5日前
男は顔を真っ白にすると、髪を全て隠す大きな帽子をかぶる。
服は既に、滑稽なほど安っぽい光沢だけで構成された物を着ていた。服は厚手の生地で作られ、顔はしわすらも見えないほど厚く化粧されている。
外見から男の年は判断できなくなった。
男は部屋にある鏡で化粧の出来を確認し、十分満足できるものだと分かると、外へ向かって歩き出した。
足取りはふらふらしており、身体はゆらゆらと揺れ、頭はせわしなく動く。先ほどまでのテキパキとした準備とは別人の様な、よどんだ瞳とだらしない歩き方。
品の良い、しかし圧迫感の無い白い廊下に痴呆の様に動く男は、場違いであった。
男の歩く姿を見て、誰かが笑う。
理知的な人間に見せようとする表情。口元は半分しか閉じられず、片目だけ大きく見開かれたそれは、誰が見ても阿呆としか言えなかった。
まっすぐ歩こうと懸命に動かしながら、上手くいってない情けない歩き方。
下品としか言えない光沢をもった服。
何処を見ても良いところがない。そして、男は誰かが笑うたびに、嬉しそうに笑い返した。
その姿が滑稽で、その上、男がこれでしっかり生きている。
だから誰も同情しない。
だから誰も助けない。
ただ、ただ、笑う。道化と笑った。
男は廊下を歩き続け、人工庭園に着く。
建物の一室をガラス張りにし、土を運び、草と花で彩った庭園。この世に現れた天上世界、とまでまで評される場所だ。
男は、もうここにしかない花や、ここでしか見られない亜種を阿呆の歩きで傷つけないようにふらふらと歩く。
ふらふら
ふらふら
後一グラム、右親指に力がかかれば倒れ、後一ミリ、左に足がずれれば花を汚すほど、めちゃくちゃな動きで、男は歩いた。
花が、男の動きを笑うかの様にゆれる。
きっと何処かの窓が開いているのだろう、風は自然の匂いを運んでいた。男は風に誘われる様に、奥へ奥へと歩いていった。
奥へ、奥へ、と進むにつれ、無邪気な笑みと、心を蕩けさす様な良い匂いが、辺りに染み出てくる。
男は、地面に落ちた砂糖に群がる蟻のように、声と匂いの発生源に近付いて行った。
匂いの素は青々と美しい芝生の上、柔らかな絨毯をひいて、楽しそうに談笑していた。
絨毯の上には、ティーカップと茶請けのケーキが乗っている。それを囲むように、四人の男女が、絨毯の上に座っていた。絨毯から二歩離れたところに、質の良い服を来たお茶入れ専用のメイドが控えている。
最初、男に気づいたのは、そのメイドだった。男がこちらに歩いてくる事を確認して、呆れた様なため息だけをつく。
その目は躾の諦められた動物を見るように、見下していた。
四人も、メイドから遅れて数秒、誰か一人が男に気づき、他の三人も男に気づく。四人は、何かに期待するように、男の方をじっと見る。
男は、自分の見ている人間の瞳など気づいてない様にしか見えないほど、無防備に歩いていた。
絨毯の前まで来ると、男は丁寧に頭を下げ様とするが、やり方を忘れてしまっているのだろう。
手を頭の上に持っていったり、足を上げたり、と下手なマリオネットのように試行錯誤を繰り返す。その間、男は笑い、怒り、焦り、等さまざまな表情を見せる。
最終的には、両手を股間と頭の上に置き、足をO字に曲げて、頭を斜め前に下ろした。
男の間抜けな一礼に、四人はクスクスと笑い、メイドも口元を押さえた。
「これはこれは皆様方、こんな所にいらっしゃるとはいかがしたのでしょうかな?
私は伝説の白い薔薇があると聞き、観賞しに参ったのですが、いやはや何処にあるのでしょう」
男は、そこにいた全員に真剣な表情で尋ねた。その声は壊れたスピーカーの様に妙なアクセントがつきすぎていた。聞き苦しくない事だけが唯一の救いといえる。
白い薔薇など何処にでもありふれた物だ。
それを子供の様に、真剣に尋ねる姿が可笑しくて四人は失笑した。
「テイ、白い薔薇なら、向こうに見える桜の木の左手側に見えますよ」
四人のうちの一人が、クスクス、と笑いながら、遠くにある青々と茂った大木を指した。
水の様に滑らかに、砂の様にサラサラとした金色の髪が揺れ、冬の青空のように澄んだ青い瞳が優しく男を見る。果実と花だけで造形された芸術品にすら見える、美しく甘い匂いのする女だ。
「それはご丁寧に、ありがとうございます。この恩はどう返せばいいのやら。道化に差し上げるものはありません。何か芸で代えさせていただきましょう。」
四人の答えを聞こうともせず、一息で喋る。
「それなら・・・笑い廻し舞ってくれ」
金髪の女の隣に座った、これまた美しい男がリクエストする。精悍な顔と、風のように軽やかな金髪、鍛え上げられた体。女が美の象徴とするなら、この男は勇の象徴とも言える。まるで運命に導かれたかのように、互いが互いを引き立てあう組み合わせだ。
「あいや、分かって候」
テイは、大きく頷くと、ゆったりと舞い始めた。
金が無いから働いて
それでも文無し変わらない
今までの壊れたスピーカーの様に奇妙だった声が、朗々とした立派なもに変わる。
美しくは無いが、よく通り、意図した感情を相手に聞かせる声だ。
笑い廻しは、一人の農民が大金持ちになろうと、色々と策を練っては失敗して、最後には諦めるという話の踊りだ。これは、庶民の間で一時期はやっていた踊りでで、リクエストした男もその事が分かっていてリクエストしたのだろう。
農民が、駆けずり回り、姦計をめぐらせ、結局はくだらない事で失敗する。その必死さと、そのくだらなさのギャップが人の笑いを誘った。
テイはその踊りが比較的簡単なため顔芸を付け加え、更に笑える物へと仕立て上げる。
その場にいた全員が声を上げて笑い、馬鹿だ馬鹿だ、と目に涙をためた。
テイの演じる農民は滑稽で馬鹿らしかった。テイは一通り踊り終わると、空を見て頭を抱える。
「これは、もう、正午ではないですか!、伝説の白い薔薇は陽気な朝にしかないというのでしょう。
今日は時期が悪かった。まったく、時期が悪かった。
それでは皆様、テイは明日こそ薔薇を見るために、英気を養わせていただきます」
頭を抱えたテイは誰かが止めるまもなく、来た時と同じめちゃくちゃな動きで去って行った。その歩き方に、残された人間は苦笑する。
ガラス張りの天井には太陽が美しく輝き、正午を四人に知らせていた。
「あれは、何を考えているんだか。道化だからと言って、度を知らなすぎる」
二メートルを越す大柄な男が、赤ん坊の胴と同じほど太い腕を組んで唸る。
体中に付いた傷が、この男の人生が戦いで彩られている事を語っていた。
「別に良いじゃない。楽しい人なんだから」
隣に座っていた女が、思い出したように笑う。顔と両手に掘られている刺青が病的なまでの痛々しさをかもし出し、白すぎる肌が女を人形の様に冷たくさせていた。
一年と半年前、世界は一人の魔王によって恐怖のどん底へと落とされていた。
魔王は最強の魔法使いでありながら、邪剣と呼ばれる最高の剣を誰よりも巧みに操る最強の兵士でもあった。
その力は強大で、一つ呪文を使えば辺り一面が破壊され、一度剣を振るえば遠く離れた標的も死滅させた。
それだけでも絶望的なのに、魔王は魔物を使い、人々に恐怖と邪まなる心を植え付けた。
そんな魔王と戦う国は多くあった。その一つに夜の国、という国があった。
夜の国は、魔王の城からは近くもなく遠くも無かったが、国境沿いに魔物が頻繁に出没した。
その為、完全に対岸の火事として、魔王のことを見る事は出来なかった。それでも何処か、これ以上の被害はないだろう、と対岸の火事としてみていたところがあった。
しかし、月が隠れ、夜の国が闇で包まれた時、魔王が夜の国に命令を出した。
聖女と名高い、シャナ姫を奉げろ、と。
無論、王も国民も反発した。しかし、魔王の力は強大で強力な事は誰もがわかっていた。
姫もその事を知っていた。絶望の中、姫は魔王の物になると言い、王も国民もすまないと涙を流した。
姫が魔王の物となる三日前、絶望しかない夜の国に、占い師がやってきた。
占い師は仕方ない、と首を下げる王と国民と姫に言った。
姫の血を魔王が浴びれば、その瞬間、魔王は不老不死となろう、と。
人の命を差し出してまで自分の命が惜しいのか、と叱った。
そして、運命はまだ、お前達にある。占いでは『負けない』とでた、と言い切った。
王と国民は、占い師の言葉に魔王と戦う事を決心した。しかし、やっぱり魔王の力は強くて、魔王の力は凄くて、結局、皆逃げるしかなかった。
姫は一人の兵士と共に城の奥へ、奥へと逃げた。城の一番底、清柳の宝物庫にて魔王に追い詰められた。
兵士は勇敢にも戦った。
だけど、やっぱり魔王は強く、強大で、兵士はぼろぼろにされてしまう。
それでも兵士は諦めなくて、姫はどうにかしたかった。
何時しか、姫は泣いていた。自分のために戦う者が傷つく姿、それが苦しかったのだ。それがとても哀しかったのだ。その、誰かのためだけに流した涙は純粋で、穢れが無かった。
流れた涙は一滴で、流せた涙も一滴だけ、たった一滴しかなかったけど、たった一滴だけの涙だけど、その一滴が奇跡を起こした。
その一滴は床へと落ち、床にしみこみ、魔方陣を起動させた。
