開始直前
式典には、多くの国から多くの要人が来た。その人物を警備するためだけでも、夜の国の軍は多大な人員と予算と時間を浪費している。
だからと言って、警護しないわけにもいかなかった。
今回の式典の意味は、世界が平和になった、と宣言する事なのだ。
文字通り、世界全てがそうなった、と示さなければならない。だから、どこかの国だけを参加させないわけには行かず、かと言って誰か一人でも表立って襲われてもいけない。
非常に神経を使い、かつ精神的な重圧が大きな仕事だ。夜の国は、勇者と聖女が居るというだけで、その式典の会場にさせられた。
貧乏くじを引いたとも言える。
遠足は家に帰るまでが遠足だ、とよく言われるが、この式典も似たようなものだ。
全要人が、自分の国に帰れてようやく終わりになる。それまでは、どこであっても気が抜けない。そのため、要人が帰国するまで、国が提携して警護する事になっていた。
無論、そのために一番人員を割かなければいけない国は、出立地点をとなる夜の国だ。
夜の国はこの為だけに、五割近くの兵隊を割いていた。
それは数日間のことだろう。しかし、その数日間、確実に夜の国の軍事関係は力を弱めてしまう事は確実だった。
普通なら、これほどおいしい時はない。どの国も獲れるものなら、その国の領土を獲ろうと画策する。
しかし、夜の国にしても、その周辺国にしても、その心配は考えてなかった。
夜の国周辺にある国は、戦争を仕掛ければ、自分の国の要人を殺されてしまう。
その上、戦争を仕掛ければ、他国よりの非難はもちろん、自国においても民衆が納得しない事が分かりきっていた。
折角掴んだ平和を、たった数ヶ月で手放そうと考える人間は、そうはいない。そのまま平和で居たい、と言う考えが大多数だろう。
だから、誰もが油断してした。
式典から二日もあれば、帰る事の出来る国すらあると言う事を、誰もが忘れていた。
「そりゃ、やばいな」
テイは咽喉に詰まらされた饅頭を押し込む。話の内容があまりに突飛で、洒落にならなかった所為だ。
「だろ、だから皆、逃げてやがる」
片目は、土で汚れた饅頭を片手で弄んだ。
「もう、半分も残ってないか」
テイの言葉通り、浮浪者の町ヒトシャには、普段の半分も浮浪者が居なかった。
捨てられていたもので作られた家には、人の気配があったが、それも僅かなものだ。
外にいたっては、もうほとんど人影を見る事が出来ない。いらない者で、いらなくした者が作った、いらない街は、全てからいらないと言われた様に、寂しく静まっていた。
「まったく根性がありやがらねぇ」
片目は不機嫌そうに呟き、饅頭を頬張る。
「まぁ、俺も暫くしたら逃げるだし、他の奴らの事は言えねぇ。けどなぁ」
情けないと言いたそうに、片目は深く深くため息を吐いた。
「あんたがここから出るのか?、信じられないな」
テイが生まれて初めて海を見た人間と同じ顔で、片目を見つめる。
「まぁな。本当なら出て行きたかぁないが、逃げらんねぇ連中、どうにかしないと、もうここには居られねぇからな」
片目はまだ、人気のある家に視線を移した。
「なるほど、あんたらしいな。本当に馬鹿だ」
テイは片目の言葉に苦笑する。
そんなもの、見捨てた所で誰も文句は言わないだろう。
そこで自分の信念を曲げてまで、自分の心を騙さない姿は馬鹿にしか見えない。
「うるせぇよ・・・・・・そんな事より、あんたはどうすんだ?、残るのか?、それとも行くのか?」
片目はそっぽを向きながらも、心配そうに尋ねた。
|(良い奴だな)
そう思いながら、テイはゆっくりと聞く。
「なぁ、大原の国がここに攻めて来るまで、後二日だったよな?」
「ああ」
質問の意図が分からず、片目はゆっくりと頷いた。
「じゃあ、夜の国の軍隊が全てそろうには何日必要か分かるか?」
「五日は必要だろうな。篭城すりゃ、多分どうにかなるだろう」
片目はテイの目を見ながら、ゆっくりと言う。片目の目は、テイの顔のしわ一つでも見逃さない様に大きく開かれていた。
「五日間かぁ」
テイは深刻な問題に突き当たった様に呟く。
「おい、城下町に隠れるのはやめておけ」
片目はテイの考えていそうな事を、先回りして止めた。
「やっぱり無理かぁ」
テイは残念そうに頭を掻く。城下町に隠れる事は無謀としか思えない考えだ。
城下町には、城壁があり、軍もある。一見、安全そうに見えるが、浮浪者達にしてみれば危険しかない所だ。
兵に見つかれば、良くて捨て駒の兵にされ、悪ければ間者としてすぐに殺されてしまう。
住民達にしても、無駄な残飯は出さないだろうし、浮浪者を見つければストレスのために何をやるかわからない。
篭城が始まれば、そういう状態になる事が明白だった。
「なんだったら一緒に逃げないか?、南にあるヒュマーズに身を潜めんだ。あそこなら暖かいし、ここと同じぐらい食いもんもある。悪い話じゃないだろう」
片目が、テイの腕を取って聞いた。最初から決めていた答えだったはずが、答えるまでに時間がかかった。
「悪いけど、ここに残るよ。ここにしか場所はないから」
テイはゆっくりと首を左右に振る。
「そうか。まぁ、仕方ないな。生きてたらまた会おうや」
片目はあっさりと腕を放した。
「ああ、また会おう」
テイは片手を挙げて、右へ向かう。
「じゃ」
片目も片手を挙げて、左へ向かった。
詩行の間には、古参の参謀が一人座っていた。
他には誰も居ない。他は、今頃、城の中を駆けずり回っている事だろう。
古参の参謀も、理由がなければ、一緒に走り回って居たかった。それは許されていない。ここに居なければならない理由がある。
古参の参謀は顔を顰めながら、座っている。
本が辺り一面を覆い、机の上には紙が散乱していた。
慌しい様子の城内と違い、古参の参謀の気持ちは沈んでいる。
「くそぉう」
胸の奥にある全てを吐き出す様に唸った。
大原の国が極星の国を無視し、こちら、夜の国を攻めてきている。
その報告を受けてから、古参の参謀の心には苛立ちと焦りが増殖していった。
考えてみれば、それほど不思議な事ではない。
魔王を倒して以来、どこもまともなに兵隊の補充を出来る状態ではなかった。飢えから身を守るだけで精一杯だったのだ。
それは極星の国も夜の国も変わらない。ほとんどの国が、統治できるギリギリの兵力を捻出するだけで四苦八苦していた。
更に、ほとんどの兵が新兵で、実戦でそれほど使える力量ではない。
今回、夜の国が出した警護のしても、五割近くの兵が成績は優秀な新兵だった。
そんな、張子の虎と言っても良い軍の台所事情、そして数日間、その五割近くが四方へ散ってしまう。
それだけの好条件がそろっていれば、そこを狙って敵軍が来ても可笑しくはなかった。
奇策ではない。ただ、時期と条件をそろえた普通の侵略だ。人としての甘さと弱さが、考えなかった可能性でしかない。
「他人事ではない、あたりまえだった」
幾らなんでも、式典中に攻めては来ないだろう。そう考えてしまった自分が情けなくなった。
古参の参謀は痛みがなくなるほど、強く拳を握り締めている。拳から血が流れ始めた。血液がこぼれる。
血液が床に当たる時、ノックと同時にドアが開かれた。
古参の参謀が顔を上げる時には、ドアは閉まっており、エウシウスとフレイが入って来ていた。二人とも服や髪が乱れ、慌ててここまで来た事が分かる。
