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怖いくらいにブランドが好調な中、気付けば亜紀さんは寂しそうな顔をすることが多くなっていた。
そんな時に声をかけると、情熱的過ぎるキスやハグだけでは済まない。
「あきさん、」
窘めるように言って離れるそぶりを見せても、「いやだ」と余計に抱き締められる。
さすがに、大学の授業や彼の仕事に支障が出るようなことはなかったけど。
「……あきさん」
避妊を促せば、きちんと準備をしてくれるけど。
彼は、子どもを欲しがってた。
まだ大学生だから、とか、今はモデルの仕事をしたいし、とか、いろいろ理由をつけては避妊を続けていた。そもそも、結婚を公表できてないままだし。
――子どもを作りたいってことは、やっぱりジョーは男なのかな。なんて思ったりもした。
ステラシオンでの仕事を減らしたかわりに、私は従来の仕事を徐々に増やしていった。
彼は雑誌に載る私の姿を見るたび、「……面白くない。奈々は俺の服着てる時が一番いい」とむくれる。そんな風になるなら見なけりゃいいのに。変な人。
でもモデルとしては、一番気に入られてるのかな。だったら嬉しいな。それなら、もしかしてビジネス婚を解消したとしても、モデルとデザイナーとして繋がっていられるかもしれない。
そんな風に、思うようになってた。
ある日、事務所で打ち合わせしてたら珍しく社長に呼び出された。
なんだろう、なんか失敗しちゃっただろうか。ここ最近の仕事をざっと思い出すけど、ポカも誰かに失礼なこともしてないはず、と自分を励ましつつ社長室に出向く。
部屋に入った途端、「最近のアンタはかわいくない」と聞き慣れた駄目出しを受けた。
またかと苦笑してると、「あのピョロッとした坊やは何をしてるのよ」と、今度は亜紀さんにまで飛び火が。
「あの人は関係ないです。よくしてくれてます」
「嘘」
ずばりと言い当てられた。
「関係ない? よくしてくれる? そんなのはね、先のない恋愛にしがみ付いてる駄目な女の常套句よ」
「……」
「互いを高め合えないような関係なら離れなさい。現に、アンタはブスになってるじゃない」
さすがにその言葉は傷付く。
「仕事にはまだ影響ないわ、でもね。――今のアンタは『西条ナナ』にふさわしくない」
「!」
「支障が出るようなら、アンタがいくら泣いて嫌がっても別れさせるから、そのつもりでいなさい」
社長に言われたことを考えながら帰路についた。
確かに今の自分は、ジョーへの僻みと、亜紀さんへの猜疑心だらけ。
好きなのに変わりはない。幸せだ。尊敬だってしてる。でもそれは、社長に言わせれば『駄目な女の常套句』。
「……私の負けかあ」
社長に言われるまでもなく、自分に残されていたのは撤退戦のみだった。
「クローゼット随分あいてない?」
亜紀さんに言われてドキリとした。
「ああ、夏物もうしまったから。あと断捨離?」とごまかす。
自分の私物は、少しずつ私名義で借りたマンションに移していた。学業と仕事の合間にこことそのマンションとの行き来をしていたら、今度は「最近帰り遅くない?」とつっこまれてしまう。
「ごめんね、撮影が長引くこと多くて」
私は、嘘を吐く。あなたに、嘘ばっかりついて。
亜紀さんは、私の返事を聞くたびに「……そう」と目を伏せるだけでなにも言わない。
ジョーにだったら言うのかな。『好きだ』も、『愛してる』も。
想像してみたけど、亜紀さんの声で聞いたことはないから、うまくできなかった。
亜紀さんの元いたブランドが潰れた話は人ごとじゃない。パパの会社も似たような状況で、ここ数年でもう随分な数の店舗をクローズした。それでもなんとか生き残る道を模索していたみたいだけど、この間甲田さんにこっそり聞いてみたら、明確な返事の代わりに黙って首を横に振られた。それで覚悟はできた。
彼から身を引く。とりあえずの別居、ではなく、赤の他人になる。
