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「これでよし、と」
持ち込んできた私物をすべて引き揚げたら、ところどころポッカリと穴が開いてしまったような部屋。
あなたと暮らしてた思い出がぎゅっとつまってるここを出て行くのはさすがに名残惜しくて、二人でよくおしゃべりをしたダイニングの椅子に腰かけ、室内をぐるりと見渡した。
今朝は起きてきたあなたをまじまじと見てしまった。顔も声も心にしっかり焼き付けようと思って。そしたら『……そんなに寝ぐせ、すごい?』って心配そうに髪を触ってたのがかわいかったなあ。
思い出し笑いしつつ、その届けをテーブルに広げて、あなたの名前が入るだろう空欄を指でなぞる。
ありがとう。
楽しかった。
さよなら。
どれもほんとうなのに、どれもが一番伝えたいことじゃない。一番伝えたいことなんか、聞いたところであなたが喜ぶわけないって知ってる。
「……愛してる」
だから、あなたと暮らしたこの部屋のリビングでつぶやいてみた。
愛してる。だから、あなたを解放してあげる。
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その日、放課後に入れていた仕事を終え一人で入ったシアトル系カフェで、そこにいないはずの人を、見た。
丸めた背中と、大きく波打つ髪と、着心地のよさそうな白いシャツと、履き心地のよさそうなワークパンツ。それは、変わりなかった。
ただ、前に見たよりずいぶん痩せているようだ。――あの日の、目の輝きはどうなってる?
私はそれを見たい気持ちと見たくない気持ちを戦わせながら、トレイを持ったまましばし立ち尽くす。
とん、と背中に誰かが当たったその勢いで、覚悟もないまま歩き出してしまった。
のろのろと、ローファーの足を踏み出す。右。左。ランウェイを歩くときとは真反対に、ずりずりと足の裏を引きずるようにして、ゆっくり。
とうとうテーブルの真横で立ち止まる。
あなたは、自分の横を過ぎると思っていた女子高生のハイソックスの脚がいつまでも動かないのを不審に思ったのか、ようやくのろのろと顔を動かしてきた。反応遅いよ、と苦笑する私。
「こんにちは」
「――え……?」
「ここ、座らせてくださいね」
返事もないまま向かい側の席に座ってやった。カフェモカをふうふうして啜る。――あつい。
飲み物を飲んでいれば沈黙もまぎれる。二人の間を、天使が何人通ったかな。
あなたは、信じられないと言う目で私を見て、視線を落として、上を見て、横を見て、また私を見た。そして。
「……なんで、ここに」
呻くように言った。
「撮影が早く終わったんですよ。今日、学校半日だったからその分早く現場入れて」
「……そっか、相変わらず売れっ子さんなんだね。ニコラッテの表紙、毎月君だ」
「私はどうでもいいの。松宮さんこそ、のんきにお茶なんかしてる場合?」
本当なら彼が留学後に勤めたブランドは今、ひと月かけて大々的に行われる予定のイベント初日を数日後に控えて大忙しと聞いている。こんなところでお茶していられるほど優雅なスタッフなんていないはず。
私が放った質問に答えず、ただ困ったように笑う顔を、何年かぶりに見た。それは相変わらず。でも。
次の瞬間、ようやく目が合う。
その目の輝きは弱まるどころか、もっと強くなっていた。
私と松宮さんの話をしよう。
私は都内に住む平均的な女子高生。――じゃない。すっごい特殊だ。
なにせ、アパレルメーカーの社長令嬢で、母は日本でのスーパーモデルのさきがけのような存在だし、自分自身もティーンズ雑誌を中心に活躍してる人気モデルなので。
そんな私が松宮さんと出会ったのは、とある服飾系ファッション誌が行っている新人デザイナーの登竜門のコンテスト。
一次はデザイン画で審査される。そこを通った数名は、実際に制作した作品をモデルに着せて、ショー形式で最終審査に挑むことになる。優勝すると賞金とパリ留学と、業界に大きなつながりを持てる権威あるコンテストだ。松宮さんはそれに応募したデザイナーの卵で、私は松宮さんの服を着るモデルとして関わってた。
一次のデザイン画は得意でも、実際それをイメージ通りの形にできる人はと言ったら、ほんの一握り。何度かこのコンテストのモデルをつとめたけど、私が素敵だと思ったのは松宮さんの服だけだ。
オーガンジーをいくつも重ねたドレス。生地は薄いけど重ねればその分どうしてもボリュームが出る。デザイン画は素敵でも実物はどうかなって、期待しない私が実物を目にした時。
CGかと思った。ほんとに。それくらい、嘘でしょってくらいに、ドレスは完璧にデザイン画を再現――いやちがうな、デザイン画を越えてきてた。
奇抜とベーシックの両方を兼ね備えたふしぎなドレス。たくさん重ねた生地は水の中の光のような色合い。
着心地は、と恐る恐る袖を通してみたけど、思ったようなごわつきはない。縫製もとても丁寧で、変なシワや雑な仕上げはどこにも見当たらなかった。
とはいえ、いくら着るものが良くても、付属品や靴がそれを台無しにしてしまうケースも多々ある。
でも松宮さんは、ヘッドドレスもアクセサリーも靴も、当たり前に作りこんできていた。
舞台裏で、それを着せてもらった私の気分はめちゃめちゃ高揚してた。だってそうでしょ?