「現状はどうなってるだ?」
古参の参謀が何かを喋るより早く、エウシウスが口を開いた。
「地方から兵を集めるための使いの準備が完了しました。
後はシャナ様の許可が取れしだい、兵の出向に向かわせます。
街にも、すぐに避難出来る様準備をさせています。後三時間も有れば、準備は完了するでしょう。
こちらもシャナ様の許可が取れ次第、避難させます」
古参の参謀は早口で他の二人が行っている事を報告する。
「相手の動きは?、それと兵力も」
フレイが感情のこもらない声で言った。古参の参謀は自分が機械になった様に感じながら、地図上にある赤い飾りのついたまち針を抜く。
「最新の報告は二時間前のものですが、青い針が相手の進軍状況です」
前置きを入れ、男は青いまち針を地図上に刺していった。針には1,2、と数字の書かれた紙が張られている。
「見ての通り、東にある森林付近からこちらへ一直線に進んできているようです。
あの辺りは、砦がなくここまでほとんどフリーパスでしょうね。
もし近隣にある村を襲撃しなければ、後一日半でここへたどり着きます」
古参の参謀は地図に書かれた地名を、幾つか指差した。その全てが、青い針と城の間にある。狙われる候補の町、と言う事だろう。その量の多さと嫌なばらけ具合に、エウシウスとフレイは眉間に皺を寄せた。
そんな二人の顔色を確かめた後、古参の参謀はそして、と話を続ける。
「相手の規模は、約五千です。割合は分かりません。しかし、確実にこちらより腕利きの間者がいます」
自分の言っている意味が理解できているのだろう、男の声は震えていた。フレイとエウシウスの顔が、引きつって来ている。
「今、城内にいる兵力は?」
フレイが、絶望を振り払うように尋ねた。
「千十六・・・・です。病人や怪我人が居なければ、ですが」
「地方に居る全ての兵の数は?、式典の警護をしている者は数に入れないで」
「約五千になります。その内、騎士二十六、兵士約四千、魔法使い千と少しです」
古参の参謀は澱みなく答える。
このぐらいの事は、すでに何度も算出したのだろう。答えに迷いも不安もなかった。
「そう」
フレイはそこで顎に手を当て、考え込む。時間にして数秒だろう。すぐに視線を古参の参謀に戻したフレイは、ゆっくりと間違いがないように尋ねる。
「その兵をここに集めるには、何日かかる?」
「相手が妨害しなければ、と言う条件付で四日です」
「三日ならどれぐらい?」
古参の参謀の答えを聞いたフレイは間髪いれずに、条件を提示した。
古参の参謀は両目を閉じ、こめかみを人差し指で叩きながら、計算を始める。エウシウスとフレイの視線が、古参の参謀の挙動に集中する。
「全体の五割が、来てくれれば良いでしょうね」
数秒後、男は両目をゆっくり開けながら、苦しそうに言った。
「となると、最低でも二日と半日は守らなきゃ、使える援軍は来ない、か。まぁ、約三日ならどうにかなるかな?」
エウシウスはフレイに視線を移し、同意を求める。
「そうね。で、間者の方はどうして?」
フレイは古参の参謀から視線を離さずに頷いた。
古参の参謀は一枚の紙を、地図の上に乗せる。エウシウスとフレイは、その紙を覗き込んだ。紙には1、2、3、という数字と、その横に名前が書かれている。名前は幾つか線が引かれ、消されていた。
「間者には、一時間おきに相手の情報を持ってくる様に命令が出ています。しかし、四、五回ほどですが、間者が帰ってきていません」
古参の参謀は斜線の引かれていない名前を、上から順に指差す。
「ただ見つかっただけかもしれません。
しかし、これだけ、しかも散発的に見つかるとは考えにくいです。
それに、相手軍でこの事が騒ぎにもなっていません。
多分、情報を持って帰る道中で、殺されたんでしょう」
「そうなると、殺された間者は、何か見られて困るものを見た、と推理したいわね」
フレイの推理に、古参の参謀はそうでしょう、と頷いた。
「それは考えました。
しかし、その前後の報告を見ても、別段変わったものはありませんし、後から来た間者に聞いても、特別変わった事はなかった様です。
もし何か重大な事があれば、交代する時メッセージを何か残しているはずです」
古参の参謀は言外に、それはないだろう、と申告する。
「確かに、重大なものは見てないかもしれない。けど、何かを見た。そうでなくちゃ、中途半端に殺す意味がないもの」
フレイはゆっくりと線の引かれていない名前をなぞる。白い指が黒い文字の上を踊った。
指はゆったりと円舞曲を踊り、そのまま地図の上へと舞台を変える。
それに伴い、体が指について動いた。
「殺された間者の前後、それらの報告を見せて、多分何か違和感があるはず。なかったらそっちの方が可笑しい」
指は青い針の間を踊り抜けていき、古参の参謀の目の前で止まる。死体の様に白い、病的な指が男の視界いっぱいに広がっていった。
「待った。
相手の真意探しは重要だけどさ、その前に篭城するか、打って出るか、それを決めないか?、まじめな話、どっちにしても時間がない。
急いで準備したい」
エウシウスの要求に、フレイと古参の参謀は深いため息を吐く。
「それを決めるために、相手の出方が重要なんでしょうが。間違えたら負ける、て分かってる?」
「失礼ですが、今はまだ決められません。相手の用兵が分かりません。それに極星の国を破った理由が分からない以上、下手な手は打てません」
二人から駄目出しを受け、エウシウスの顔が引きつった。
「そりゃそうかも知れないけどさ。実際、準備をするなら、そろそろしないと間に合わないだろ。準備が出来なくて負けました、は最悪すぎだ。
無駄になるならなるでいいから、どっちにするか仮決めで決めないか?」
エウシウスが自分の経験から、二人に反論してみる。
「一理ありますね」
「こうしていても、分かるとも限らないしね」
古参の参謀とフレイは頷くと、紙の上に何かを書き連ねていった。エウシウスの角度からは良く見ない。
エウシウスは椅子に座り、二人の話し合いを眺めた。
エウシウスには戦略レベルでの知識はない。経験は何度か積んできたが、まだ活用できるレベルではなかった。
具体案の製作となれば、知識だけはあるフレイやプロである古参の参謀に任せたほうが効率がいい。
これから忙しくなるし、と呟き、エウシウスは一休みする事に決めていた。
十数分後、エウシウスの前に紙が一枚出される。
エウシウスは紙を受け取りながら、差し出した人間を見た。病的なまでに白い肌と、君の悪い刺青が施された顔が、瞳に映る。
「篭城の方向で決まったから。そっちなら、まだ綱渡りにならないはず。それと、ここに書いてある事、シャナにやらせといて」
フレイはもう一枚綺麗に畳んである紙を、エウシウスに渡した。エウシウスは手にした紙を頭上に上げる。
「これ、何が書かれてるんだ」
「事後処理用、後でケチつけられない様に、やる事はやっとかないと」
エウシウスの問いに、フレイは唇を吊り上げて答えた。
昼ごろには、浮浪者の町からほとんど人の気配が消えていた。
いらない物と、その隙間にはいらなくなった様なくすんだ光が入って来ている。
青色の空には灰色の雲が鎮座し、空すらも穢れていた。
世界全てがいらない、と叫んでいる様に寂しく、悲しい風景だ。
温かみが消えた隙間の隅で、テイはそれを見下ろしていた。
