5/24 その弱さは罪だったか(エルシオ視点)
濁った瞳とゆがんだ唇を見て思った。何が違うのだろうと。彼女たちとあの人は。あの人と、僕は。どろどろとした欲があふれて止まらない、底なしのような目だった。エリザベス様だって金銭には厳しく、シャロンだってそこはシビアだ。でも、あんな目はしていない。
よく似た色彩なのに、似ていない兄。どれほど冷えた関係でしかなくても、それでも、この体に流れる血は、同じであるはずだ。
その実兄から、期待なんてしていたわけではないけれど、聞きたくはなかった。
――『そのためにお前は売られたんだよ』だなんて、聞きたくなかった。
嘲笑った彼は僕が知らないとでも思っていたのだろうか。わからないと思っていたのだろうか。僕は知っていた。判っていた。ランスリー家とのつなぎの為に、僕が養子に出されたんだなんてことは。たまたま、今は亡きランスリー公爵夫妻が僕を求めてくださった。ほかの兄ではなく、僕だった。厄介払いができると笑った父を見ていた。アッケンバーグ家にとっては、僕の価値なんてそれくらいしかなかった。
……知っていたんだ、昔から。シャロンのもとに来る前、アッケンバーグの邸の、小さな小さな自分の部屋。ずっとずっと、閉じこもって、小さくなっていた僕を、蔑む以外は見ないふりをしていた貴方たち。
ああ、あなたたちこそ、知っているのだろうか。僕は、貴方が僕の顔と名前を憶えていたことに、本当に驚いたのだ。
五歳ごろまで、そう、僕が魔術をつかえないとわかるまでは、『家族』という形だった。話しかければ答えがあり、笑えば笑い返される。家族の定義は知らない。それでもごくごく一般的な家庭の範疇から逸脱はしていなかっただろう。そのことは覚えているのに。
遠くて、遠くて、もう、思い出せない。何の含みもなく笑う実の家族の顔が、思い出せない。七年と少し。いや、魔力測定後、魔術が使えないのだと判明したのは一年ほど後だったから、六年と少しなのか。長くはないのだろう。でも僕にとっては人生の半分だ。
人は忘れる生き物だといつだったかエイヴァ君が言っていた。彼のスケールは何事も大きいので個人の話ではなくおそらくは『人族』というくくりで、長い歴史の中で真実は忘れられ、捏造されていくというような話の流れだったけれど、でも一個人だってあてはまるだろう。
人は忘れる。僕が過去、形を成していた家族をもう思い出せないように。
それなのにどうして、怖かったことだけは、忘れてしまえない。思い出せなくて、いいのに。
……どうしたらいいのだろう。
確かに僕は次期ランスリー家の当主として引き取られた。教育も受けている。けれど、まだまだ半人前だから、実権は領主代理にあると見せかけてシャロンが掌握している。僕に言われたところで変わるものは何もない。というかシャロンに言ったが最後、きれいな笑顔で両断されるんだろう。場合によっては制裁が行く。シャロンはそういうのがとっても得意だしそもそも現時点ですでにたぶんいろんな家のいろんな弱みを握っている。とても怖い。それに手足となる『影』がついている。しかも日々その能力を向上させている。とても怖い。いつの間にかアリィが『影』の『筆頭双璧』になっていた時は、真顔になった。何がどうしてそうなったのか全く分からないし彼らは僕たちを愛しすぎている。うれしいけど、うれしいんだけど、複雑だ。彼らはどこに向かっているのだろうかという疑問は深く考えてはいけないとシャロンと話し合ったのは結構前だ。
ああ、どうしようかな。
まだ僕は弱くて。弱くて、弱くて、弱くて。
僕は多分、元の家族を愛していなかったわけじゃない。愛されたいと思っていなかったわけではないんだ。だからもう今は思い出せない優しい記憶を求めて、求めて、求めた。努力だってした。勉強だって、剣術だって。魔術だって。でも、勉強なんてどれだけやっても当たり前だと言われて、剣術はエディス兄上には敵わなくて、魔術はちっともできるようにはならなかった。
まあランスリー家では全部ひっくり返ったけど。師匠たちはおかしかったしシャロンもおかしかったし使用人のみんなも普通ではなかったし領民ですら影響を受けたのか精神が強かった。『荒療治』されるし身一つで郊外に放りだされるし。魔術が使えるようになって翻弄されながらも笑いあって、本音で話して……その過程でどういうわけか盗賊を捕まえることになって最終的に村の人たちと打ち解けたけど。そしてその元盗賊の現冒険者たちはさっき見かけたけど。
でも、一年半前。確かに僕は『落ちこぼれ』で、『一族の恥』だった。
――ねえ、ごめんね。
かつて、喉から手が出るほど望んだ家族。この手は、僕の手では、あの人たちには届かなくて。諦めて、しまった。
それは目を背けたのと同義だろう。怖かったものから、見たくないものから、目をそらした。まあわき見をできるほど生活に余裕が一切なかったのも事実だけれど。
――それでも、もう。
向き合わなければいけないのだろう。――僕自身で。