それは召喚の魔方陣、それは壊れたはずの魔方陣だった。太古すらまだ遠い未来と思う、深遠たる混沌の時代、まだ世界が誰の手にも染められず、壊れた人形の神が存在しない、純粋な昔に生み出されたものを手に入れる魔方陣。
純粋な昔に生み出されたものは全ての光を集めた白と、全ての色を混ぜた黒。
そして、姫の想いを受け止めた光がこの世に生まれた。そう邪剣と対となる聖剣が誕生した瞬間だ。
これが 始まり
そして聖剣をとった兵士は勇者となった。勇者は聖剣の力を使い何とか魔王を撃退した。
勇者は、エウシウスと言う名の青年だ。
姫と同じ年のとても勇敢な青年だ。
そして、勇者には三人の仲間がいる。
剣をを使えば古今無双、巨漢の男フェイカー。
呪を体に刻み込む、失われた魔法すらも使いこなす、冷たき美女フレイ。
そして魔王との戦いで死んでしまった、幾億の未来すら見通した、絶対なる預言者ケンミ。
彼らは正義の名の下に魔王を倒した。
それは一年と半年前の事。魔王につけられた傷跡は大きく、復興にも時間がかかった。
しかし、今ではもうほとんど傷跡にカサブタが出来ている。勇者と姫と勇者の仲間が庭園でお茶会を開けるほどには、平穏な日々が戻ってきていた。
テイは歩きながら、四人の事を思い出す。最初に声をかけてきたのはシャナ姫。テイとは幼友達になる。
テイの家は武将の名門貴族だ。王からの信頼も厚かった。姫の護衛兼教育係に選ばれるほどだ。
彼女と同い年のテイが遊び友達とされる事は、それほど不思議ではない。無論、幼友達であったのは、性別の区別も付かぬ子供のころだけであったが。
次に、自分にリクエストした男は、勇者エウシウス。元は腕の良い、頭脳派の兵士だった。
テイも、勇者になる前のエルシウスの戦いぶりを何度か見た事がある。試合で勝てても勝負で負けるタイプ、と言うのがテイの評だった。それは今も変わっていない。むしろ、魔王を倒せた事が不思議なほど、真っ直ぐな青年だ。
そして、テイが去るまで何もいわなかった一組の男女、剣聖とまで称される達人フェイカーと、魔女フレイ。どちらも勇者の仲間だ。魔王を倒すために勇者が仲間にした人間らしい、としかテイは知らなかった。
|(はてさて、英雄殿達は呑気でよろしい)
多大な嫌味を含め、テイは呟く。その顔は今までの阿呆とは違う、まともな表情に戻っていた。
化粧も落とされ、服も粗末なノミとシラミが沸いた汚らしい物を纏っている。
人生に疲れ、働く事が面倒くさい、哀れな存在です、と自己主張する表情を作っている。
立派なこじきの姿だ。
テイは、元々聡明な子供だった。いや、今も聡明で非凡な才を持った青年だ。普段、彼が見せている姿は、道化としての彼だ。実際は、馬鹿でも阿呆でもない。
子供のころ、テイは自分の一つ上の兄より、何をやっても一歩先を進む事ができた。しかし、それは兄の怒りを買う事しかなかった。
幼いながらにテイは、このままでは兄が腐ってしまう事を感じ、兄の一歩後ろを一つ落ちたレベルで進むようになった。
優しさではない。
この頃テイは既に、人の一生など長いもの、五歳の神童、二十歳で凡人では仕様がない、と分かっていた。
だから、慌てる事無く、親を騙し、家族を騙し、友を騙せた。そして、ゆっくりと牙を、爪を研ぎ、それを使う時を虎視眈々と待った。
しかし、それを使う事はなった。武将と言う職に就く事をテイは良しとしなかったのだ。
ある時を境に、武将、と言うよりある事一つを除き、他の事に対する興味が薄れていった。
テイは守る事より、笑いをともす事を良しとした。
そして、人を笑わらわれる事を良しとする道化になる事望んだのだ。
それ以来、周囲の目を盗んでは芸を磨いた。そして十七歳、成人になった時、親も、家族も、友も、全てを捨ててテイは道化となった。
テイはユラリユラリと、面倒くさそうに歩き、浮浪者の街へと入る。街の中は、捨てられた者で組まれた家と、残飯、糞尿の匂いが無意味に乱雑と存在していた。
そんな中を歩き、テイは浮浪者の一団に混ざる。
「おや、また仲間が増えたな?、建物が一つ直ったか?」
テイは笑いながら言った。スピーカーが壊れたようなおかしなアクセントの無い、きわめてまともな声だった。
浮浪者達も笑いながら答える。
「いやいや、直ってなんかいないよ。本職が来たから、わしらはポイ!、人で無いから迷わずポイ」
「おや、それはお困りかい?」
テイは笑った。
「お困りだ。このままじゃ明日も水ですごしちまう」
浮浪者経ちも、可笑しそうに笑った。
「それはまぁ、お可愛そうに」
テイは上品そうな下品な声をだし、さも驚いた様に口元を隠す。
「そう思うんなら、パンをくれ!、そう思うんなら、肉をくれ!、何かくれ!、何かくれ!、何か・・・・・・」
浮浪者たちは、何かくれと合唱をはじめた。
テイは心地よさそうに辺りを見回す。そして、ころあいを見計らい、
「ああ、うるさい、ああ、うるさい、すっぱい葡萄のジュースと、こげた鳥肉をあげるから、黙りなさい、良いからずっと黙りなさい」
と、ヒステリックに叫んだ。
皆が一瞬黙る。
その隙に、テイは手に持ったまずいワインと、硬くなって食えたものじゃない鶏肉を、皆に配った。
配っている間、皆が笑う。そしてテイも笑う。
ここにいる浮浪者達は、元は浮浪者だった。魔王と人の戦争の間は、労働力として街の修復に手を貸さされたが、戦争が終わると、一人、また一人と、捨てられたのだ。
浮浪者達は、怒りもせず、ああ、困った、困った、とだけ言って、一人、また一人と街の外へと出て行く。
そうして、街の外、下水の近くには浮浪者の街が生まれた。
テイはここが気に入っていた。ここに入れば、各国の事がどこよりも詳しく、庶民の生活がどこよりも正確に知る事ができるからだ。
浮浪者は、家を持たず、仲間を持たない。
あるのはただ、浮浪者の街と、浮浪者同士の優しさだけ。だから、国から国へ、街から街へと渡り歩く浮浪者が大勢いる。そう言う浮浪者はいろいろな事を知っているものだ。それこそ、国の重要な機密を手に入れる浮浪者すらいる。
浮浪者の仕事はゴミ漁りだ。ゴミを漁り、物を手に入れ、それを食して生きる、それが不良者の生活である。だからこそ、人の変化には敏感で、人の世の先端を知っている。
テイは道化になったとは言え、この国の事を考えていないわけではない。自分にしか出来ない事があるなら、それが目的に適うなら、躊躇わず実行する覚悟があった。そのために独自のネットワークを持つようにしていた。ここもその一つだ。
全員に配り終わったテイは、嬉しそうに貪り、踊り、謳い、笑う浮浪者の輪から外れた。
一歩下がった位置で全体を見回しながら、テイはまずい酒を飲み、硬いだけの鶏肉を食す。
「いや、助かった。近頃は仲間が増えすぎて、困ってた所があったんだ」
比較的古株の浮浪者が話しかけてきた。浮浪者は片目が無い事から、片目と呼ばれいる。
「そりゃ、どうしてだ?、急に増えるなんざ、そんなにあるわけ無いだろう」
テイは慎重に尋ねた。
片目の言った事は、大抵よくない前触れだ。飢饉、台風、洪水、そう言った天災が起こると、浮浪者は別の街へと一斉に動き出す。
そして、天災の後には餓えた国と、餓えていない国の戦争が始まる事も良くある事だった。
「ああ、どうやら、隣の国が戦争になってるらしいぜ。あそこの連中、傷だらけだろう。皆戦争の、兵隊になるのが嫌でこっちに着たみたいだ。
ま、後は式典が近いからな。世の中騒がしくなるぜ」
片目は嬉しそうに口元を吊り上げる。
戦争に式典、この世で一、二を争う無駄な大騒ぎが一度に来た。
馬鹿騒ぎが好きだ、と公言している片目らしい反応だ。
「ほー、でどっちが勝ちそうなんだ?」
テイは、興味津々と言った風に身を乗り出した。
「ん、なんだ。あんたも賭けをするんか?」
片目がにやりと笑う。
「そんなもんだ」
テイは、大きく頷いた。
「そうか、なら責めてきた国に賭けな。俺の読みじゃぁ、後三日で勝つぜ」
「ほう、そうなるとここも寂しくなるか。次はここも知れないしな」
テイは残念そうに、辺りを見回す。
「そうでもない。明日は式典だからな。居残る馬鹿はたくさんいる」
馬鹿の筆頭だ、と言わんばかりの笑みで、片目は首を左右に振った。
「なるほど、式典後の残飯が目当てか」
「ああ、式典後のごみ収集が二日に分けられるらしいからな。食いっぱぐれそうにない」
今からその時の事を考えているのだろう、片目の顔は子供の様に輝かせている。
「ありがとさん、早速、金でも拾って賭けてみるわ」
これ以上話しても有益な事は聞けない、と判断したテイは話を打ち切ると、ふらふらと歩き出した。
「気をつけろよ。気をつけんと兵隊にされちまう」
「違いない」
テイは振り返らず同意する。
そして二人は声を上げて笑った。
女は自分の父親を睨みつけた。血で汚れたこげ茶色の髪を振り、涙が枯れた黒い瞳が、怒りの一色染め上げられている。いや、その瞳にあるのは、怒りだけではない。侮蔑と悲しみも、少量ながら混じっていた。
女の父親は心の中で、これはつらい、と苦笑する。
女は小柄で身長百五十センチあるかどうかも疑わしい、それに対し父親は百八十を超えていた。
昔と、まだお互いこんな事をしなくても良かった頃と変わらない、見上げるような視線。それが父親を苦しめる。