それは隙間の隅の隅、誰も気づく事がないほど小さな隙間で丸まっていた。
世界と言うものを縮小する事だけを考えている様に自分を抱え、他人を拒絶している。今、この場にいる証明は、その口から出ている単語のみだった。
「あの極星の国で武将となったにしては、情けない最期だ」
テイは無感情に、事実を垂れ流す。
それは極星の国と言う言葉に、更に身を縮めた。その動きだけが、それがまだここにいる証明だった。
「まぁ、いいや。あんたがどうなろうとね。それより、聞きたいんだけどさ」
テイはそれの耳元に顔を寄せる。
「一体、戦場で何があった?、何がお前を脅えさせる?」
テイは硫酸と同じ意味を持つ言葉を、囁く様にそれの耳に流し込んだ。
「あ、ああ、ああああ、ああ、あああ」
それは精神を激痛と共に溶かされる。鼓膜の内側から、肉の焼ける音が聞こえてきていた。
それは干からびかけた身体で、テイを見る。
無視する事も、自分の世界に入る事も出来なかった。
無視をしてしまえば、次はどんな劇薬を囁かれるか分からない。
自分の世界に入れば、あの時の光景を見せ付けられる。
どちらもそれにとって、逃げ出したいほど痛く、怖い事だった。
「答えろ、あの戦場でお前は一体何を見た?、何故、負けた?」
テイはそれの精神状態が正確に分析できた上で、更に傷口を剥ぎ取り始める。相手を気遣う余裕などなかった。
もう時間がないのだ。
大原の国がどうやって極星の国に勝ったか、それが分からない。
更に、何故勝てそうな大原の国から、勇者が居る夜の国に標的を変えたか、も分かっていない。
相手の勝利の方程式と思考原理、その二つまるで分かっていないのだ。負ける事はないと予想しながらも、嫌な予感が頭を離れない。
「あああ、ああああああ、ああ」
それは乾いた唇から血を流し、瞳から涙を流し続けた。
血、ミンチ、肉片、内臓、滅茶苦茶、破片、骨、草、鉄と肉、香り、破裂、死、死、死、死、死、死、死死死死死死死死死死しししししししししししししししししししし
それの脳内で戦場での記憶が再生される。
肥大化し、抽象化され、簡略かつ感情的な、既に現実とは違う恐怖の映像が何度も、何度も、それが気を狂わすまで何度も何度も再生される。
肉体の制御が、それから離れていった。
股間からは残された水分と、数日前に食べたパンとスープの具が、排泄物として垂れ流される。
瞳からは涙を流しており、枯れ木の様な四肢は荒れ狂う血液と神経に連動して震え始めた。
「脳が弾けた」
それの口は脳内で吹き荒れる映像を、口にする。それが認識できただけ言葉になった。
「血が降り注いで、
雷が降り注いで、
逃げても降り注いだ。
空から降り注いで血が吹き出てて、
内臓が足に絡まって、
脳髄を踏みつけて、
うんこと血が混じった池に倒れて、
上から破裂した背中を落とされて、
目の前が真っ暗で、
血が出て、
内臓が目の前に見えて、
目玉が掌に乗って、
空から雷が降って、
兵士が剣を振って、
騎士が剣を振って、
逃げて、転んで、
肝臓が頭の上に載って、
胃袋を投げて、
骨が砕けて、
小便を漏らして、
血が服について、
草が絡みついて、
馬が踏みつけて、
剣が壊れて、
笑い声が聞こえて、
逃げて、
死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体死体。
脳が弾けた血が降り注いで、
雷が降り注いで、
逃げても降り注いで、
空から降り注いで血が吹き出てて、
内臓が足に絡まって、
脳髄を踏みつけて、
うんこと血が混じっ・・・・・・」
テイはそれの言葉を一言一句聞き逃さない様に、神経を聴覚に集中させる。それの呟く、嫌悪感しか感じない言葉を聞きながらも、テイのは眉一つ動かさなかった。
何時しかそれは壊れたテープの様に、雷と死体と破裂、その三単語だけを羅列し始める。
逃げる事で最期の一線を保っていたそれが壊れきった瞬間だった。
逃げる事の出来ない地獄、外にあるうちは良かった。
しかし、それはそれの内側を腐食させ、最期にはそれ自体を地獄へと変える。
逃げ場を失ったそれは、逃げ場を作るために自分を壊した。
「食べとけばまだましだったかもね」
テイは数日前、自分があげたパンを一瞥し、立ち上がる。
それは日に照らされ、全てをさらけ出していた。壊れかけた鎧や、ぼろぼろの服、そして黒く酸化している血痕、それらが全てくすんだ光でゴミの様に映る。
「そうそう、ここは戦場になる。逃げたほうがいい」
まだ生きているかもしれないそれに、テイは一言忠告するとその場から立ち去った。
「雷死体破裂雷したい破裂死体かみなり破裂死体破裂雷破裂死体破裂雷死体雷はれつ死体・・・・・・」
それは壊れたまま三つの単語を音に乗せる。
それだけしか出来なくなったそれは、何も移さぬまま咽から血を流した。そしてゆっくりと、頭上よりナイフで脳みそを分解される。
「ひゃあくかんだいぉさおいえぁへあぁ」
言語として意味を成さない叫びが、テイの背中に降り注いだ。
テイが後ろを振り向くと同時に、ナイフが左腕に刺さる。
「ひゅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぐぐぁうぅ」
左腕から伝えられる刺激に、テイの視界が極端に狭くなった。
事情を理解するより早く、本能が動く。
テイは転げる様に逃げ出した。
その間、わずかに二秒、異常な速さだった。
しかしその二秒間で、ナイフが頭上に向けて降ってきた。
転げる様に動いた所為でバランスが崩れる。
テイの体が不自然に捻れた。お陰で、ナイフは右わき腹の肉を少し削るだけに止まる。
右へ左へ酔っ払い様な動きでテイは逃げた。
痛みと理性がテイを、まともに歩かせない。
左腕は血で鮮やかな紅に染まり、指先にまとわりつく粘着質な感触だけがリアルに感じられた。
脳内は、体中から送られてくる刺激でパンクしていた。
それでも無理やり思考領域を作り出し、いらない感覚はありのまま受ける事にする。
ナイフは全てテイの一歩後ろへ突き刺さっていく。
テイがうまいのではない。
ナイフの持ち主が殺そうとしていないだけだった。
テイの走っている隙間は、大人二人分ほどの幅しかない。
そこでどれだけ回避行動をとろうと、あたらない筈がなかった。
テイは家の中に入ることのできる場所を見つけると、そこに飛び込んだ。
密室に逃げ込んでも事体は好転しない。それどころか悪くなるだけだ。
それが予測できないほど、テイの精神は痛みと恐怖に犯されている。
転げる様に建物の中に入ったテイの姿に、ナイフの持ち主は興ざめした、と言いたげにため息を漏らした。
ナイフの持ち主は、ゆっくり隙間を歩く。
しなやかな腕、無駄な肉のない足、男を手玉に取るには十分すぎる体のライン、化粧の仕方しだいではそれなりに美しくなれそうな顔、男の様に刈られた髪が印象的な女だ。
女は自らの肢体を惜しげもなく晒し、歩いていた。
その場に誰がいても、女に興奮も軽蔑も覚えなかっただろう。
何も身に着けていない体には、赤いしみが斑点の様に飛び散り、体のいたる所に痣が見えた。
左手に持ったシーツの中に、投げナイフが何本も縫い付けられており、動かすたびに刃と刃がこすれあう音が響く。
女はゆっくりと、建物の中に入っていった。
