アルプスを越えて
本作は歴史を題材にしたフィクションです。
コサック兵たちが、手拍子に合わせて飛び跳ねながら舞い踊る。
しゃがんだ姿勢で脚を交互に蹴り出す特徴的な動きから、立ち上がって軽快なテンポのダンスへ。
ホパーク――いわゆるコサックダンスである。
「おい、ホパークは禁止っていうお達しが出ていただろうが。監獄行きになっても知らないぞ」
コサックダンスはロシアの舞踊と誤解されがちだが、元々はウクライナコサックに受け継がれてきたものである。
ルーツを辿れば、モンゴル帝国に征服された時代に、東方から伝わった東洋武術の動きを取り入れた舞踊だ。
しかし、ウクライナがロシア帝国に併合されると、軍事共同体としてのコサックは解体されてロシア軍に組み込まれ、同時にウクライナの伝統文化に対しても禁止令が出された。
ホパークもその一つである。
「知ったことか。大体、祖国を遠く離れてスイスくんだりまでやって来て、生きて帰れるかどうかもわからん状況なんだぞ。一体誰が取り締まるって言うんだよ」
「そうだそうだ! 踊りでもしなきゃやってられるかよ!」
皆から口々に言い募られて、窘めようとした兵もしばし黙り込んだ後、開き直って叫んだ。
「それもそうだな。いっちょ踊るか!」
そう言ってダンスに加わろうとした矢先、兵たちは皆踊りをやめて一斉に敬礼した。
その視線の先にいたのは、一人の小柄な老人。
髪は真っ白で、顔には深いしわが刻まれた七十前の老人は、しかし、兵たちを一瞬で沈黙させるだけの威厳を備えていた。
「何をやっている」
「はっ、元帥閣下! さ、寒いもので、踊って暖を取っておりました!」
「そうか。サンクトペテルブルクほどではないとはいえ、たしかに、スイスというところはなかなかに寒いものだな」
老元帥はそれだけ言うと、生真面目な表情のまま歩き去った。
兵たちは安堵の溜息を吐く。
「やれやれ、肝が冷えたぜ」
「つっても、あの人変人だけど、皇帝陛下のご威光だとか軍の規則だとかを盾に取って俺たちを締め付けたりするようなお方じゃないんだよな」
「ああ。変人だけどな」
「朝っぱらから雄鶏の鳴き真似で叩き起こされるのはもう慣れたよ」
「ずっと歌を聴かされるのもな」
「けど、意外といい喉をしていらっしゃると思うぞ」
「そうかぁ?」
などと、兵たちから散々な評価を受けている男の名を、アレクサンドル=スヴォーロフという。
モスクワで軍人貴族の子として生まれ、自身も軍に身を置き数々の武功を立ててきた。
いや、「武功」などと簡単に言ってよいレベルではない。
生涯六十度あまりの戦闘を指揮し、寡兵をもって大軍を破ること数知れず、一度たりとも敗北の二文字を経験したことがないという、常勝不敗にして天下無双の名将である。
ただし、その一方で、日常における奇行も数知れず。奇矯な言動で部下を振り回し、上官に対してもその毒舌は遠慮会釈なし、という難儀な人物でもあったのだが――。
「そうだよ! 悲観することなんかないさ。俺たちにはスヴォーロフ元帥がついていてくださるんだから」
「そうだな。あのお方が指揮してくださる限り、勝利は俺たちのもんだ」
遠い異国の地で孤立し、不安に苛まれていた兵たちは、一縷の希望を見出して、ようやくその顔に明るい光を宿した。
実のところ、コサック兵たちにとっては、スヴォーロフに対する感情は複雑だ。
ウクライナコサックとは別系統ではあるものの、ドンコサックの若き英雄エメリヤン=プガチョフがロシア帝国の圧政に反旗を翻し、その焔がヴォルガ川とウラル山脈にまたがる広大な地域に燃え広がった時、それを叩き潰し、プガチョフを虜にしたのが、他でもないスヴォーロフだったのだ。
だが、今はそれより何より、故郷に生きて帰れるかどうかこそが大事。