しかし、表面にはそんな事を一滴たりとも漏らそうはしなかった。それどころか、それが当然と言う顔を作り、冷たく現実を娘に擦り付ける。
「決まった事だ。お前も、騎士の称号を持っているのなら、この国の為に働け」
女は、父親の言葉に、口を閉じる力を強めた。歯が砕けてしまうほど強く、かみ締めなければ、きっと言いたくない事を言ってしまうから。
たとえ、経過がどうであれ、結果はここにある。
女は騎士で、女の父親も騎士、これだけは変えられない。もう、変えられる時を過ぎてしまった事だった。
「戦場なら、まともな戦場なら納得しましょう。しかし、しかし、これは騙し討ちではないですか!」
女が言いたい事を言わない代わりに、騎士としての女が、騎士として目の前にいる一人の騎士をなじる。
女の声は平時と違い、平坦で感情すらも分からなかった。
「だからどうした」
父親は、一人の騎士として言い切る。そんな事がどうした、と。まるで些細な事の様に冷たく言い切った。
女は自分の血が沸騰する瞬間が、自分の脳の重大な配線が切れる瞬間が、冷静にカウントする。
十 九 八 ・・・・・
カウントするが、止める気はもとより無い。カウントしている自分すら、まともな精神状態ではなかった。
カウントが残り三つを切った時、男の口が開く。
「そうしなければ、わが国の民は死ぬぞ」
カウントが止まった。止めざるえなかい言葉だ。ここでカウントを続ければ、それは自分自身の否定でしかなかった。
「名誉などなんになる。正々堂々だと、それで負けたらどうする?、勝たねばならん戦いで負けてどうなる?、お前は自分の、騎士の誇りの為に民に死ねと言うか!」
一喝、静かながら、大声量で怒鳴られるより、女の心と誇りをズタズタにする。
言った男も、親としての何かをボロボロにされる。
互いが、自分と相手を傷つけていた。二人とも、そんな事には気づいている。これは、戦に出る前、何度も行われた傷つけあいだった。
それでも、互いの答えが交わる事はなく、そしてこれからも無い。そんな無意味な傷つけあいだった。
「わ、分かりました。命令、命令なら従います」
女は眼に涙をためて、体中を悔しさで震わし、頷きたくもない言葉に頷いた。
「分かればいい」
血と肉を吐き出すような苦行に耐え、男は騎士として冷たく命令する。そして、そのまま足早に去っていった。
もう、娘の泣く姿も苦しむ姿も見たくない。だから、男は見ないでも良い様に逃げた。
そして、親として苦しまなくても良いように、騎士として歩き去る。
女はそんな父親を一人の騎士として、睨み続けた。
許せなかった。
女は自分の父親が、子供として、騎士として許せなかった。そして同じぐらい、弱虫な自分が許せなかった。
女は暫くすると、近くある水桶で顔を洗っう。眼は充血し、顔は高潮しており、とても他人に見せられる顔ではなかったのだ。
女はタオルで顔を拭くと、両頬を叩く。
「見せらんないよね」
女は大きく頷くと、重い両足を無理矢理動かし、鉛に変わってしまったよう身体を、前へと持ってこさせた。
体と同じぐらい、いやそれ以上に女は気が重くなる。それでも騎士となった誓いが、彼女に力を与える。弱弱しい力が、泣き出したい自分を誤魔化してくれた鉛のような体で部屋から出ると、ほこりの溜まった廊下を歩いた。
騎士には、最低二人の兵がつく、更に実力しだいでは多くの兵を持つことになる。
女は百剣の騎士と言う位にいる。別に百人の部下を持つわけではない。
騎士の称号は剣の騎士から始まり、一つ位があがるごとに十倍され、万剣の騎士まである。それ以降は、古来より伝え聞かされている英雄の名前が、騎士の位となっている。
百剣の騎士ともなると、十数人の兵は持っている。
「入るぞ」
女はノックもせずに、部屋に入った。
男臭い臭いが鼻を刺激する。最初の頃は眉をしかめたが、今ではもう慣れてしまった。部屋は十畳ほどで、備え付けに絨毯が敷かれている。
女は百剣の騎士だ。当然、女には部下となる兵がいる。自分が始めて手に入れた部下だった。
どいつもこいつもろくでなしみたいな奴等だ。女の目の前で平気で、どこの娼婦は良かった、や、どこの小僧が筆をおろしたなんて事を言い、金は博打と酒と女でほとんど潰し、残った食べかすの様な金を、これが全部だと言って、家族に渡す。
本当にろくでなしだ。それでも、女が初めて手に入れた部下だ。可愛くない訳がない。
「お前たち」
その可愛い部下達が、女の表情に固まった。動くことすらできない。屈強な、それこそ百戦錬磨の猛者達が、動くことすらできなかった。手にトランプや雀牌を持ったまま、固まっている。
どうやら今日は、金があるらしい。
皆で仲良くゲームをするなんて、こいつらの頭にあるわけがない。金をかけていたに決まっている。女は表情には出さず、冷静に分析した。
「いつも言ってるだろう!、ここで酒を飲むな、と!、抜き打ちで検査が入ったらどうする!、そのまま、営倉入りだぞ!」
「「申し訳ありません、エイリン殿」」
その場にいた十三人の可愛い部下達が、女に敬礼する。
その顔を上司に怒られた部下と言うには締りがなさすぎた。
内緒で煙草を吸った青二才が、親に見つかった時の顔だ。
「まぁ、さっさと隠せ」
エイリンはゆっくりと命令した。顔を先ほどまでと違い、仕方ない、と笑っている。
「「イエッサー」」
男達も苦笑いで答えた。
数分後、一ダース分は残っていたであろう酒瓶が、中身を残して綺麗にゴミ箱へと放り込まれた。中身は、メイリンを含むその場にいた十四人の胃袋の中だ。
「あんた達、中身がウィスキーならそう言え。てっきりワインかビールだと思ったら」
エイリンは口元を押さえ、こみ上げてくる物をこらえる。
周りでは笑いをこらえた男達が、聞かれなかった、や、言い忘れた、と愚にもつかない言い訳を並べ立てていた。
「う、話があるから、暫く待ってろ」
男達を睨みつけ、エイリンは部屋から出て行く。足取りは軽そうだが、気分は先ほどより悪くなっていた。
あの馬鹿どもが・・・誰にも聞こえない、聞かれても困る悪態をつきながら、一直線に歩く。
少し前の自分に、可愛い部下と言う言葉の可愛いを、子憎たらしいに変えろ、と言いたくてたまらない。
「と言うより、するな。目の前にいたら」
真っ青になった顔で、エイリンは言い切る。その時の自分を想像し、少し気分が良くなった。
そんな時、廊下の端から男の騎士が近づいてくる。
「地面ばっかり見てどうしたんだ?、また、油揚げでもみつかったのか?、それとも、そうすると七光りが上手く光るのか?」
荒んだ瞳をした男が、エイリンにからかいと妬みを大量に散りばめた言葉を浴びせる。
「テス、悪いが急いでるんだ。君の話は後で聞く」
内臓を吐き出したいほど気持ち悪いエイリンは、男、テスとやり合う気がなかった。仮に体調が万全であっても、やり合うつもりはないが。
テスの脇を通り過ぎる。
「また、大事な仕事が舞い込んできたか。
羨ましいね。
運だけは良い人ってのは、黙っててもチャンスが来る。こっちなんかあの戦争から運が落ちっぱなしさ。
今度、運のつかみ方教えてくれよ」
自分を嘲笑う言葉をエイリンは背中で受け止めた。言っている事が事実であるからこそ、何も言い返すことはなかった。
あの戦争、人と魔王が戦った最終戦争、そこでエイリンとその兵達は、魔王の城を守った兵器を壊した。
四大閉器と呼ばれるそれは五感の内一つを閉じる兵器だ。
閉器には四つありそれぞれ、聴覚、触覚、嗅覚、視覚の四つを閉じてしまう結界を作るものだ。
結界の範囲も広く、周囲一キロは確実に結界が生じている。動力が魔王の魔力であるため、魔王が死なない限り、閉器は永遠に稼動し続けると言う品物だった。
魔王の配下は全て、魔王の力の恩恵を受けているため、閉器の効果も受けない。
五感がほとんどない人と、五感がしっかり働いている魔物、勝負ははっきりしていた。
ただでさえ脆弱な人間が、勝てるわけがない。
結界の中に入れば負け、入らなければ魔王を倒せなくて負け、と言う絶望的な状況だった。
そんな状況だからこそ、人が勝つには方法は、閉器の破壊、それしかなかった。
閉器を破壊してしまえば、人の戦力は兵士二十五万、騎士二万、魔法使い七万、それに対し魔物は八万、十分互角に持ち込める数字だ。
しかし、魔物もそんな事は分かっている。閉器の守りは厚く、正面からの突入では壊すどころか、たどり着く事すらできない。
人の勝機は、勇者とその仲間達が聖なる力により、閉じられる四つの感覚の内、それぞれ一つだけは閉じられない事だけだった。
そこで人は、無謀な策を立てた。
兵士、騎士が魔王の城へ正面突破を仕掛ける。
全員が巨大な槍を持ち、ただ突撃するだけの、死しか待っていない前進。
敵も味方も考えず、ただ前進するだけの駒。
これは、魔物達にとって脅威だった。
いくら魔王が強かろうと、城を失えば、一対数千人という馬鹿げた戦いをしなければならなくなる。全ての人を殺せたとしても、魔王の力が幾らかは消耗する。それでは、後に控える勇者との戦いが、厳しくなる。
たとえ直進しか出来ない兵だとしても、逃げるなど魔王のプライドが許さない。