「はぁはぁあぁぁはぁはぁあぁはぁ・・」
テイは無理やり血を止めた左腕の傷口を押さえながら、自分の馬鹿さ加減に頭が来ていた。
テイを殺そうとしている人間は、それなりに腕に覚えがあるはずだ。そうでなくては視界から判別できないほどの遠距離から、これほど威力のある投擲は不可能だ。
少なくとも、素人ではない。
|(逃げるしかなかった)
テイは昔、道化になる前、武将の家の息子だった。
当然、多少武術は教え込まされた。それなりには実力もある。
しかし所詮、数年前、やらされた武術だ。
その辺りにいる新兵にも勝てるかどうか分からない腕前でしかない。
今自分を殺そうとしている存在に立ち向かえば、結果は見えていた。
もし、テイが生き残る可能性があるとすれば、逃げに徹する事だけだった。隠れても意味がない。
「もういいかい?」
テイの入って来た場所から、女の歌声が聞こえる。幼子の遊び歌を歌いながら、その歌声はまるで感情がこもっていなかった。
「まぁだだよ」
本物の鬼に探されている時はこれぐらいの恐怖があるのだろう。そんなくだらない事を考えながら、テイは応えた。
自分の職業病が、答える事を選んでしまったのだ。すでに見つかっている、と言う状況が手助けもしていたが。
「まぁだならぁ、とぉうまぁちぃましょ・・・・・・いぃぃちぃ」
女のカウントダウンが始まる。
これが終わったら殺されるだろう、そう予感しながら、テイはあたりを見渡した。
「にぃぃいぃぃ」
いらない物で作られた家、中はがらんとしていて何も見つからない。床も土の上に御座がひかれただけで、武器になりそうな物は置いていなかった。
「さぁぁぁん」
女の声が近づいてくる。
「しぃぃぃぃ」
テイは必死に頭を巡らした。
「ごぉぉぉおぉぉぉぉぉ」
持っている武器は、先ほど抜き取った投げナイフが一つ。それだけだった。
「ろぉぉぉぉぉぉぉぉくぅぅぅぅぅぅぅ」
|(どうする。どうする。どうする)
「しぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃちぃぃぃぃぃぃぃぃ」
痛みが考えることを阻害する。
左腕が炎の様に熱く感じられた。痛みが数秒を数分に感じさせながら、焦りだけが沈殿していく。
・
・
カウントが止まった。
・
・
ふと、テイは昔この遊びをした時の事を思い出す。
その頃テイは、少し意地悪だった。
これは間違いだ。その遊びに飽きたのだ。
だから、鬼に見つからない様に尾行する事を考えた。そして、テイはこのゲームに思いのほかはまってしまった。
何度も遊び相手をからかったのだ。
そんなある日、普段はうまくいっていたが、同じように数を数える声が聞こえなくなって
・
・
嫌な予感がテイの頭を過ぎった。テイは前へ這うように転がり、予感が外れている事を願う。
その行動と同時に、背中が火をつけられたように熱くなった。
それが何か理解すると同時に、入り口に向けて駆け出す。
先ほどまでテイのいた位置のにナイフを突き立てた女が、無様に逃げ出すテイの後姿を嬉しそうに見つめた。
数瞬、女は嘗め回すようにテイを視線で犯す。
「あぁぁ、はぁ」
女は体の中にある熱気を吐き出すほど、熱い吐息を漏らした。
テイが入り口から逃げ出す所を確認し、女は走り出す。
シーツを無造作に羽織り、目にも止まらぬ速さでテイの後を追った。
テイは入り口から出ると、壁に張り付き、右手に投げナイフを握る。
女の足音が入り口に近づいてくると、躊躇なく入り口へナイフを突き刺した。鈍い手ごたえが、指に伝わる。
「ふ、うん」
テイはそのままナイフを抉り込むように突き入れ、入り口から飛び去った。
入り口から生え出たナイフが煌めき、テイの右手に激痛が走るが、その程度の事は無視する。ただ前だけを見て、逃げ出した。
「あらら、逃がしちゃった」
女はナイフの突き刺さった右手を弄びながら、辺りを軽く見回す。
「血痕を追えば一発なんだろうけど」
女は足元にある血痕をこね回した。
「まぁ、いいか。パンの御礼もあるし、浮浪者の一人や二人、もう殺す時じゃない」
女は残念、と呟き、城下町へと走り始める。
「今度会ったら殺してあげるから」
右手から流れる血を啜り、恍惚とした表情で女は宣言した。
平原を人の大群が練り歩いている。
幅十メートルほどの細長い線の形をした集団は、手に獲物を持ち、体に鋼をまとっていた。
全員、凡人が描いた空の風景画の様に、際立った違いが見られない。
夜の国の東、国境線沿いにある森の中に線は潜り込んでいた。一キロはあるであろう線は、まだその長さを増やそうとしている。
森から十数台の馬車が姿を現していた。馬車はどれも、荷台にあふれんばかりの荷物を詰め込み、十数人ほどの護衛を付けられている。
その馬車の最後尾で、エイリンは退屈そうに馬を操った。馬車の後ろには食料や消耗品などが入っているにも係わらず、のんびりとした表情をしている。
「退屈なら変わりましょうか?」
中年の兵士が肉厚が厚い鎧を揺らしながら、馬車の隣を歩いていた。ニヤニヤ、と楽しそうに笑いながら、エイリンを見上げている。
「そうだな。そうするか」
エイリンはゆっくり頷くと、
「で、馬を操れたか?」
疑わしげな目で兵士を見た。
「そりゃ、たうぜん」
「ちなみに、これ一つ駄目にしたら、お前の臓器を死なない程度に売って、残りの人生は奴隷として生きてもらうぐらいの覚悟が必要だ。間違っても、出来ない事を出来るとは言わない様に。
嘘ついて、楽しようとした奴を庇う気は無いからな」
エイリンはにこやかに頷こうとした兵士の言葉をさえぎり、荷台に乗った物の重要性を過大評価して教える。
そんなに価値は無いだろうけど、と考えながらも、表情は真剣なものにした。
「・・・・・・」
兵士の視線が青空に向けられ、ゆっくりとエイリンの方を向き直す。
「それじゃ、前の奴等サボってないか見てきやす」
エイリンが何か言うより早く、兵士は駆け出して行った。
「たく、調子の良い事を・・・はぁぁぁぁああぁあぁ」
隊列を切り崩す様に直進する兵士の背中を眺め、エイリンは大きく欠伸をする。体中がだるく、まぶたが重い。
疲れが取れていないのだろう。
「歳かなぁ・・・まだ三十路には時間があるのに」
エイリンは十代の頃を思い出して、少し鬱になった。十代の頃はどんなに疲れていても栄養のある物を食べて、六時間も寝れば、ばっちり回復できた。
それが、一日経っても疲れが取れない。
幾ら神経を張り詰めていたからと言って、エイリンは年月の残酷さを感じずにはいられなかった。
「あの頃は良かったな」
エイリンは、自分が騎士になろうと思った時の事を思い出す。
それは、雨の振る夕刻だった。その頃、エイリンは男に混じって球蹴りや、ちゃんばらをしたり、女の子同士で綾取りや人形遊びをしたりしていた。
元々運動神経が良く、父親からは男の様に、母親からは女の子として育てられた所為で、男女どちらと遊ぼうともさして問題は無かった。
きっかけはささないものだったのかも知れない。
今では、何が発端であったか、誰も覚えてはいないだろう。
エイリンも、どうしてそうなってしまったのか分からなかった。
ただ、その日、男女間で戦争があった。
いや、子供同士の喧嘩だ。今考えれば、戦争と言うには可愛らしいものだった。