私が彼のためにできることなんて、もうなんにもない。それどころか、このままもし彼と一緒にいたら、あの人は『お世話になったから』って、パパの会社に手を差し伸べようとするに違いない。そんな風に、迷惑をかけたいわけじゃないのに。
時期は慎重に選んだ。私がいなくても変わりないかもしれないけど、それでも万が一仕事に影響が出たら申しわけないから。
そして今日、離婚届に判を押して家を出てきた。当たり前だけど、新しい住所は教えてない。スマホも新調して番号も変えた。
さあ、これであなたは自由になれる。
魔法が使えなくなった私からの、最後の贈り物。
亜紀さんと暮らした部屋を出たあと、まだ馴染んでいない自分の部屋には行きたくなくて、なんとなく実家に足を向けてみた。そしたら、珍しくママが家にいた。
「どうしたの?」
「今日はオフ。前から確保しててパパとのデートをずーっと楽しみにしてたのに、あの人ったら会社になんか行っちゃって」
ぷっと膨れてみせるママがかわいくて、思わず笑ってしまう。
「なんで夫の会社が倒れる寸前なのにそんなのんきなのママは」
「私がキリキリしてても、どうしようもないじゃないの。それに、何とかなりそうって話よ。ブランドのあり方は大きく変わるらしいけど」
「……そう」
そっか。なら、慌てて離れなくてもよかったのかな。
「奈々、聞いてないの?」
「どこからもそんな情報入ってきてない」
「ふうん。あっ、ねえ! いただきもののマカロンがあるの、いっしょに食べよう!」
そんなわけで、夫と暮らした家を飛び出してきたもうすぐ元がついてしまう妻と、夫の会社が傾いたけどなんとかなりそうな妻は、優雅にお茶を楽しんだ。
取り留めのない話――最近になってようやくパパが生クリームの量を減らして健康に気遣ってるだとか、仕事の話だとか――をしたあと、ママは急に「ねえ、奈々は今日どうしてここへ来たの?」って聞いてきた。
「……どうもしない。実家に来たくなったから来ただけ」
「ほんとかなあー」
「ほんとだって。あと、こっちに置きっぱなしの荷物をいいかげん持って行こうかと思って」
「どこに?」
「え」
「奈々、松宮さんとの生活を解消しようとしてるんじゃないの?」
まったく、社長といいママといい、私の周りの女たちはなんて勘が鋭いんだろうと思いつつ、紅茶に口をつけてシラを切る。
「どうしてそう思うの」
「スマホの番号、あなた誰にも言わずに変えたでしょ。松宮さんが『奈々にメールしたけど届かなくて、電話かけたら通じなくなってた!』ってあなたが来る前に連絡寄越してきて、そりゃあもう大騒ぎよ」
あんまり頻繁に掛けてくるからスマホの電源切っちゃったと、ママはさらっと言うけど。
そうか、夜帰って離婚届を発見されるまで亜紀さんには分からないと思ってた。まさか日中に連絡をくれようとしてたとは盲点だった。
「あの様子じゃ、あなたと親しそうな人のところに連絡しまくってるんじゃない? 仕事そっちのけで」
「そんなまさか」
「早く教えてあげなさいよ?」
「……だって、私、家を出てきたのに連絡なんかできない」
「ほらやっぱり」
「え、今の誘導尋問!?」
すっかり騙されてしまった。
「ううん、松宮さんが半狂乱で連絡しまくってるのは本当みたいよ」
「嘘、なんで」
執着される理由なんてない。――はずだ。
「あなたのことを愛してるからでしょうがー」
左隣に座ってるママの手が伸びてきて、ふにゅっと頬をつままれた。
「……それはないよ」
「なんでそう思っちゃうのかなあ」
夫婦の不和の内訳なんて、身内にこそ話しづらい。黙り込んでマカロンを食べてたら、「味わって食べない人にはあげない」と片付けられてしまった。
紅茶のおかわりを淹れてくれる手をぼーっと見てた。ママは、湯気の向こう側で少し儚げに見える。
「……奈々は、愛されるってどういうことかをうまく学ばないで大人になっちゃった。そのせいね、彼を信じないのは」
「そんなんじゃない」
「いーえ。あなたに散々寂しい思いをさせてたって分かってる。……ごめんね」
「……」
「それでも、だからって大事な人にまで寂しい思いをさせたらだめなのよ。私が言えた話でもないけど」
「そんなこと言ったって、」