そして、幾ら魔王と言えども、勇者との戦いで、閉器を使い続けていられるほどの余裕はない。
魔王の持つ邪剣の力と勇者の持つ聖剣の力は互角、それだけに魔王としての魔力を、別の所で消費しながら戦う事は自殺行為だった。それだけ勝率を下げてしまう。それは魔王自身がよく分かっていた。
その結果、魔物は戦力の六割以上を城の守備に行かざるえない様になる。
そして魔法使いが結界の外から、手薄になった閉器に対し、遠距離魔法で攻撃した。地図とインスピレーションだけによる魔法攻撃、それでも閉器の周辺、百メートル以内には攻撃ができた。
その混乱に乗じ、四つの閉器にそれぞれ勇者と仲間達が向かい破壊する。
もし、閉器守備の魔物が、魔法使いを殺しに動けば、それだけ閉器の守りが手薄になり、動かなければ、魔力が尽きるまで魔物は聖なる光の魔法に犯された。
エイリンの部隊は、運がよかった。
比較的後半まで、結界に入らずにすんだ。
更に入ってからはエイリンを含め五、六名が、一直線に前進できず、別方向へと進む波に自然と乗っていた。これにより、即死コースからはずれ、更にエイリン達が入ってから十分ほどで、閉器が二つ壊れた。
最初に壊れたものは聴覚、次に視覚、この二つがほとんど間を置かず回復した。お陰で、エイリン達は、前進をやめ戦闘を始める事が出来た。
剣を振るい進む。後ろに下がる事は許されなかった。
体中、自分と魔物と、人の血で汚れきったころ、嗅覚が蘇る。
血の臭いで鼻が利かなくなり、流れ落ちた血で片目が使い物にならなくなった頃、エイリン達は閉器の前に突き当たった。
エイリンの部隊の他にも、十数の部隊が、閉器を目指し剣を振るう。その閉器はまだ壊れていなかった。
そして、エイリンは自分の部下と、多くの同胞は、勇者の仲間と共に、閉器を壊した。エイリンがやった事は、敵の梅雨払いでしかなく、壊す事を間近で手伝ったに過ぎない。
「勘違いするなよ。お前は運がいいだけだ」
エイリンは、事実を侮蔑と共に投げつけられる。丸めた背中で言葉を受け止め、エイリンは、ゆっくりと歩く。
テスの言葉が心に刺さり、気分がより一層、最悪に近くなった。
エイリンにとって、テスの言っている事もそれで軽蔑される事も当たり前のことだった。
あの戦争の後、命令を守った戦士達にこの国では何一つ恩賞を与えず、たまたま命令をこなせない事が上手く行ったエイリン達に昇進と、賞与があったのだ。
これに腹を立てないほうがおかしい。
命をかけて命令を守ったのに、まともに戦わないものの方が優れていたと言われれば、怒るって当たり前だ。
その様にエイリンは考えていたし、ほとんどの戦士がそう思っていた。
「分かってる。そんな事、ずっと分かってることだ」
エイリンは、自分の耳ようやく届くほど小さく呟く。
白い城の片隅に、周囲の秀麗さに不釣合いな小屋が建っていた。
小屋の壁は、土と藁と糞を使い、屋根は草で出来ている。中も、仕切りなどなく、床は湿った土の上に藁が敷かれているだけだった。
さらに、小屋の横に出来てている立派な水浴び場が、より一層怪しさをかもし出している。
浮浪者達ですら木造の家に住めるこの国で、汚らしい小屋の造りは異常だ。
城を巡る清純な空気と清らかな風に似合わぬ、汚らわしく淀んだ空気が小屋から発せられている。
この小屋は、数代前の王が、妙な外国の文化にかぶれ、造られた物で、オリジナルとなった建物はこれほど酷い物ではない。
本来なら、すぐに取り壊されるはずが、表より目立たない事と、壊した瓦礫の撤去が面倒くさいため、まだ残っていた。今は、一人の道化のねぐらとなっている。
小屋の主は、数ヶ月前に敷いた藁の上に寝転がると、草で出来た天井を睨む。白い化粧も、煤や泥もふき取とったテイだ。
服は、浮浪者たちの所に向かった時よりはましになっていたが、それでもかなり粗末な服を身に着けている。
「さてと、困ったものだ」
誰に言い聞かせる訳でもなく、テイは何となしに呟いてみた。壊れたスピーカーの様に無様なアクセントをつけた声が、小屋の中を走り回る。
|(結局、分かった事は、極星の国が、大原の国に攻められていることだけか。
この程度なら、英雄殿も知ってるだろう。
戦局も、極星の国が有利である事も、同じだ)
テイは、今日の午後半日を使い得た事に重要なものがない事を、改めて確認した。
二国間で行われていた戦争の話は、既に城下に住む人達の耳に入っている。浮浪者だけでなく、城下町の賭博場でも、トトカルチョが始まっていたのだ。
情報は正しく、ほとんどの人間が知っている、と考えられる。
トトカルチョの倍率は、極星の国勝利が断然低く、中にはほとんど一倍と変わらない物もあった。
極星の国が有利という噂は、それなりに信頼できるものだと思える。
更に極星の国は、大原の国より巨大で富にあふれ、軍備の規模も二国では倍近くあった。素人目にも、極星の国が負けるとは考えられない。
そこまでを踏まえ、テイは結論を出した。
「まぁ、七割がた・・・勝つのは大原の国だろう」
今、城下町に氾濫している誤認は、大原の国が当たり前の事を認識していない、と思うからこそ生まれたものだ。
国力の差、どんなに馬鹿な作戦製作者でも、頭に叩き込まれる事だ。そんな事も分からず、戦いを挑むわけが無い。
大原の国は、魔王の攻撃でかなりのダメージを受けた国だ。生きる為に、戦争を仕掛けるかもしれない。だからと言って、自分より強いところと戦争するわけがなかった。
戦略段階で、愛と希望を利用する戦略家は二流だが、戦術段階で、愛と希望を口にする奴は頭がいかれてる。
「だから、きっと、何か策があるはずだ。戦略と戦術、どっちであるかが問題だな。運がよければ、両方か」
クク、とテイは堪え切れずに、顔を歪める。
たとえ、勝算があろうとも、結局は細い糸の様なものだ。間違えずに進んでいるうちは良いが、少しでも間違えば、少しでも読みが甘ければ、負けは決まったようなもの。
それをさも安全そうな鉄製の橋に見せた話術、そしてそれを支える絶対的な自信。
そんな天才がいた、その事がとても嬉しくて、楽しくて、テイは堪え切れず、笑った。
そんな天才なら、確実にこの夜の国も戦場にするだろう。もしかしたら、既に戦場になっているのかもしれない。
|(天才は英雄殿達に勝てるか?、まぁ、無理でしょうが、可能なら、勝って、殺されて欲しいものだ)
テイは、勇者の勝利を疑おうともせず、まぶたを閉じる。
今日はまだ、夜中に宴が模様されるのだ。寝ていなくては体力が持ちはしない。その場で笑われる事に思いをめぐらし、テイは心地よい眠りに入った。
白い、純白の城の中、数少ない機能を優先させた部屋の一つ、詩行の間において、勇者エウシウスと、夜の国女王シャナ、美しき魔法使いフレイ、そして参謀達が難しそうな顔で、唸っていた。
部屋の中心には大きな机があり、その上には地図と、駒が乗っていた。駒は木製の細かい造詣が見える、趣味の良い品だ。
二色に塗られた駒が地図の上でおのおの集団を作っている様は、ボードゲームを思い起こさせる。
壁には一面、細かくまとめられた書物が無造作に押し込められていた。それは、今までの戦争についてだけまとめられた、人を効率よく殺戮するための書物である。歴史、戦史の評論家には喉から手が出る一品だ。
「援軍は、やはり出せませんか?」
シャナは、何度目かになる問いを口にする。既に、答えが色よいものでない事が分かっていた。
顔は悲しそうに伏せ、澄んだ青い瞳も陰りがある様に見えた。
参謀の一人が、分かりきった答えを口にする。
「無理ですな。今、極星の国は大原の国の五、六倍は兵力があります」
答えが音として辺りに伝わるにつれ、シャナの表情は、更に暗いものへとなった。
「幾ら星視で色良い結果が返ってこなかったからと言って、それだけでは・・・・・・」
シャナの表情に良心が痛んだのか、最後の言葉は濁る。
他に誰も言えることが無いのか、嫌な沈黙が部屋を満たした。沈黙は、時間と共に濃密になる。
暫くして、エウシウスが沈黙を破った。
「やめましょう。情報が少なすぎます。
このまま話していても、有益な話し合いになりそうに無いですよ」
参謀達は、仕方ない、と言う感じで頷いた。その反面、表情はどこか安堵してる。
彼らもエウシウスの言うに気づいていたのだが、言い出せなかった。
彼らの仕事は作戦を立てる事だ。二時間も会議を長引かせて、まともな作戦一つ立てられないのでは、明日から職を変えろ、と言われるかもしれない。
彼らのプライドと、危機感が、無意味、の三文字を提示する事をためらわせていたのだ。
「そうね。ちょっと情報が足りない。これじゃあ、指標もまともに立てられそうに無いわね」
フレイが、右手で口元を隠し同意する。蝋の様に白い手に、赤黒く、蟲の屍骸と見まがう刺青が見えた。指が人形のように美しいだけに、吐き気がするほどグロテスクに見える。
「確かに、そうですが、このままにしておくわけにもいきません」
「ですね。どうでしょうここは一つ、腕の立つ間者を偵察に出されては?」
参謀達が当たり障りの無い定石をだした。参謀達は、これで自分達は仕事を果たした、と言う晴れ晴れとした顔をしている。
情けない、エウシウスは晴れ晴れとした参謀二人の態度にため息を吐きたくなる。