それでも、その時は戦争に思えた。男が殴れば、女は噛み付く。男が武器を持ち出すと、女はその辺りにあった石や木の枝で応戦した。
どういう経緯でその戦争が終わったかも覚えていない。
ただ終わった時に、凄く悔しくて、悲しかった事は今でも覚えていた。
腕から伝わる重さや冷たさも覚えている。力が欲しいと願った。守りたいものを守れるだけの力が欲しいと願った。
「まぁ、それで騎士になろうとしたのは、少々短絡的だったな」
その日の内に、父親に騎士になりたいと言った。
今考えれば、騎士より魔法使いになれば良かった、と思う。
少なくとも、騎士や兵士より戦死の確立は低い。
それに血で濡れる事も肉を切る感触も感じずにすむ。もし、血で濡れたり、肉を切ったりする必要性が出てきたら、その前にそいつは殺されているはずだ。
他人に命を預けている様で、あまりエイリンの好みではないが、筋肉質にならない、剣だこが出来ない、髪を長く出来る、の三つはかなり魅力的な条件だ。
「今考えると、かなり損した気がする」
エイリンはその後の苦労を思い出し、何で魔法使いにならなかったんだろう、と自分の思考回路を見直しに入る。どこでどう考えたら、あんな選択をするのか、過去の自分を冷静にシミュレートし、問題点を見つけ出す。
そして、何時もと同じ結論に達した。
「父親が悪いんだ。あのクソ親父が、もう少し女として見てくれれば、こんな事にはならなかった、かも知れないのに。大体、あの髭・・・・・・」
何時もの台詞を何時ものように呟く。
エイリンの父親は騎士だ。それなりに高い地位にいる。
その所為か、家でも仕事をやっている時があった。
そんな時、遊んでもらえないエイリンはよく不満を漏らして、父親を困らせた。
その度に父親は、これはお前や母さんを守る仕事なんだ。少し待っていてくれ、と言って、頬を膨れさせたエイリンの頭を撫でた。
エイリンは子供の頃、人を守る仕事とは騎士の事だ、と勘違いしてしまった。
大人になるにつれ、それを実感する様になり、今の様に意味の無い八つ当りをする時が生まれた。
「まぁ、今更なんだけどねぇ」
毎度の台詞とため息で八つ当たりを締めくくる。
「それはともかく、あの頃は若かったなぁ」
頬に触れ、髪の毛を摘んだ。
「肌に艶はあったし、疲れもすぐ取れて、髪もこんなに痛んじゃいなかった。ほんと人生間違えたかも」
ハハハ、とエイリンは笑う。それは、何かを諦めた笑いだった。
テイは城下町に駆け込む。後ろを振り返ろうとはせず、ただ前だけを見つめていた。
右手の中指と人差し指の間が数センチ割けている。
血が流れ出て、意識が朦朧としていた。
体中が酸素と栄養と排泄を求めるが、それを与え行う血液が圧倒的に足りない。
「はぁ、ああ」
人一人がどうにか入り込めるような小さな路地で、テイは倒れるように座り込んだ。
「ううううううぅぅぅぅぅぅぅぅうぅうぅぅぅぅう」
低く唸りながら、自分の右手を見る。
中指と人差し指の間がきれいに裂け、血が面白い様に流れ出ていた。
もう右手からは痛覚しか感じてこない。拳を作ろうとしても、人差し指が一ミリも動かなかった。
例え治ったとしても、その手がまともに物を掴める様にはならないだろう。
テイは泣きたくなる自分を抑え、治療を始めた。もう全てを投げ出したくなる自分を励まして、動かすたびに痛みが走る左腕と、泣き言しか言いそうに無い口を使い、不器用に汚れた布切れで縛り付ける。
どうにか、血が止まる様に巻きつけると、もう一度指を動かしてみた。
小指、薬指、中指、人差し指、とゆっくり順番に、傷口が広がらない様に注して折り曲げてゆく。
しかし、人差し指が動かなかった。
「ふぅぅぅうううぅぅぅぅぅぅんんん」
動かなくなった人差し指を抱きしめながら唸る。
右手に必死に力を籠め、拳を握ろうとするが、人差し指は動かなかった。
血が滲み出てきて、神経を直接いじられた様な痛みだけが返ってくる。
数分間、拳に力を込めるが、無駄な努力に終わった。
「まぁ、仕方がない。生きてるだけマシだろう」
先ほどまでとは打って変って、穏やかな顔で右手を見る。
そのまま目をつぶり、意識を体全体に飛ばした。頭、肩、腕、わき腹、肋骨、内臓、太もも、ふくらはぎ、体の各部から現在状況の報告が来る。
「貧血気味だが、後は大丈夫だ」
テイは自分に言い聞かせるように呟いた。何かが心に溜まってゆく。
|(雷、破裂、死体、か。何があったんだ)
それを忘れる様に、テイは手に入れた情報をゆっくり整理し始めた。
覚えている限り、隙間に蹲っていたそれが口にしていた事を思い出し、関係ありそうなものをまとめていく。
|(脳が破裂して、雷が降って、死体だったか。後は死体の描写が殆ど。さて、さして重要な情報は見当たらないが)
男からの情報は断片すぎて意味が無かった。
幾ら考えても、形にならない。
テイは、思考を別の方向へ持っていった。
|(何故殺されかけたんだ?)
今殺させる可能性は考えていない。殺されるのであれば、既に殺されているはずだった。
多少武術や用兵を齧った程度のテイを、プロが逃がすわけがない。
今生きていて追っ手がいない、それだけを材料にテイは相手が諦めた、と予想した。
|(まさか、彼女が間者だったとはな。気づかないとはなんと間抜け)
テイは自分がパンを渡し、パントマイムを見せた女が、自分を殺しかけた事を考え始める。
|(疑問、何故あれは生きていた)
隙間に蹲っていたそれに、女は一度会っていた。ちょうどテイがそれにパンを渡した時、女が後ろから歌の合いの手を入れている。
もし、殺す必要があるのならあの後殺したはずだ。
|(殺す必要が無かった?、それならば、あの後も殺さなかったはずだ。あれが持っていた、手に入れた情報は、たいした物ではなかった)
テイはそれは違う、と首を横に振る。
|(ならば、あの時は殺せなかった?、何故だ?、殺したらどうなる?、殺せば死体が出来る。死体があれば原因を調べる?、違う)
テイは首を振る。
|(式典前だ、徹底的な犯人探しが始まる。それこそ、ゴミの中まで・・・・・・)
テイの中で点が線につながる。第二、第三とあった疑問が音もなく解けていった。
|(そうだ。式典があったのだ)
瞼を開き、必死に立ち上がる。
笑う膝を左手で黙らせて、体を引きずる様に歩き始めた。
テイは、自分の考えが正しくない事を祈り、ゴミ捨て場へと向かう。城下町の中にあるゴミ捨て場は全部で四十五、外周に接しているものは五つ、それらは五角形の頂点の様に大きく離れていた。
|(周辺の地理は最悪な事に平野、いや、最高な事にか?、どっちにしろ、この時期に攻めるなら)
太ももがまともに動かない。ふくらはぎが痙攣を起こし掛けていた。上半身も命令通りに動いてはくれない。
急激な運動をした事と、ここ連日の騒ぎで体は多少の貧血でもボロボロになってしまっていた。
それでも、気力を振り絞って体を動かす。
道化は人に非ず、道化は卑民、民を堕落させ、享楽へと誘う卑しき民
心の中の悪魔が囁く。
やめちまえ
誰も感謝なんてしない
確かめてどうする
どうやって知らせる
誰も信じちゃくれないぞ
時間もない
誰が愚か者のテイを相手にする
キチガイを演じたお前を誰が相手する
馬鹿な事はやめちまえ
逃げるんだよ
お前にはどっちが負けてどっちが勝つか分かったんだろう?