そう考えた時、スヴォーロフの指揮下にあるということは、何にもまして心強く感じられた。
†††††
1789年に起きたフランス革命は、フランス国内にとどまらず、欧州全体を巻き込んだ。
市民革命の延焼を恐れた周辺諸国は同盟を結び、フランス包囲網を敷いた。
しかし、革命による国民意識の高まりと、優れた軍事指導者たちの活躍により、フランスは諸外国の干渉をはねのけて、逆に領土を拡大していった。
イタリア北部を版図とするサルデーニャ王国はフランスに降伏し、オーストリアが拠点としていたマントヴァも陥落して、イタリア北部一帯はフランスの支配下に置かれた。
これに対し、第二次対仏大同盟に参加したロシア帝国の皇帝パーヴェル一世は、スヴォーロフを最高司令官に任じ、1799年2月、彼が率いる3万の兵をイタリアに投入した。
実のところ、パーヴェルは、母エカチェリーナ二世に重用され自分への批判を慎もうともしないスヴォーロフのことを、ひどく嫌っていたのだが、それでも彼の軍才を認めざるを得なかったのだ。
イタリア入りしたロシア軍は、オーストリア軍5万と合流し、プレシア、ミラノ、トリノといった要衝を次々に陥落させていった。
さらにはアレッサンドリア、マンドヴァなどの都市も連合軍の手に落ち、8月にはジェノヴァを除くイタリア北部はすべて連合軍が掌握するところとなった。
連合軍はイタリアでの戦闘は一段落ついたと判断し、スヴォーロフの部隊をスイスに回すことを決定、スヴォーロフ率いる2万の兵は9月15日、スイス南部のタヴェルネに到着した。
しかし、ここから誤算が重なっていく。
まず、合流するはずだったオーストリア軍の輜重隊の到着が遅れて時間を浪費することとなる。
ようやく進軍を再開し、ゴッタルド峠にかかる通称「悪魔の橋」の攻防戦ではフランス軍を撃退して橋の破壊を阻止するも、コルサコフ将軍率いるロシア軍増援部隊が、マッセナ将軍率いるフランス軍に敗北。
進路を東に転じ、10月4日にスイス東部グラールスに到着すると、またしてもオーストリア軍の輜重隊の到着が遅れ、フランス軍に時間を与えてしまうこととなる。
マッセナのフランス軍は、6万の兵力をもってロシア軍の退路を断った。かたやロシア軍は、弾薬や兵糧も枯渇した状況だ。
圧倒的な兵力差を幾度となく覆してきたスヴォーロフといえども、正面突破は不可能と判断せざるをえなかった。
「やむをえぬ。アルプスを越えよう」
老元帥の言葉に幕僚たちは驚いたが、他に選択肢は無かった。
スヴォーロフは兵たちの様子を視察して回った。
ここまでの行軍で疲労の色が濃い。軍靴は擦り切れ、服もぼろぼろだ。
踊りに興じていた者たちもいたが、体力に余裕があるというよりも、それ以上に不安を紛らわせたい気持ちのほうが強かったのだろう。
彼は奇矯な人となりではあるが、兵たちと一緒に食事を摂ることを好むなど、決して人間嫌いなわけでも情が薄いわけでもない。
兵たちのうち、何人が生きて故郷に帰れるだろうか――。
ふと気弱になりかけたスヴォーロフであったが、二度ばかり首を振って、気持ちを奮い立たせた。
スヴォーロフは敵将マッセナ宛てに、傷病兵への慈悲を乞う手紙を送ると、グラールスから進路を南に転じた。
無論、フランス軍があっさりと見逃してくれるわけもない。
激しい戦闘の末、バグラチオン将軍らの部隊がなんとか撃退に成功するも、損害は甚大であった。
10月6日、スヴォーロフの部隊は標高2,407メートルのパニクサー峠越えに挑んだ。
この時期のアルプスはすでに厳冬と言ってよい。
氷雪の上の行軍は困難を極め、滑落する者、力尽きて倒れる者も後を絶たない。