本来なら、職を辞する覚悟で作戦を立案し、運営するための要点を作り出し、それを指揮官の手で書き換えられると知っていながら、指揮官に差し出す事が、彼らの仕事だったはずだ。
それが、自らの生活を優先し、あやふやな言葉を吐き、指揮官には完璧を求めるている。
いくら、魔王との戦争で有能な人材が死んだとは言え、これはひど過ぎた。
死んだ武将や仲間、参謀達が浮かばれない。
エウシウスがフレイの方を見ると、同じ様な顔で参謀達を見ていた。
「それしかないですな」
参謀の内一人、魔王との戦争にも生き残った古参の一人であり、実質的な参謀達のリーダーが、何も考えてないように頷く。
鶴の一声に他の参謀は全てが終わった、と緊張の糸を切った。
緩んだ空気が辺りに充満する。
「それでは、ここで終了ですか?」
シャナがそんな参謀達を諦めた顔で見ながら、終了の時を尋ねた。全員に対する確認ではない。
エウシウスとフレイ、この二人を抑えるための方便でしかなかった。
「そうですな。後は、収集する情報と、送り込む間者の規模と、日数を決めたら終わりにしましょう。
パーティーまで時間はありませんが、何、ここには優秀な参謀が三人います。
パーティー前には終わるでしょう。それに」
最後に頷いた参謀が、鞄の中から紙とペンを取り出し、ニヤリと笑った。
それと対照的に、残りの参謀がうんざりした表情に落ちる。
「素人とはいえ、人手が更に三人増えたんです。終わらないはずが無いでしょう?」
古参の参謀が、いかがかな?、と目で尋ねてくる。
依存は無い、とエウシウスとフレイは頷いた。
残りの参謀達が泣きそうな顔で、こちらを見ていたが、全員が無視した。やがて、諦めた残りの参謀達は棚からがファイルを引っ張り出し始めた。
参謀達は、ああでもない、こうでもない、と必要そうな情報をファイルから書き出しは机の上に投げ捨てている。
先ほどまでのだらけた態度はなく、参謀達は熱気に包まれていた。
大丈夫だ、この参謀達はまだ悪くは無い。古参の参謀がいれば、良い参謀になるだろう。
エウシウス、シャナ、フレイの三人は同じ事を思いながら、嬉しそうに三人が投げ捨てた情報に目を通していった。
少し昔話をしよう。
それは青年がまだ少年だった頃の話だ。この時、彼の運命は既に決まっていたのだ。
「・・・・・・たいんだ」
少年は、夢と希望に満ち溢れた声で、目の前にいる占い師に言った。
「無理だ」
占い師は心底面白そうに断言する。少年の絶望と怒りが心地良い、と歓喜に震えていた。
「何で!」
「何でもさ」
少年の否定を、占い師が更に否定する。互いに互いを否定しあう、しかし、一つだけ変わらない事があった。
それは、少年は必死で、占い師は遊んでいる事。
「何で!」
泣きそうな顔で、悔しそうな顔で、少年は再度、魔法使いを問いただす。
否定したくて、否定してほしくて、信じればなれる、信じてさえいればいつか叶えられる、少年はそう信じたかった。
それでも、目の前に映る光景は、血、血、血、血、血、血、血、肉、肉、肉、肉、肉、肉、肉、抽象的な世界。残酷で絶望的だった。
絶望を見せつけ、占い師は問う。
「これが、その先にあるものだ?、これがその後に残されたものだ」
占い師は、少年に死と、恨みと、残心と、憎悪と、逃避と、闘争と、裏切りと、傲慢と、異常と、腐臭と、胃液と、内臓と、汚物と、蛆と、蝿と、鉄と、骨と、祈りを混ぜて、絶望で彩った臭いを突きつけた。
「違う!、そんなの違う!」
少年は、認めたくなくて、認められなくて、そして、自分なら変えられると確信を持って、違う、と言い切る。
「何が違う?」
占い師は少年の体に、世界にある全ての汚物を混ぜた水をかけた。
少年の体は汚れ、汚い現実が、幼い理想を侵食し始る。
「僕が、僕が、僕がここに居れば、絶対にこんな風にはさせない」
占い師は、楽しそうに少年を見て、宣言した。
「それは無理だ。なぜなら、お前は・・・・・」
目が覚めた。嫌な夢を見た事は分かっていたが、それ以上の事は思い出せない。
「悪夢なんてそんな物か」
エウシウスは、梅雨時期の風と同じくじっとりと湿った髪をかき上げた。それだけで、引きまった体の筋肉が美しい陰影を作り、計算された彫刻を思い起こさせた。
何でも無いしぐさが絵になる男だ。
ベット脇に居た少年が、エウシウスに濡れタオルを差し出す。
「おはようございます。エウシウス様、もうすぐパーティーが始まります。急いで準備してください」
少年は軽く一礼すると、一歩下がった。
「分かった。ウォンツ、それでパーティーまではどれぐらいだ?」
エウシウスは、未だ上手く働いていない頭を動かし、ゆっくりとベットから出る。
兵士としての彼がいけない、と毎回忠告するが、それと同じぐらい体は、当然だと言い返していた。
そんな一進一退の攻防が続けられ、現在まるで進歩も退歩もしていない。
「後十五分ほどです。急げば、ぎりぎり間に合います」
少年は、エウシウスの問いを待っていたのか、淀みなくさらりと答えた。その間にも、エウシウスに似合いそうな正装をタンスの中から取り出す。
今までウォンツが、エウシウスの問いを片手間に答える事は殆ど無かった。そのウォンツが、エウシウスの顔見るなく、手早く着替えの準備をしている。
ウォンツは大した事が無いように言っていたが、実際はかなりやばいんだろう。
そう判断したエウシウスは、強引に頭をスッキリさせる。
冷え切ったエンジンを無理やり動かすように、体を動かすと多少間接が痛みを返したが、それも頭を起こすにはちょうど良かった。
「では、こちらに着替えてください。もし、聖女様の怒りと、知らない方にもみくちゃにされたくなければ、急ぐことをお勧めしますよ」
ウォンツは、無性に問い質したくなる事をのたまう。
「今、何て」
と、エウシウスが問いただそうとする直前、扉が閉まる音がエウシウスの耳に届く。所在なさげに上げた手が、美しい模様が彫られた扉を指していた。
十数秒、そのままの形で固まっていたエウシウスだが、ウォンツの言っていた不吉な予言を思い出し、慌てて着替え始める。
エウシウスは大慌てで服を脱ぎ始めた。
鎧のインナースーツと、ズボン、その下につている下着を脱ぎ捨てる。服は床に投げ捨てたままだ。
濡れタオルで体中の汗を拭く。時間が無いためしっかりとは拭けず、軽く汗を取るに止まった。
鼻を鳴らすが、特別汗臭さはない。
用意されていた正装を手に取った。黒いズボンに、白いシャツ、そして黒い背広風の上着。上着は普通の背広より大きめで、ひじ肩、腹が最大まで最高速度で動かしても、まるで違和感を与えない造りになっている。
最後、腰に帯剣用のベルトを巻き、両刃の剣を手に取った。
剣は聖剣を模した物で、切れ味、耐久性より見た目の美しさと、優雅さに重視された装飾用の剣だ。
本物の聖剣はここに無い。本物は、魔王を封印するために、今も魔王の心臓を貫いたままだ。
右腰に帯剣する。エウシウスは右利きだ。利き腕で剣を素早く抜く事はまず不可能になる。もし抜こうとすれば、自分の胴体が邪魔になる。
剣を抜かないと言う、来賓客に対するアピールなのだろう。
エウシウスはきちんと着替えられているかなど確認せず、扉を開けた。
扉の向こう側には、黒を基調としたドレス風の作業服を着た女が無表情で立っている。
女は、エウシウスが自分の目をしっかり見たと確認してから、軽く頭を下げた。幾分頬が赤くなっており、よく見ると緊張からか足が少し震えている。
「お待ちしておりました。会場へと案内させていただきます」
緊張したそぶりがまるで感じられない口調で、女はゆっくりと案内を宣言した。
女は、エウシウスの返事を待たず、歩き出す。エルシウスはその後ろに黙ってついて行った。
「なぁ、今日はどこの国のお偉いさんが来てるんだい?」
半分ほど歩いた所で、エウシウスは案内役の女に尋ねた。
「終りの国、暁の国、大河原の国、せせらぎの国、悲し女の国、大法螺貝の国・・・・・・」
女は淀みなく、出席国を律儀に答えてゆく。全てで二十以上ある事はエウシウスも知っていたが、改めてその数を実感させられた。
これから始まるくだらないパーティーを考え、エウシウスは深く深く息を吐く。
「なぁ、君はこのパーティーをどう思う?」
「各国の偉い方々が、復興した事を記念したパーティー。城下でも、明日の式典に先立って、お祭り騒ぎ。この国が、中心となった事が誇らしく嬉しいです」
女は嬉しくなさそうに答えた。誇らしいとも、嬉しいとも感じられない、無機質な表情だ。何も感じず、何も考えない、と決断した者がよく作る顔だった。
「君は、楽しくなさそうだ」
エウシウスの顔も、女と同じくとても、硬く、冷たかった。
「あたしの生まれは、タタラですから」
「そっか、俺はユウトウだ」
お互い、それだけ言って、後は黙ってしまった。しかし、どちらにとっても苦しいものではなかった。
沈黙は馴れ合いを嫌ったものではあるが、決して相手を嫌っているわけではない。
魔王が初めて戦争を仕掛けて時、十の村がその標的となった。
この時は、魔王の力を誇示するため、魔王が自らの魔法で全ての村を焼き殺した。