ほら逃げちまえよ
誰も何も言わないさ
「知ってるし、分かってる。だからどうした」
テイは悪魔の誘惑を、鉄の意志で跳ね除ける。
「このテイは、ずっと道化でいましょう。例え誰が涙を流そうとも、何で涙を流そうとも、笑わせましょう」
壊れたスピーカーの様に妙なアクセントの付いた声が、テイの口から流れ出た。
「生きるも道化、死ぬも道化、そこに何の未練がありましょうか?」
自分に聞かせる様に、悪魔に言い聞かせる様に、道化の声で尋ねる。
誰に尋ねたかも分からない。
「道化は道化、人に非ず。
人の笑顔を引き出させる。
それがテイの、道化の役目。
テイは道化、狂った道化、馬鹿と罵られれ・・・・・・」
血と泥で濡れた汚らわしい服、砂が混じった髪、浮浪者の姿のまま、自分は道化だ、とテイは宣言した。
平野を規則正しく更新する軍隊。
鋼の色の更新が、血の匂いと破壊の音を乗せて歩く中、毛色違う所があった。行軍の後方に、巨大な馬車を中心とした一団がいる。
馬車は光沢のある美しい漆黒で塗られ、そこに金と銀を使い美しい乙女が描かれていた。
十数頭の馬に引かれたその馬車は、まるで移動する大きめの部屋に見える。
中は馬車と言う事を無視した様に、幾つかの区間に分かれており、寝室や浴室、さらには台所まであった。
今回、夜の国を攻めるにあたり、軍とは別の経路から運ばれてきた物の一つだ。
見つかない様に、見つかっても物資が届く様に、今回の指揮官、黒いローブを着た男が、最高の人材を守備に投入した。
馬車は人、十数人の人生を狂わせるほどの贅沢をして持ってこさせた物の一つだ。
その浴室で男はゆっくりと風呂のにつかる。
枯れ木の様に醜い左手が、ゆっくりお湯をすくった。
手足が伸ばせるほど大きくはないが、それでも風呂に入れるだけありがたい。特にそれが体に良いとなれば尚更だった。
男は満足そうに体を弛緩させる。目を閉じて、心地よいお湯の感触を楽しんだ。これから戦争を行うとは思えない優雅さだ。
暫くすると、入り口の方から鐘の音がした。水と錘、そして鐘を使った原始的な時計が、時間を知らせたのだ。
「ふぅ、時間か」
男はゆっくりと浴槽からでる。男の異常な裸体が、光に晒された。
左腕と左足は枯れ木の様に痩せて醜い。
それとは反するように、他の部分は瑞々しく、鍛え抜かれていた。胸に大きな傷跡がある以外、肌には荒れすら見ない。
顔は白髪と黒髪が交じり合った不気味な髪に隠されていたが、顎の輪郭だけでも美しいと思わせるものがあった。
男は黒いローブを着ると浴室から出る。
大きさの関係だろう、浴室を出ると、すぐ広間になっていた。
広間は八畳ほどの大きさで、中央には大き目のテーブルが打ち付けられている。
テーブルに備え付けられた椅子に、男が一人座っていた。そして、その周囲を囲むように武将達が囲んでいた。
「お加減よろしいでしょうか?」
魔法使い風の、幾つかの文様が描かれた服を着た男が尋ねる。長身痩せ型、吹けば飛ぶ草の様に頼りない体つきだ。服から出ている手首などを見ても、筋肉と言うものが殆ど付いていない。
「その口調はAか。まあ、悪くない」
「その呼び方やめてくださいよ。俺にはアルフェ、て名前があるんですから」
男の言葉に、Aは心底嫌そうな顔をした。
「ふん、いちいち覚えるのが面倒くさい」
男がどうでもよさそうに呟く。
「それは無いんじゃない?、誰の所為でこんな事になったと思ってるの?」
Aの口調や仕草が、急に変わった。今まであった男の匂いが消え、女としての主張が仕草の端々から見て取れる。
「C、か。確かに実験は半分失敗だったな。だがな、その上で二十四まで増やしたのはお前達六人だぞ」
「そうかもしれないけどさ、あんただって面白半分にいじったじゃない?、ちょっとは責任かんじてよ」
Cと呼ばれたAは、頬を膨れさせ抗議した。
男はうんざりした表情で、Cの抗議を聞き流す。
既に何度も言われた事だ。
男としては、もう聞いてもどうするつもりも無い事なのだろう。
まともに聞いていない事を、あからさまに示す。その態度に、Cのテンションは更に暴走状態へと入っていった。
「ちょっと、も少し、て、ベルタ、何、うっさ・・・・・・・失礼した。キャリィには奥へ行ってもらった。時間も無いしな」
Cがまた仕草を帰る。男性的な仕草と口調だが、Aとはまた違った雰囲気をかもし出していた。
「Bか。それでそっちはどうだ?」
男は助かった、と言う表情を隠さずに、話を進める。ようやく、本来話すべき事の一歩目が始まった。
「仲間は見ての通り、もう一つしたの位になると、半分ほど。それより下は手付かず」
Bは周りを囲む武将達を指す。
先ほどの騒ぎがあったにもかかわらず、表情には一つも変化が無かった。意思を感じさせない人形の様であれば、恐怖と嫌悪を感じてもそれ以上にはならない。
しかし、彼らは意思と心を見せながらも、まるで動こうとしない。その様は、見る者の心を砕くだけの力を持っていた。
男は武将達を見て、軽く頷く。
「それで、準備は上手くいってる様だ。この分だと、ダミーがフェイクに変わかもしれない」
「それは嬉しい誤算だ。相手にまともなスキルを持った人間はいなかった様だな」
男は嬉しそうに顔を歪め、頷いた。勝利が自分の手に中に近づき、目的が上手く達成されそうな事が心底嬉しい。
「それと、例の奴、順調に進化中だ。この分だとぎりぎり間に合うかもしれない」
Bの報告に男の顔が険しくなった。あまり良い報告ではないようだ。
「そうか、微妙だな。それなら、今回の戦いが一日で終わらなかったら、全軍にようやく完成した切り札として、伝えておけ」
「ほう、一回じゃ終わらない、とでも。今回の作戦は順調だ。幾ら全盛期の半分程度の力しか持っていないとはいえ、慎重すぎないか」
男の慎重さに、Bが首をひねる。
過剰なパフォーマンスに比べ、口調と表情が平坦な事が不気味に感じさせた。
「相手は、勇者だ。
一応、一度封印しかけられたからな。多少の奇跡は考えるさ。
それに、私の目的を考えると、今までの戦法は使えない。既に冒険してるんだ。これ以上する必要はない」
男は何がおかしいのか、顔を歪めて笑い出す。狂喜と言えるほどの悦びと、凶器と言えるほどの殺気が充満した。
「分かった。準備をしておく以上だな」
Bは歯の根が会わない事を隠すように、早口で喋る。男はああ、と頷いた。
「失礼する」
Bは、男の笑みを見ないようにしながら、足早に退出していく。背中に張り付いた冷たい汗が、嫌な感触だった。馬車から出たところで、大きく息を吐く。
「復讐と安らぎか。恐ろしい主人だ」
未だに震えの止まらない体を、強引に動かしその場を離れた。それの近くに居たくない。純粋な感情がBの全て支配していた。
太陽がもっとも高く上がる頃、ゴミ捨て場はテイの他誰もいない。山の様に積み上げられたゴミがあるだった。
「やっぱりか、となると最悪だ」
壊れたスピーカーの様にアクセントが無意味に尽きすぎた声が、ゴミ捨て場の中に響く。
右手も左腕も、傷のあるところまでゴミで汚れ、顔にも足にも生ゴミが張り付いていた。まさに浮浪者らしき装丁だ。
足元には、見つかって欲しくなかったものが置かれている。
黒い袋に、生物が入っていた。
毛はむしられ、四本、全ての足の腱はたたれ、目玉は繰り抜かれている。体には、無数の文様が描かれていた。
七色の光点がゆったりと、それこそ分かっていなければ分からないほどゆったりと、文様の中を流れている。
まだ息があるのだろう、苦しそうにうめき、生きたい、死にたくない、と主張していた。
「勇者殿は愚か者でいらっしゃる。この道化に分かった事が分からぬなどとは」
テイは諦めた様にため息を吐く。
目の前にある文様は、呪文を使わなくてもよい型だ。
汎用性はない。文様のどの部分を使うか、それを決めるプロセスが呪文なのだ。呪文を使わなくて良いと言う事は、単一の魔法しか使えない、と言う事だ。
その代わり、魔力を流す速度を調整する事で、発動する時を自由に変えられる。
そしてこの生物に刻まれた文様は、爆破の文様。発動したならば、厚さ一メートルほどの石壁ですら壊せてしまうものだ。発動までの時間が長く、また範囲が文様を中心に自分も含めて攻撃するため、自殺志願者でもなければ使わない魔法だった。
「勇者殿は、勝つであろう」
この作戦が成功しても勇者は負けないだろう。だから、勇者なのだ。
光に、心に祝福された子を内に秘め、その恩恵をむさぼる事の出来る人間が、同じ人間に負ける通理はなかった。
しかし、それは勇者が勝つと言う事でしかない。
「夜の国は、勝てるのであろうか」
まるで楽しい劇が始まるように、陽気に楽しく呟いた。
「悪魔の知恵と、無慈悲な心を持つ敵」
誰が聞いても胸躍らせるであろう語り。
「それに、夜の国は勝てるのであろうか」
しかし、語る本人の顔は醒めきっていた。
「そして勇者は、聖剣を持たぬ勇者は何を願う」
テイはゆっくりと歩き出す。