「馬鹿、こんなとこで眠るんじゃない! ここを越えれば暖かい布団で眠れるんだぞ!」
「はは、もういいよ。雪の布団、暖けえや……」
混濁する意識の中でそう呟いた兵士は、それ以上声を発することも、身動きすることもなかった。
戦友のために流した涙が、たちまち凍りつく。
多くの脱落者を出しながらも、ようやくにして峠の頂上まで登りつめると、スヴォーロフは槍の柄を焚き木代わりにして火をおこし、兵たちに茶をふるまった。
「きょ、恐縮であります、元帥閣下!」
「気にするな。ちょっとでも温まっておけ」
茶を飲んで人心地つくと、兵たちは口々にスヴォーロフのこれまでの戦績を誉めそやし始めた。
と言っても、半世紀にも及ぶスヴォーロフの初期の戦いを実際に経験した兵士たちはもう現役ではないのだが。
「あれは9年前ですか。オスマン帝国との戦いで、イスマイル要塞ってのを攻め落とした戦いに、うちの親父が参加してたんですよ」
「あれは実際に指揮を執っていたのはクトゥーゾフだ。わしは何もしとらんよ」
「あ、俺は5年前のポーランドの反乱鎮圧に参加しましたよ。コシ……何だっけ? 敵の大将もなかなか手ごわいやつだったって話ですけど、元帥が捕らえられたんですよね?」
ポーランド・リトアニア共和国はロシア、プロイセン、オーストリアの三国により分割されてしまったが、タデウシュ=コシチュシュコという軍人に率いられた勢力が蜂起した。
コシチュシュコという人物は、新大陸に渡って植民地独立戦争に義勇兵として参加し、ジュージ=ワシントンの副官も務めたという経歴の持ち主である。
反乱軍は一時はワルシャワとヴィリニュスを解放したが、マチェヨヴィツェの戦いにおいてスヴォーロフに大敗、コシチュシュコも捕虜となった。
「敵の攻撃が激しくて、正直こりゃあヤバいんじゃないかと思ったんですけど、閣下が突撃を命じられたら、あれよあれよという間に敵が崩れていって……。あん時ゃしびれましたよ」
「勝機を正確に読み取って、一気に敵を突き崩せば、勝てぬ戦いはないさ」
「はあ、さすがは閣下」
スヴォーロフはその著書に、「弾丸は愚か者、銃剣のみが賢者」というような言葉を残しており、これを愚劣な白兵至上主義としてあげつらわれることもあるが、この当時の銃の命中率はお粗末極まりないもので、実際にスヴォーロフは銃剣突撃を多用して常勝不敗の戦績を築き上げてきた。
「それが通用した最後の時代の人物」という言い方はできるだろうが。
と、そんな話に花を咲かせ、しばしの休息を取った後、部隊はふたたび行軍を開始した。
氷雪に覆われた山を下るのは、滑落の危険がつきまとう。
多くの犠牲を出しながらも、部隊は山を下り切り、イランツの町に到着して、ようやく連合軍との合流を果たした。
このアルプス越えにおいて、スヴォーロフは5千人以上の兵を失い、その損耗率は28.4パーセントにも達したと言われている。
それでも、敵地で孤立して全滅の危機に瀕していた部隊を脱出させるのに成功したということで、「ハンニバル以来の快挙」との賞賛を受け、スヴォーロフはロシア大元帥の地位を与えられた。
これは本来大貴族のための名誉職で、純粋に軍事的功績でもって勝ち取ったのは、ロシア帝国史上、スヴォーロフただ一人である。
しかし、パーヴェル一世は、どうしてもスヴォーロフが気に入らなかったのか、翌1800年、サンクトペテルブルクに凱旋した彼から、突如としてすべての地位と名誉を剥奪し、公職追放してしまう。
スヴォーロフの名誉が回復されたのは、彼が同年のうちに寂しい死を迎えた後、パーヴェルの子アレクサンドル一世の時代に入ってからのことである。
――Fin.
※ロシア帝国はユリウス暦を採用していましたが、作中の年月日はグレゴリオ暦で記載しています。