辺り一面にガラスに似た光沢を持つ地面が生まれた。別に、魔王は本気で魔法を使用したわけではなかった。
単に、派手でかつ後始末が簡単な魔法でそれより適任な魔法を持ってなかっただけだった。
魔王の魔法は、普通の魔法と違っていた。力は強大で、範囲は広く、全てを壊す。最強の魔法なのだ。
そして、世界中の全ての王に死ね、と宣言した。
その時、各国は魔王を侮ってしまった。
幾ら威力が高い魔法を使えようとも、たかが魔法使い一人、それなりの軍を被害のあった国が出せば勝てる。
そう、考えてしまったのだ。
近くで異常発生している魔物の報告を偶然と片付け、魔王が使った魔法の素性を調べもしなかった
そして三日後、足並みを揃えていない軍隊、三千名が魔王と魔物達に虐殺された。
虐殺が終わるころには大量の血、肉、赤い骨、そしてそれらに汚物をまぶし食す生物がいた。
地獄絵図の完成だ。肉は人間と人間の形をした生物が奪い合って、上手そうに食べる。
大抵は生物が勝ち、人間は食料へと変わる。血は、ヒルとナメクジに似た生物が泳ぎ、それを人間が必死になってすすっていた。
ほとんどの人間は、腹から蛆虫と、ヒルと、ナメクジやミミズの形をした生物を湧き出させる。
骨はうどんの麺の様な生物が住処を作り、人間がその骨を燃やして薪にした。
汚物は、腐りきりどんな生物も寄り付かなくなる。人は魔よけとして喜んでそれを塗りたくった。
最初に犠牲になった十の村周辺にある四つの村、そこが紙となり、地獄絵図は完成した。
紙となった村は、タタラ、ユウトウ、ウチガネ、ショウセイだ。どの村も、のどかな、何処にでもある村だった。
もし、最初から世界中の戦力を全て投入していれば、負ける事はなかったかもしれない。
それが無理だとしても、せめて考えるぐらいはしてほしかった。それが、その地獄から這い出た人間と、四つの村で生まれた人間の心情だ。
奇妙な沈黙も、管楽器と弦楽器によるデュエットが聞こえて来た所で、終りが見えた。パーティー会場の扉が既に見えている。
「ここまででいい。ありがとう」
エウシウスはドアが見えると、女を抜き去る。元々の歩幅が違うため、ちょっと歩幅を戻すと、簡単に抜きさってしまえた。
「分かりました。頑張って下さい」
女は、軽く頭を下げるとその場から離れる。この場には居たくないのだろう、来る時より、確実に早足で去って行った。
「ああ、頑張るよ」
エウシウスは、女の足音が聞こえなくなる前に呟く。呟きは遠ざかる足音より小さい。女にも聞こえなかっただろう。
それでいい、とエウシウスは思っていた。口にすれば、嘘臭くて、馬鹿らしい言葉。理解してほしいわけでも、知ってほしいわけでもない。
だから、自分にだけ言い聞かせる。誰に何を言われようとこの誓いを守る生き方が、エウシウスにとって唯一、楽になれる方法だろうから。
魔王と愚鈍な指揮官が、自分の村を地獄絵図にした時、エウシウスは城で兵士見習いをしていた。
噂程度では、何かが起こっている事を知っていた。
魔王と名乗る馬鹿物が戦争を仕掛けた事、そいつら相手に軍が負けた事、戦場が自分の村の近くだという事、それぐらいの事が分かっていて、エウシウスは何もしなかった。
ちょうど、見習いから本物の兵士になれる瀬戸際で、とても村に帰れる余裕はなかったのだ。
だから、エウシウスは、大丈夫、あそこに限って、と無駄な事を口ずさみ誤魔化した。
そして、見事兵士となったエウシウスの初任務は、地獄絵図となった故郷の調査と、後処理としてそこを焼き払うことだった。エウシウスは、村の出身と言う事で、地理に明るく、また生き残りがいた時説得しやすいと考えられ連れて行かれた。
その場についたエウシウスは、腐った肉と汚物、そして血の臭いに吐いた。
胃の中の物を全てぶちまけ、それに群がろうとする虫が気持ち悪すぎて、徹底的に踏んで、踏んで、潰して、殺した。
その後の事は断片的にしか覚えていない。
覚えている事は、村の地理を説明した事と、壊れていた村の人々だけだ。
記憶が整合性を復活させた時は、村が燃えている場面だ。
目から蛆虫の出ていた母親、両手で笑いながら自分の糞尿を頬張る父親、どちらも体のどこかが欠けていた。
自分の初恋だった女の子は人間と人間だった生き物に食われ、犯されて、嬉しそうに鳴き、腰を振り、自分の肉を頬張っていた。
自分を慕っていた男の子と女の子とは、互いの口と肛門に、互いの足と手を突っ込まれ輪投げの輪の様に捨てられている。苦悶と快楽の表情が、汚物の中からのぞき出していた事が、とても気持ち悪かった。
断片だからこそ、何時でも細部まで思い出すことが出来る。
蝿と蛆虫の中で、エウシウスは泣いた。
自分の所為だとは思えなかった。
まともに動かなかった軍と、まともに動こうともしなかった指揮官に怒りがこみ上げてきていた。
けど、それと同じぐらい、何もせず、今も、悪くない、と誰かに許してほしい自分は許せなかった。
村は焼かれた。
真っ赤な炎が辺り一面を包む。
エウシウスは、全てを燃やし尽くそうとする炎の中、一つ誓った。
あの村を、自分の育った村を、元通りにする。土は腐り、空気は澱み、数十年は使い物にならない場所だという事を、承知した上で、エウシウスは魔王が仕掛けた戦争を終わらせ、この場に村を復興させる事を誓った。
そして今、エウシウスは各国の貴婦人や武将にもみくちゃにされながら、パーティーが早く終わる事を切に願う。よく見ると、笑顔が引きつっていた。
あの手、この手と、嘘と誠実さを見事に使い分け、目的の人物の前まで避難しようとする。
いや、避難という言葉は正しくない、死地へと駆けているのだから。
多くの来賓と言う障害を乗り越え、壁際でゆったりとしている男女三人組の前までたどり着いた。
「ごめん遅くなった」
エウシウスは、壁際でぼんやりとしているシャナに頭を下げる。
白を基調としたドレスと、金色の髪のコントラストがより両者を引き立て、金の刺繍が無意味に感じさせられた。造形美の極致ともいえる長く白い指は、それより白いシルクの手袋に守られ、姿を見せていない。その事が、逆に創造を掻き立てる。
彼女に近づく事、それ自体が罪と感じられるほど、美しかった。
「いいんですか、ここに居て?」
シャナは部屋の中心を見ながら言った。ぼんやりとした表情で、エウシウスの事等どうでもいいように見える。
「このパーティーも中盤ですし、そろそろ誰と踊るか決めないといけないでしょう?」
視線を若い女達に移し、シャナは聞いた。
女達は、先ほどエウシウスを囲んでいた一団だ。
誰にするんですか?、と言っている青い瞳はサファイヤの様に冷たい。
「誰って・・・」
エウシウスは、助けを求めるように隣でグラスを傾けているフェイカーと、フレイに視線を移した。
フェイカーは、エウシウスと似た服を着込んでいた。違いは腰に剣を帯びているかどうかだけだ。
フレイは、刺青を見せたくないのだろう、青色の明るい配色のドレスを選んでいたが、全体的に色は濃く肌の露出はまるでないドレスだった。顔も、不自然ではないほどに付け髪使いを巧みに隠している。
二人は、そろって明後日の方を向いていた。白々しく、楽しいわねぇ、ああ、なんて会話を始めてくる。
見ざる、聞かざる、言わざるという、意思表示なのだろう。
エウシウスは裏切り者、と呟くが、二人の会話に淀みはない。歴戦の兵だけあって、この程度の言葉では、痛痒を感じないのだろう。
さてどうしたものか、とエウシウスは頭を悩ませる。
こうなった理由がよく分からない以上、言葉を重ねる事は危険だ。もし、ボロが出れば取り返しがつかない。かと言って、戦場では頼りになった仲間は、手の平返してそっぽ向いている状態だ。
結局、エウシウスは頭を悩ますだけで、その場から一歩も動けない。
逃げるという選択肢もあったが、後が怖くて実践できなかった。
一方、シャナも言う気がないのか、言う必要を感じてもいないのか、エウシウスに冷たい視線を送るだけで、一言も喋ろうとはしない。
完全に膠着状態に入ったまま、一分が経過した。先に精神をやられたのは、エウシウスだった。胃の辺りを時々押さえ始める。
二分経過、エウシウスの手は胃を抑えている時が、多くなった。
三分経過、手は腹部から離れる時はなくなり。時々、隣で腕を組むお姫様を観察する。
五分後、頭痛まで感じられるようになったエウシウスは医務室に逃げ込む事を決意した。口の中で、時間は全てを解決する、と呪文を唱える。
後ろ向きでありながら、現実感がありすぎている最悪の呪文。
呪文の力に従い、その場から逃げ出そうとする時、エウシウスの目の前に鼻が垂れ下がった。原色で塗りたくられた緑の茎や枝に、紙で作られた鼻が実をつけていた。
鼻は赤みを帯びたもの、少し穴が大きいもの、すらっとした綺麗な形のものなど、多種多様にある。
そんな個性あふれる鼻に囲まれて、エウシウスはポカンとしていた。
口を半開きにして、意味もなく鼻をいじる。
「ぷっ、ククククククククク」
「フフフフフフフフ」
「クスクスクスクスクスクスクスクス」
気づくと、会場にいた全員が笑っていた。男女、年齢、身分の差もなく皆可笑しそうに笑っている。エウシウスは一体何が起きたのか分からず、呆然と辺りを見回した。