殆ど知りたい事は分かった。
興奮も喜びも無い。
知っているだけだ。
例えテイが何を言おうとも、誰も取り合わないだろう。
所詮テイは道化、しかも皆テイが演じる阿呆の道化しか知らない。
そこでテイが何を言おうと、ただの妄想、もしくは狂言で終わってしまうだろう。どれだけ、叫んでも無意味だ。
幾ら叫ぼうとも、声は届かず、想いは伝わらない。
「道化は笑顔を引き出すだけ、そのためなら命すら小道具にしましょう」
大きく息を吸いこみ、吐く。
この国には笑って欲しい人がいる。そしてこの国には死んで欲しくない人がいる。そして、
昔話をしよう。
泣いていた。
テイはその時何もかもが怖くて、何もかもが悲しくて、泣いていた。
まだ、小さかったテイは、絶望に泣いていた。欲望に怯えていた。
泥だらけの体で城下町に戻って来た。
服は破け、露出した肌には切り傷が満遍なく加えられ、ボロボロだった。最初の傷は目立っていたが、今では他の部位も似た様に血がこびり付いていた。
テイは門まで来て立ち止まった。
怖くて、怖くて、怖くて、どうして動きたくなかった。
それでも前に進めたのは、中からにぎやかな声が聞こえてきたから。
門をくぐりテイは泣いた。活気のある町並み、笑顔の絶えない空間、平凡な時間、それが嬉しくて、それが暖かくて、テイは泣いた。涙が枯れるまで、もう二度と流せないと思う
ほど泣いた。
泣いているテイに誰かが駆け寄った。
知らない人だ。
そしてたくさんの人が駆け寄って、泣いているテイを慰めた。
風呂に入れてくれた。
手当てをしてくれた。
服まで与えてくれた。
その無償の暖かさが嬉しくて、もう泣けないと思っていた瞳から涙があふれた。
この国にきっとテイは救われたから。この国の全てに救われたはずだから。
「道化の恩貸し、道化の恩返し、この命、全てをチップに、ルーレットに向かいましょう」
だから、テイは覚悟を決めた。
舞台に上がらず、客席で演じ続けた卑怯さを認め、舞台に上がる。既にキャストは満席だ。舞台の端の端に立っていることしか出来ない。それでも、舞台に立つ事にした。
白い城を一度だけ見る。
二度と見なくても良い様に、もうこれなくても良い様に、しっかり心に映しいれた。
感傷に浸る暇などない。もう時間がなかった。
日が暮れ始めていた。
草原の真ん中で軍は行進をやめる。川の様に一つの線で出来ていた集団が形を変えていった。
最初は、一つ一つがゆっくりと線から離れ、アメーバの様に蠢く。
アメーバは少しずつ形を変え、歪な陣形を作る。
中央に司令部を置き、その周囲をほぼ円形で囲んでいた。陣形は大まかに見れば左右対称であるが、よくよく見ると左右で人数比、武装、陣の種類が違っている。
陣形の後方より少し中心に近づいた場所から中心の一団までにかけて、数十台の荷馬車が群れをなしていた。
エイリンは憂鬱な気分で、荷台の間をすり抜けて歩く。その胸の内とは裏腹に、歩調は軽快だった。
無意識の産物なのだろうが、その心底嫌そうな顔とはまるで似合っていない、まるで楽しみにしていた遊戯に行く様な歩調だ。
「胃薬、貰って来るんだったかも」
痛くなってきた胃を抑えたエイリンは、胃薬を貰ってこなかった自分を呪った。
最初は、上官に会うだけで胃薬が必要なんて、と意地を張っていたが、目的地への道のり半場まで来てその考えが間違っていた事を悟る。
初めは違和感程度しか感じなかった胃が、ここまでの道のりで締めつけられる様な痛みを訴えていた。このままでは目的地へ着く頃には、内臓を焼けたナイフで抉る様な痛みがくる、とエイリンは確信している。
「時間がないんだ。負けるな、耐えろ、歩くんだ、歩くんだ、右、左、右・・・・・・」
顔には胃の痛みも、心の憂鬱も見せず、エイリンは自分を励ましながら歩いた。
時間が無いため、歩調を落とす事も出来ず、剣山の上を歩く罪人の様に一歩一歩痛まない事を祈りながら前へ進む。
別段、正確な時刻があるわけではないが、日が暮れるまでに来いといわれた以上、日が沈む前には行かなければならない。
既に時間はマイナスの域に入っている気がしたが、それを考え始めると、更に体調が悪くなるので気にしないことにした。
エイリンの体調変化は更にひどくなり、目的の場所に着く頃には頭痛までしてきた。最初は精神的なものだとばかり思っていたが、それだけにしては重症すぎる。額に手を当ててみるが、特別熱はなかった。
もう空の九割が青と黒に染め上げられ、残りの一割も紫色になっている。時間がなかった。
後で医者に見てもらう、と心に決め、エイリンは漆黒で塗られた馬車の入り口に近づく。門番をしていた兵士二人が、能の様な顔をこちらに向けた。
「百剣の騎士、エイリン イースーチュンだ。行政執行参謀長殿にお会いしたい」
エイリンも門番達に能の様な顔で応える。
「少し、待て」
門番の一人がそう言って、馬車の中に消えた。一分もせずに門番は戻ってくると、閉められていないドアを指し、
「入れ」
とだけ言った。
エイリンは後に続く言葉がないか待ったが、特に何もない。
門番は二人とも、面の様な能を顔に貼り付け、木造の様に殆ど動かなかった。
感情が読み取れず、本当に入っていいのかどうか、一瞬、躊躇う。選択肢がない事を思い出し、馬車の中に入って行った。
中は、エイリンの予想より明るく、昼間の様に明るい。その明るさに反する様に、空気が黒くにごって感じられた。
エイリンは左手で腰につけた剣を撫で、そこに剣がある事を頼りに歩き出す。
廊下は一直線で迷う事もなかった。その所為だろう、護衛の兵士が一人も見えない。
そういえば、とエイリンは自分も帯刀を許されている事に気付いた。余裕なのか、それとも信頼なのか、それともただの間抜けか分からない。
エイリンは今まで以上の緊張感と集中力を持っつ事に専念した。
なんとなく予感があった。このままでは負けてしまう、と言う、エイリン自身何を言いたいのか分からない予感だけが、胸を蝕む。
エイリンは廊下の突き当たりは大きな部屋になっていた。部屋には打ち付けられた机と、椅子がある。
「来たか。入れ」
黒いローブを着た男がエイリンの目に入る。
男は机に頬杖をつきながら、枯れ木の様に醜い左手で手招きをしていた。その姿からは緊張感も、敵愾心も見えず、もしかしたら警戒すらしてないのではと思えるほど無防備だった。
「では、失礼します」
エイリンは軽く頭を二度下げ、男と机をはさんで対面になる位置に立つ。
「まぁ、楽にしろ」
「いえ、必要ありません。それより御用とは?」
男の偉ぶった物言いに、エイリンは首を左右に振った。
「そうか、まあいい。用、て言うのは、簡単だ。ある地点に秘密兵器が隠されているんだが、そっちの護衛と補給を頼みたい」
男は朝食のメニューを注文する様な気楽さで、機密事項を口にする。エイリンの体中から嫌な汗が吹き出てきた。
「なぜ、私なのでしょうか?」
エイリンは慎重に辺りを見回しながら尋ねる。応え方しだいでは殺されるだろう、と経験と理性が囁いてきた。
「その前にやるか、やらないかだ。イエス オア ノゥ」
聞けば戻れない、と男は言外に含ませる。
「もし、ノゥなら、どうなりますか」
エイリンは自らの首に刃を向けさせるような事を口にした。自分の馬鹿さ加減に、口元が釣り上がる事を抑えきれない。
「どうもしないさ」
男は拍子抜けするほど簡単に、殺さない、と言った。
「秘密兵器は俺とお前の馴れ初めだ」
何故、と考えるより速く、男が理由を教える。その理由にエイリンは顔をしかめた。
アレが存在する事事体をエイリンは認めたくなく、初めて私用で会ってしまった時、その時の事は思い出したくないほどおぞましい。
「今ならさして差がないだろう。どうせ後方支援しかやらせるつもりがないんだ」
嘲りと共に、男は決定事項を読み上げた。その顔は玩具を獲った子供の様に残忍で純粋だった。
「なるほど」
エイリンは納得した様に頷き、ですが、と繋げる。
「仮に受けたとして、誰が補給物資を守るのですか?、もう人手は何処もギリギリのはずです」
喉元に突きつけられた刃が肌に食い込むような息苦しさが、エイリンを襲った。それでも、意思だけは曲げぬ様にと、男の目を睨み続ける。
「そっちもやってもらうだろうな。まぁ部隊を二つに分ければ大丈夫だろう・・・・・・で、答えはイエスでいいんだな?」
男がエイリンに確認を取った。
既に部隊の運用まで話が食い込んできた以上、これより先は本当に選択肢がなくなる。例えどのような結末があると分かってしまっても、進む事しか出来なくなってしまう。
その事を理解した上で、エイリンは頷いた。
「はい、イエスです」
「そうか、助かった。ここだけの話、アレはまだ未完成でな。
もしかしたら、間に合うかもしれないが、それを期待されては困る。アレの存在自体知ってる人間は殆どいないしな。 お前の父親がこの開発に手を貸してなければ、あの時殺してた。理由は分かるだろう?