モデルなんかしてるくらいだ、私は身に着けるものが大好き。幼い頃からファッションの現場に慣れ親しんでいるから当然目だって肥えてる。その私が、こんなに魅了された。いいものじゃないわけがない。
普段、撮影で着るものは、ハイブランドもあるしプチプラのものもある。その全てが自分の好きなものとは限らない。それでも、求められたとおりに着こなすのが私の仕事だ。
今までのコンテストもそう。デザイン画の再現がうまくいかなかった服だって、私はできるだけイメージに寄り添えるように着たつもり。でも。
『着たつもり』と『着た』は、イコールにはならないって、松宮さんのドレスが語ってた。
素敵なそれらを身に付けた私は、普段とは全然違ってた、らしい。
服を着たなんて、とんでもない。むしろ着られてた。そして、私が支配されてた。
ランウェイは、事前に聞いてたコンセプト通り――打ち捨てられた未来都市の、とうに使われていない滑走路――として、私の目に映ってた。
私はそこを、歩く。豪奢に着飾った姿を見るものは、誰一人いない。
そんな寂しい風景を、ただ歩いた。
袖に引っ込むやいなや、松宮さんに両手を取られて「ありがとう」とお礼を言われた。きょとんとしていると、「思った通りに着てくれたから」って、嬉しすぎる言葉。
「お礼なんていりません、私はただ着せてもらっただけ」
服にあんなに引っ張られたのは初めてで、まだドキドキしていた。ほうとため息をつけば、松宮さんは困ったように笑う。
「最初はね、いくら人気があるって言っても、二世丸出しの若いモデルさんに着られるのは嫌だなって思ってたんだ」
「よく言われるソレ」
「でも、とんでもなかった。――君は、プロなんだね」
「当然」
身の丈に合った賞賛は、遠慮せずしっかりと受け取った。胸を張る私を見て、松宮さんがまた困ったように笑う。
「君に、いつかまた俺の服を着てほしいな」
「留学したあとどこかのブランドに勤めて、それから独立して? 随分遠い話だけど、楽しみにしてるから絶対よ」
「……俺が優勝できるって思ってる?」
おそるおそる、といった感じの松宮さんに、私はとびきりの笑顔を向けた。
「私があんなに魅了されたのよ、優勝じゃなかったら思いっきり抗議してやる」
「それはやめて」
なにがおかしいのか、くつくつといつまでも笑う背中に、そっと手をやった。
「背を伸ばして、堂々としていなさい。自信は人を大きく見せるのよ。これはママの受け売りだけど」
「……はい」
なんか、私が年上みたいねって思ってたら松宮さんにも「なんか君の方が年上みたいだ」って言われてしまった。
思った通り、松宮さんはそのドレスで優勝と賞金と留学を勝ち取った。その時の審査員の一人に目を掛けてもらって、留学後は彼が主宰しているブランドのデザインチームに入った、はずだった。
16/11/30 一部修正しました