影』……みんな仕事しながら心配そうに手を上げ下げしては声をかけようかと迷いつつ、エルをそっと気づかれないように追いかけるものだから屋敷の中が集団催眠術にかかった人々が徘徊するとんでもないカオス空間みたいになってたんだけど……。それでも仕事をためないところはさすがと思うよ。エルしかりそれを追うみんなしかり。さすがだと思うけど恐怖は増した。意味が分からない人間が集う屋敷って以前国王に言われたんだけど否定する要素が目減りした……。
まあ、それはともかく。
私はエルの才能は買っている。私の教育にも堪えた彼は十分公爵家跡取りとして遜色ない実力を持っていると断言できる。はかなげ美少年でありながらとってもイイ性格している自慢の義弟である。
でも、あれだ。
長年虐げられてきた経験というものは、そうそう塗り替えることができない。十年だ。彼には圧倒的に、自分自身に対する信頼が足りない。十年かけて、かの伯爵家があの子から根こそぎ奪ったもの。自尊心。自信。自己愛。自己肯定感。
今でもそれは、時折顔を出す。
だがしかし、それだというのに彼がとてもイイ性格をしているというのは私、すごく、知ってる。自己否定されて存在否定されてそれでも、私と初対面で遅刻をしたのに謝罪しなかった厚顔な父親に『お前頭大丈夫か』という目を向けたずぶとさがあるのがエルなのである。エルの順応性の高さも半端じゃない。半月で私になれ始め、そして危機にこそ火事場の馬鹿力を発揮する。本番にも強い。
……自己評価が低いから自分では自分のことをすごいことをやらかしているとは思っていないのだろうけど。たまにあの子は私に向かって『シャロンにはかなわないよ』って目をするけど……いや、結構割と十分に、エルもやらかしてるよ? 何棚に上げてるの。ジルは乾いた笑いをあげてたよ。『さすがランスリー。意味がわかりませんね』って一緒くたにされてたよ。
まあ、『己の異常性を理解していない天才と異常性を理解している天才の場合、どっちが厄介かって言ったら理解している天才よ』って前世の親友は言ってたけど。『だって理解していない人間は大体常におかしいし、そうでなくてもおかしくなるポイントも警戒しやすいわ。でも自己異常性を理解している奴はね、常人の擬態を駆使してくるから面倒だわ。いつ異常性を発揮するかわからなくて油断がならないのに普通に見えるからみんな騙されるのよ。鬼畜生の所業だわ。あなたのことよ、この鬼畜生が』。ごみを見るような目だったことが忘れられない。
それはともかく。
いろんな意味で迷うだろうと、思っていた。でも、最後に決断をするのはエル自身なのだ。だから、エルへ送った言葉は本心で、期待に応えてくれた義弟を私は誇らしく思う。
あの子は、間違わないだろう。
……ホント、マジめんどくさかったんだよアッケンバーグ伯爵。あのタヌキツネ。確かに、エルはランスリー家が後継としていただいた。お宅の息子さんは大変優秀であることは否定しないし、できないし、私が積極的に自慢する。しかしだからってアッケンバーグ伯爵家に余計なくちばしを出されるいわれはない。
なぜなら、あれは厄介払いされた少年の保護に近かったことを私は知っているしアッケンバーグ伯爵家だって自覚していなければおかしいからだ。貴族とは厚顔で、利に聡くてなんぼな面もあるが、常識と良識的にいかがかと言われればぐうの音も出ないと思う。
確かに希薄だったアッケンバーグ家とランスリー家のつながりができた。それでも関係としては利害が一致した対等を保った契約であったし、爵位で言っても歴史で言っても持ちうる影響力その他もろもろで言っても圧倒的にわがランスリー公爵家が格上なのだ。
ランスリー公爵家は後継男子を得る。アッケンバーグ伯爵家はランスリー公爵家という後ろ盾を得る。そういう契約だ。まあぶっちゃけ、アッケンバーグ伯爵家が得た利は多い。エルというかわいくて優秀な子をうちの子にできたのだからどっといどっこいであるとも思うが、友好のあかしとして貿易関係でも多少の融通はきかせたし、ランスリーと懇意になったことでつながった縁も多かったはずだ。魔術の大家であるという看板は伊達ではない。アッケンバーグ伯爵家からランスリー家につながりを持とうとしてくる輩もいるし、それでなくてもランスリー家はその名前だけで盾になる。その力がある。あらゆる交渉の面で精神的負荷に相手をかけられる。相当有利に働いたはずだ。
それで、アッケンバーグ伯爵は満足しておくべきだった。否、満足できなかったとして、後は己の手腕で成り上がるべきであったのだ。当たり前である。
ランスリー公爵家はアッケンバーグ伯爵家と友好関係を結び、例えば伯爵家が外敵に襲われれば協力もするだろう。その名をちらつかせることで交渉の場で精神的に優位に立とうとすること自体はとがめはしない。利用できるものは利用する狡猾さは必要だ。
けれどランスリー家はアッケンバーグ家の体のいい兵士ではないし、完全に寄生されて黙っているような家でもない。彼らとの関係性は対等よりややうちが有利なくらいであって、唯々諾々と利用されるいわれなどない。
彼らは、調子に乗りすぎた。潮時なのだ。
ていうかこの期に及んでアッケンバーグ伯爵、実権握ってんのは領主代理だと思いこんでるうえに私のことは頭の軽い深窓の令嬢だと本気で信じているようだ。すげえめでたい頭をしていると思う。結構本性出してきてるのに。それでも自分は狡猾なつもりでうちを利用できるつもりでいるとかめっちゃ笑う。エルへの金の無心を知ったメリィさんとか美しく微笑みながら鉄アレイ捻じ曲げた。なんで鉄アレイを持っていたのかは不明だった。
まあ、それまでもやらかしていることはこまごまと小さなことがぼろぼろと。何一つ成功していないけれどまとめると看過はできないところまで来ているし。それでも私が静観していたのは、ひとえに彼らが曲がりなりにもエルの身内だからで、それ以上でも以下でもない。
そしてその猶予さえも、情じゃない。ただ、引導を渡すならばあの子自身だと思っていただけだ。
あの子は『エルシオ・ランスリー』なのだ。
『ランスリー』の、その名が持つ意味を、身をもって知ればいい。
……アッケンバーグ伯爵。少しくらいは感謝してるんだ。あなたがエルを、殺さなかったことには。あの子を手放した、愚かさにも。
彼等は手遅れなことに気づくだろうか。虐げ見下した物の価値に。
落ちぶれるのも消えてゆくのも、自ら招いた結果だというその事実に。