だから、知る人間を最小量かつ、まだマシな人材にするなら、今はお前さんが適任だ。
事情は理解したか?
それで向こうからの要求は、食料、一部隊で十日分、あと武器や治療品各種と、最期にアレの部品だ。
どれ一つ落とすな。それで場所と日程だが・・・・・・」
男はエイリンの答えを聞くと同時に、必要事項を話し続ける。
決して早口と言うわけではないが、口を挟む余裕がなかった。あったとしても、口を挟める立場にエイリンはいない。
エイリンの役目は、それを聞き逃さず、忘れず実行する事だ。
最後まで、一言一句、聞き逃さぬように、神経を張り詰めていった。
白い城の中で、王が座るべき椅子にて、シャナは呆然と目の前の光景を眺めていた。
白く磨き上げられた床、その上に敷かれた柔らかそうな絨毯、そして絨毯に流れ込む鮮血。
流れる血をたどっていくと、生気のない肉にたどり着く。肉はまだ開花しきれぬ少女の物だった。体つきと股間を見れば、誰でも分かる。
肉の持ち主は全裸だった。
服は全て切り裂かれ、肌には大量の切り傷が刻まれ、それ以外の肌は紫色になっている。
間接は軟体動物の様に増え、骨が角の様に間接から生やされている。
爪ははがされ、肛門も性器も裏返されように、内臓と子宮が外に暴かれていた。
首は綺麗に切断され、頭から上が着いていなかった。
その首から、今も泉の様に血が湧き出ている。
血はその首を持っている女の手を汚し、自分の傷だらけの死体を汚し、絨毯に赤い花を咲かせていた。
いや、その血は首からだけではない、まるで血抜きをするつもりだった、とでも言いたげに股間から流れ出る血も含まれているだろう。
この状態で、まだ心臓が動き、体が痙攣していた。少女の体が、まだ死んでない、とかすれた声で叫んでいる。
死体を持っている女以外、誰もが呆然とその光景に見入っていた。
未成熟な少女の姿態、その全てが晒され汚され、この場で最期の、死という絶対的なものすら犯された姿は、加虐趣味や幼女愛好の気がない人間も興奮させる何かがある。
一種の完成させられた美があった。
人が見たくも、気付きたくもない、自分に存在する事すら否定したい、吐き気がするほど純粋なコンプレックス。
それを満たす、醜悪と言う名の美が、そこに確かにあった。
その美を吊り下げる女も、少女の死体と同じく全裸だ。
少し前まではシーツを羽織っていたが、手に持った芸術品を見せ付ける時、床に落ちてしまった。男の様に切られた髪が印象的な女だ。
女は少女を支えていない方の手に持った物を口元に運び、その中身を食す。
中身はサラダだ。
肉は一口大に切られている。それが生野菜の上に乗せられていた。上からは、鴨料理やすっぽんなどでお馴染みの新鮮な血液を使ったイチゴの様に赤いドレッシングがかけられている。
見るからに食欲をそそるサラダだ。
女は上手そうに喉を鳴らして飲み込み。
他の人間はそのおぞましさと、卑しさに吐き気がこみ上げてきた。神経の細い人間は、既に胃の中の物をその場にぶちまけている。
女が食べたサラダ、それが盛り付けられているのは少女の頭、頭蓋骨を綺麗にくりぬいて盛り付けられていた。
サラダの肉は少女の脳みそだ。
血はもちろん少女の血、そしてそのドレッシングに一味を加えているものは細かく磨り潰し、ペースト状にした少女の瞳と歯。
女は口にあったサラダを全て食べきると、呆然と座っているシャナへ、サラダを器を投げた。
シャナはボールが投げられた様に、それをキャッチする。
シャナは動かない人形の様に、少女の汚れきった頭を見続けた。
「えっと」
手にある容器が何か、理解できていない呟きが漏れる。周りも理解できずに、その光景に見入った。
「これが、停戦に対する、大原の国の答えだ。
ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハヒャハハハハハハハハハハヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒハハハハフイフフフフフャフィィイヘヒャラヒャラハエハエウフフフヒャウア」
女は堪え切れず、笑い出す。
次第に体をくの字に曲げ、おかしくて笑っている事をその場にいた全員にアピールした。
既に少女の死体はその場に投げ捨てている。
自分が見せている狂気、それは女が見せられたものだ。
自分が狂っている事は分かっている。自分の記憶と周囲の常識を照らし合わせるぐらいの知性は、女も持っていた。
女の笑い声にその場にいた兵士達が、自分を取り戻す。
別に誰かに恨みがあるわけではない。
誰かを憎んでいるわけではない。ただ、見せ付けてやりたいだけだった。
兵士のうち、誰かが女へ駆け出す。手には両刃の剣を持っていた。
一人が一歩を踏み出すと、他の兵士達も女に群がり始める。
目の前で自分だけは違う、と勘違いした連中に、人間がどれだけ情けなく、あさましく、残酷であるかを見せ付けててやりたかった。八つ当たりもあるのだろう。
無数の剣が、女の体を突き刺した。掌、右太もも、右胸、背中、左わき腹、右肩後ろ、左腰、上から突き刺した様に、水平な角度で、下から突き上げる、直線に入らず肉を抉る、左右に揺らしながら、あらゆる所からあらゆる角度で剣が女の体を突き破っている。
こんな光が正しいと言う世界でなければ、闇が悪と言う世界でなければ、もっと世界がやさしければ、こんな風にはならなかった。
そんなものは八つ当たりだと分かりきっている。
「イアジアヒダヒグイアウイアエウイヒアギエアヒヒアオヂアヒダヒドハオイゴアギアヒアギダダハアギダ」
女は全身を焼き尽くす痛みの中、笑い続ける。
大腸から小腸、子宮、胃の少し下を通るものが一本、掌と二の腕で一本、右太ももを貫通し左太ももの内側を抉るものが一本、体中が、何処が悪いのか。何処が痛むのか正確な情報を脳に送った。
それでも、憎いから、それでも、許せないから、ただ光に近いというだけで幸せを手に入れているこいつらが許せないから、女は見せ付けてやった。
女がゆっくりと倒れこんだ。
「何で」
シャナは手に少女の頭を持ったまま、呆然と呟く。理解したくないものを直視した瞳は、後悔に彩られていた。