「奈々。よく聞いて。あなたたち二人の間になにがあったかは知らない。でも、始まりはどうあれ、あなたたちは素敵な夫婦よ。そのことを忘れないで」
平気なふりして紅茶を飲むけど、湯気のせいか前がよく見えない。
「だって、わたしは、」
そっとカップをソーサーに戻したけど、カチャッと鳴ってしまった。
「パパとママの娘で、お嬢様だったから、彼の役に立っただけで、」
もう隠せない。涙が、ぼろぼろといくつも零れ落ちてくる。
「もう役に立たないし、きっと必要じゃないから」
ぎゅっと握った拳で、目元をおさえて、子どものように泣いた。
「……ばかね」
そう言って、ママは私を緩くハグした。
いい匂いのするママに誘導されるまま、つらつらと離れる決意に至った経緯を話した。
なのに、すべてを聞いたママは「ありえない、松宮さんに限って浮気なんてありえなさすぎる!」って私の苦悩を全否定した。
「なら、きっと本気よ」
渡された保冷剤で目元を冷やしながらそう答えても、「それはもっとありえないでしょ」と一蹴されてしまう。
「だって、私ほんとに聞いたもん、何度も」
「でも彼は『違う』ってはっきり言ったんでしょ?」
「……そうだけど」
「奈々、彼を信じてあげて。それで、もう一度聞いてごらん?」
「無理」
「もう、そうやってすぐ投げ出すとこはパパにそっくりねー!」
ママは嘆くと、すっと真顔になった。
「奈々」
「はい?」
「彼があなたを愛してないって言ったなら、私今日限りでモデルを引退する」
「はあ?!」
突然の爆弾宣言に、滲んでた涙も引っ込んでしまった。
「うん、そうしよ! パパもヒマになりそうだし、二人でオアフ島にでも行ってのんびりバカンスしよう!」
――なんか、楽しんでない?
「でも、私は私を信じてるから、バカンスはまだおあずけだって分かってるけどね」
「え、さっきのはじゃあなんだったのよ!」
真に受けた自分がバカみたいだ。
「奈々は、奈々を信じないの?」
「私を?」
ママは、カメラの前に立ってるような、どこか迫力のある雰囲気を滲ませて私に言う。
「私は娘のあなたを当然愛してる。それとは別に、モデルとしてのあなたも好きよ。堂々としていて、どうしたら身に着けているものが一番輝けるかを考えられる素敵な人ね」
「……そんなの初めて聞いた」
「初めて言ったからね」
ふふっと、二人で笑った。
「あなた、さっき『もう役に立たないし、きっと必要じゃない』なんて言ってたけど、あなたがいるから松宮さんはあんなにのびやかにステラシオンを育てられたのよ。それはパパからの援助だとか、そういう物質的なものではないの」
ママの手が、私の手を握る。伝わってくるのは、体温だけじゃない。
「あなたはモデルでしょ。身長が一七〇あるのに七号の服を着ろだなんていうオーダーだってこなすし、合わない靴でマメができたって美しく歩けるでしょ。なにより、彼の服を世界で一番綺麗に着こなせるでしょ! それは、あなたしかできないことよ」
ママの言葉で、心の中で小さくうずくまってた私が顔を上げる。
「自信を持ちなさい。あなたは何も失くしてなんかいない。それに、何もかも失くしたとしても、私たちは自分の歩きたい方へ歩ける足を持っているのよ。あなたが失くしたと思っているものは、歩いた先にあるのかもしれない」
「……でも、なかったら?」
「探すのよ。見つかるまで」
最後にぎゅっと握って、ママの手がするりと離れた。
私は、名残のようにこぼれた涙を拭いて、ソファから立ち上がった。
「行くの?」
「うん」
身支度をして、玄関へ向かった。ドアを開けて、ママの方を振り向く。
「ママ、ありがとう。大好きよ」
今度はママがきょとんとした顔になる。
「……初めて言われた」
「初めて言ったからね!」
じゃあ、ってそのまま行こうとしたら「新しい番号教えてきなさい!」って言われて、そんなことも忘れてたのかと呆れつつママに伝えた。
カツカツと、ヒールを鳴らして通りを歩く。小走りになる。
それでも足りなくて、とうとう走り出した。
あなたへ。あなたの方へ。