大体三分の一ほど見た所で、居ない筈の異分子を見つける。
何でこいつが?、と思うより早く、異分子がエウシウスの視線に気づいた。異分子は阿呆の様な笑みを浮かべ、声を張り上げた。
「さあ、華麗に咲く鼻々の植木鉢となったエウシウス様に盛大な拍手を!」
異分子の言葉に、一人、また一人と自分の手を互いに叩き始める。最期には、会場全体から盛大な拍手が、植木鉢に送られた。
植木鉢のエウシウスは、事態の変化についていけず呆然としていたが、暫くすると手を上げて拍手に答え始める。
拍手が収まり始めた時を見計らって、異分子はくるりと宙返りをした。華麗な宙返りは、華麗な着地ミスにより、盛大な音を立てる。
その音に引き寄せられる様に、会場の視線は異分子に集まった。
異分子はいかにも痛そうに腰を摩ると、気合を入れて立ち上がる。しかし、上手くいかず、老人の様に腰を摩り直した。
そんな動作を三回ほど繰り返しただろうか、ようやく周囲の視線に気づいた異分子は、慌ててきっちりと立ち上がる。そして、軽く堰を吐くと、仕切りなおしとばかりに阿呆の様な笑みを辺り一面に振りまいた。
「さあ、盛り上がって来た所で、次はテイ自慢の芸をお見せしましょう」
異分子、テイはそこで一息をつく。会場の期待が高まってきた。
「馬鹿息子!、何やってるかああぁぁぁぁ!!」
完全武装で身を固めた兵士の一団が現れた。兵士達は、テイを押しつぶすようにに殺到する。
兵士達の登場に、テイは驚いたような顔を作り、飛び上がって右往左往する。兵士達は、殺気を纏った棍棒を持ってテイを追いかける。
そこからはパロディだ。
兵士達は、互いにぶつかり合ったり、誤って互いを殴り倒したり、大混乱に陥る。それを見て、指揮官らしき兵士が大声で怒鳴る。
テイは右往左往しながらも、兵士達の無様さに気づくとその場で転げまわって笑い、挑発するように踊りだしたりもする。
会場にいた他の人間は、これもショーの一つだと思い、テイと一緒に笑っていた。
実際、ショーだったのかもしれない。
遠目に見る観客たちの周囲には、兵士もテイも近づくことがなかった。
エウシウスは、観客と三流パロディの輪から離れる。
頭にはまだ鼻が根付いたままだ。何となく抜くのも悪いかな、と思えてしまったのだ。
壁に寄りかかっていると、脇から白い手が生えてきた。手はゆっくりと動き、鼻の一つを抜く。ちょび髭と、瓶底眼鏡がついた鼻だ。
何となくエウシウスが心惹かれるものがあったりしていた一品だ。
「色男が台無しですよ」
手の出てきたほうを向くと、シャナが鼻を片手に微笑んでいた。シャナは、昼間の太陽の様に辺りを優しく暖める笑顔で、エウシウスに微笑んでいる。
そんなシャナを見てエウシウスは
「ぶっ」
盛大に噴出しかけた。シャナの手に持っている鼻が、眼鏡とちょび髭付きの宴会芸ぐらいにしか使えそうもない鼻が、ちょうど彼女の鼻がある位置に重なっている。
つまり、眼鏡とちょび髭付きの宴会芸ぐらいにしか使えそうもない鼻が、シャナの美しい鼻筋と、優しげな瞳と、むしゃぶりつきたくなる様な唇に、綺麗に重なっているのだ。
「そんなに笑ったらテイが可哀そうですよ」
「あ、ああ、そうだねぇ」
都合の良い解釈をしてくれたシャナに拍手を送りつつ、エウシウスは微妙に立ち位置を変える。
このままでは笑い堪え死にを達成出来ると確信した状況から逃れるためだ。
ゆっくりと、気づかれない様に、何とか自然に位置を変えた。
「でも、テイは凄いですね。私では、ここにいる皆を笑わせるなんて、出来ません」
シャナは心底羨ましそうに、パロディの中心にいる人物を見る。現在は、指揮官らしき男に棍棒で尻を叩かれて、あたふたと逃げだす所だ。猿の様な動きが、笑いを誘っている。
「あれは、それが本職だから。あれぐらい出来ないと、飯が食えないかと」
エウシウスは、パーティーを馬鹿げたパロディに変えた張本人に、多少嫉妬の篭った視線をぶつけた。
自分には出来ないことを、目の前にいる阿呆が簡単そうにやってのける。
それが、少し悔しくて、とても苦しかった。
草原の草むらの中、エイリンは寝そべっている。
腹を地面につけ、静かに時を待っていた。
暗い闇の中、鼻先を掠める雑草が煩わしいのか、風が吹くたびに眉をしかめる。
こげ茶色の髪は兜の中に収められ、風には揺れなかった。体中からあふれ出る汗が気持ち悪い。
エイリンは、黒い厚手の服を着込み、その上に鉄で出来た鎧を身に着けていた。鎧は、弓矢を防ぐという概念を捨てた薄い鉄板で出来た物だ。心臓や肺など致死的な急所は守っているが、膝や太ももなど致命的な急所は守っていない。
エイリンが奇襲用に鎧のパーツを選んだ結果だ。
製品出荷時は、銀色に輝いていた鎧は、傷と血と草をすり込まれ、面影すらなくなっていた。
腰には左右両方に、剣を帯びている。剣はどこにでもあるそれなりに良質の剣だ。意匠に凝った部分は見られず、愚直なまでに機能のみを優先させた形である。
鍔から柄尻間では、握った人間が血で滑らせない様、幾つかの突起と、ヤスリの様なざらつきが感じられた。
剣は、耐久性を重視し、切れ味は悪い。肉を砕けても骨を壊すことは出来ない刃だった。
エイリンはこの装備を気に入っている。
特別に凄い物は無いが、悪いものも無い。おかげで妙な癖も、装備に頼る気持ちも無くなる。
戦争で、殺し合いで何かに頼ってしまっては終わる。
エイリンはそう考えていた。
月の光も吸い込む様な黒い瞳で、数十ーメートル先で起きている殺し合いを睨む。互いの打ち出す魔法が光を生み、弓矢が空気を裂き、剣が悲鳴と怒号を作っていた。馬の嘶きがここまで聞こえてくる気がする。
エイリンはゆっくりと左右を見た。
左右には自分の兵が同じように寝そべっている。眠っているような馬鹿と、酒を飲んでいる様な命知らずがいない事を確認すると、大きく息を吐いた。
作戦決行まであと少し、こちらもそろそろ動かないと危険な状態だ。
自力の差が出ているのだろう、奇襲をかけたはずなのに、エイリン達の軍が押されている。
少しづつ後退しながらも、懸命に相手と戦っていた。
しかし、そこに最初の勢いは無く、必死になって敗北までの時間稼ぎをしているようにしか見えない。
それに対し相手は、組織だった攻撃は出来ていないが、数の暴力を存分に使い相手を押しつぶそうとしていた。敵軍の形は楕円に近い形になっている。
奇襲をしたエイリン達の軍をつぶすものと、本陣を守ろうとするもの、その二つが重なった結果だ。
敵軍の意図しない形での、意図しない殺し合い。だからこそ、勝ち目は無くても負ける道理は無かった。
エイリンは、四方から鳴らされる笛の音を合図にし立ち上がると、そのまま雄叫びを上げ、敵陣へと突っ込む。彼女の周囲も同じように突っ込んで行った。
敵が自陣を構えた地形は起伏の少ない平野であり、左右に森はあるがそれほど大きなものでない。
単純に考えれば、奇襲自体が難しい地形だった。
しかし、今回は運良く奇襲が成功した。ここはエイリン達の国、大原の国が事前に調べていたポイントの一つだからだ。
相手の国である極星の国は大き過ぎて、誰も国内全ての正確な地域情報を持ってはいない。
調べれば、地域情報など直ぐに分かっただろう。しかし、今回はその暇が無かった。
元々あったデータも、かなりの量が魔王の軍と戦争をした時期に紛失している。
そんなデータが無い、空白地点の一つである。
この時期、夜一時間ほど森から出てくるオオワタゲの種と風の関係で、霧に包まれたように白い種で包まれる。
地元でも噂程度にしかなっていない現象、極星の国が真偽を調べる時間は無かった。
だから、オオワタゲの影に隠れて突撃すると言う、大原の国の奇襲は成功した。
そして奇襲後も作戦通り、敵の陣形を縦長にし、敵を三方から取り囲む様に、攻め立てる最中だ。
エイリンは、剣を抜き突き刺す様に構える。
小さなエイリンの背中が、今は大きく感じられた。
敵軍と自分の距離を正確に測り、駆け抜けていく。
敵に近づくにつれ、切っ先から魔力が流れ出る。魔力は七色の光をそのままに、後ろへと吹き出た。
剣の周囲に円錐状の力場が生まれる。
まとめられていない閉じた傘のような形状だ。
見えない力で後ろから押される様に、剣が前へ、前へ、と暴れ狂う。エイリンはそれを強引に抑えながら、敵へと突っ込んだ。
「つづけぇぇぇぇぇぇぇっぇぇ」
「「「おおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ」」」
エイリンが叫び、彼女の兵がそれに続く。
敵の弓兵は誰を狙えばいいか分からず、思い思いの方角へと矢を打ってきた。
散発的にくる矢など怖くない、とばかりに姿勢を下げ、さらに足の回転を上げる。
敵軍が数メートル先に見えた時、エイリンは剣を突き出し、飛んだ。
残り数メートルの距離を、剣は加速しながら突っ込む。
未だ体勢を立て直していなかった敵兵が二人串刺しになる。
エイリンは剣から手を離し、腰に挿したもう一本の剣を手に取る。
その頃には、兵士が彼女の左右を守るように展開されていた。
兵士達は己の肉体と技を使い、兵士と戦う。
騎士が剣と魔法の両立者とするのなら、兵士は剣のエキスパートだ。両軍、かなりレベルの高い勝負へともつれ込む。
しかし、決着は大抵数瞬でつく。
この様な乱戦時、敵を転ばす事は、殺したと同じ効果を持っている。転べば踏まれ、蹴られ、戦える状態ではなくなる。
それに、決着がどうなろうが、数瞬で別の相手が群がってくるのだ。まともに殺し合う事は出来ない。
どちらもそんな無駄な労力は欲していなかった。
極星の国は、陣形を立て直す暇がない。部隊レベルで混乱が起こっているのだ。そう簡単に立て直せるものではない。
建て直せない間に、兵士が騎士の一撃で確実に死んで逝き、兵士同士の戦いは不等価に命を奪っていた。
局所的に見れば、大原の国が有利な展開だ。
「ガァードッ!」
エイリンは大きく後ろへと飛びのく。逃すかとばかりに、数人の敵兵士が群がって来た。
しかし、彼らがエイリンに近づくより早く、二人の兵士が行く手をふさぐ。
それを確認せずに、エイリンは詠唱に入った。魔法は使うまでに数秒の時間が必要だ。その時間を稼ぐために、魔法の間は兵士が周囲を守る。基本的な戦い方だ。
「はぁぁぁぁなれろぉぉぉぉぉ」
エイリンの叫びに、前方にいた兵士が逃げる様に左右へ散る。敵も味方も関係なかった。その場に居残れば死しかないのだから。
味方が眼前からいなくなると同時に、エイリンは虚空に向かい剣を突く。
七色の光が、円錐の形で発射される。
七色の円錐が、逃げ遅れたもしくは気づいていなかった人間、二、三人串刺しにした。そのまま敵軍の中に埋没する。
役目を終えた円錐は、霧の様に消える。
そして円錐に貫かれた傷口より、美しい紅の噴水が咲き乱れる。
戦果を確認する暇も無く、エイリンは剣に魔力を流した。
今の攻撃で、騎士が数人姿を現したのだ。
駆け足で騎士に向かう。
魔力は根元より発生し、螺旋の軌跡を描き切先へと収束した。
遠目では、先ほどと同じ円錐の形に見える。
しかし間近で見ると、円錐がドリルのように回転している事が分かった。
それが完成すると同時に、エイリンは相手に接近戦を挑む。
騎士の魔法を喰らえば、確実に死人が生まれる。
鎧以外際立った魔法への防御法が無い兵士にとって、騎士の魔法は致命的だ。
それをさせないためには接近戦しかなかった。
魔法を使う間もなく攻め立て殺す。
それだけが、兵士が騎士に勝つ方法だ。
そうこうしている間に、戦場の流れが変わってくる。
極星の国にあった混乱が少しづつ収まってきたのだ。それは司令部周辺から始まり、周囲にも派生して行く。
部隊の機能が戻り、極星の国からも魔法が放たれる様になって来た。
先ほどまで死人の比率が大原の国が一に対し、極星の国は三か四はあったのだが、今では一ないしは二程度まで落ちている。
自力の差が見えてきた。
それでも、大原の国は粘れるだけ粘った。延々と戦い続け疲労が見えながらも、どうにか戦線を維持し続ける。
エイリンは、螺旋を描く七色の光を使い、相手の魔法を打ち落とし続けた。
この乱戦では魔法使いの魔法は怖くない。
彼らの魔法は、範囲が広く、また対個人用の魔法が使える距離では足手まといでしかなからだ。
騎士の放つ魔法だけを注意深く防ぎ、その間に彼女の兵士が敵に肉薄する。
騎士は剣と魔法の両立者、と言えば聞こえがいいが、どちらも中途半端とも言えた。
兵士と一対一で接近戦での勝負。これで勝てるほどの剣の腕を持った騎士など存在しない。
「くそ、まだか」
血と汗と死肉が、唇の内側に触れ気持ち悪くなる。エイリンは無駄口を叩いた事を後悔する。
それを吐き出す間もなく敵の魔法が自分達を狙っていた。
魔法は次第に苛烈さを増してくる。残り少なくなってきた魔力と、感覚の無い両手、ぼろぼろの体で飛んできた球状の炎を打ち落とした。
螺旋上の光がばねのように伸びたのだ。更に魔力が少なくなる。そんなジリ貧が続いていた。
「はああぁぁぁ、進めぇ、堪えろぉぉ」
咽が枯れるまで叫び、腕が痛み出すまで剣を振るう。
少女の繊細で小さな身体、その身体を血で汚しながらも、決して弱音を吐こうとはしなかった。
エイリンの心は既に限界に来ている。
やめたい、逃げたい、そう心が叫んでいた。
それでも、エイリンは国を思い、民を思い、自分に命を預ける馬鹿共を思い、その場に踏みとどまる。
騎士になる、と宣言したその日から変わる事のない誓い。それだけが彼女を騎士として支えていた。
心がどれだけ痩せ細ろうと、身体がどれだけ死で汚されようと、騎士になった誓いだけを支えに立つ。
エイリンは双肩にかかる重圧全てを受け止め、泣く事も逃げ出す事もせず、戦場で剣を振るった。
月が東へ傾き始めた時、極星の国司令部は勝利を確信していた。
既に敵は疲弊しきっており、戦線の維持も難しくなってきている。あと少し待てば、敵軍の逃走が始まるだろう、とその場にいた誰もが考えていた。
「ふぅ」
総司令席に座っていた青年が、大きく息を吐く。汗で濡れた額を拭った。年は二十五、六だろうか、人懐っこい笑みを浮かべていた。
「お疲れですか?」
青年の横に立っている老人が、青年に尋ねる。
青年は、老人の方を向き大きく頷いた。
「ああ、初めて軍の指揮をとったけど、やっぱり今までとは違うよ」
「でじょうな。最初の指揮でうまくいかれたら、こちらの立場がありません」
青年の言葉に、老人が微笑んだ。
「わしなど、パニックを起こした挙句、ほかの仲間に泣きつきましたからなぁ」
はっはっはっ、と洒落にならない事を懐かしそうにのたまった。
あの頃は良かった、と言うように老人は瞼を閉じ、脳みそを破裂させた。
老人の頭蓋骨と、脳みそがミンチになって飛ぶ。
青年や他の武将達にそれが張り付いた。
それが何なのか、その場にいた誰かが認識すると同時に、老人だったものが血のシャワーを周囲に撒き散らす。
血のシャワーと同時に、雷がシャワーの様に注がれた。
雷は、司令部と言わず、極星の国の軍隊全てに浴びせられている。収まりかけていたはずの混乱が、司令部を中心として波のように広がった。
事情も分からず死ぬ者、逃げようとした所を後ろから切られる者、味方から殺される者、雷で破裂する者、どう殺されるかは分からないが、極星の国は確実に戦力を殺がれていく。
ここは戦場より少し離れた平原、見通しもよく、平時ならば相手も見逃さなかったであろう。そこは戦場より少し高い位置にあるため、戦場のほとんどを見ることが出来た。
そこに、黒いフードをかぶった男が立っている。男は紅の噴水が巻き起こる戦場を見て、満足気に笑う。
男が枯れ木の様に醜い左手を上げると、周囲にいた魔法使いが詠唱を始めた。
「悠久の説きへと舞い降りる天使」
「悠久の説きへと舞い降りる」
「悠久の説きへと舞い」
「悠久の説きへ」
「悠久の」
詠唱は男の周囲から始まり、輪唱している様に周囲へと伝わり始めた。そして男の周囲から、ゆっくりと声が聞こえなくなる。
中心から少しづつ詠唱が完了する。
全員の詠唱が終わった所で、男は左手を振り下ろす。
手を上げて下ろす。
たったそれだけの動作で、男は周囲に居る魔法使いの何倍も巨大な魔力を動かした。
漆黒の魔力があたりに吹き荒れる。発狂すほどの欲望が、男の脳内に吹き荒れた。
「神よ」
魔法使い達の魔力が天へと上る。
男の魔力が、その魔力に上乗せされた。
全ての魔力に漆黒に交わる。まだら模様を作りながら光と漆黒が、上り行く。
「神よ」
魔力は男を中心に空へと上り詰める。
男の魔力が、上り詰める魔力達全てを包み込み始めた。
まだらの模様が意味のあるものに変わる。漆黒が、光の周囲を格子の様に囲んだ。
「神よ」
魔力は互いに引き寄せられる様に近づいてゆく。
七色に光る魔力が少しづつ空へと向かった。
漆黒もゴムの様に伸びながら空へと上り詰める。光が漆黒を押し上げていた。
「神よ」
小さな魔力の塊が互いに重なり合い、一つの巨大な魔力となる。
男の魔力が格子となり、千切れようとする魔力たちをかき集めた。
漆黒の格子が重なり、線と点に変わる。
幾何学的でありながらどこか有機的な、血管のように張り巡らされた格子が生まれた。
「神よ」
男の体から血が吹き出る。
口の中から音が生まれた。
音は聞きなれないものにとって、人のものとは信じられないほど醜悪なものだ。
欲望が脳神経を断ち切ろうとする。
男は自分を強引に引き止めた。
男が血走った目を空へと向ける。その頃にはすでに、魔力は空へと解けてしまっていた。
周囲にいる魔法使いが倒れる。全員、玉のように汗が流れ、息が荒い。魔法使い達は意識を保つだけで精一杯となっている。
「い・か・ず・ち」
男はそれだけ呟くと、その場にうずくまる。
限界を超えたエネルギーを、限界を超えた方法で制御しようとした代償だ。
既に何度目になるか分からない痙攣と、嘔吐を繰り返す。
近くにいる世話係が、慣れた手つきで看護した。
光があふれる。色に光が渡り、現象が発生した。ありえないほどの轟音と、雷が男の視界に入る。
雷は確実に戦場の中心を焼く。そして、戦場には紅の噴水が生まれた。
男は、背中をさすっていた世話係を煩わしそうに払い落とす。世話係が悲鳴を上げるが、男には関係ない。
這い蹲りながらも、戦場で起きている血の狂宴を見た。
男は胃の中の物をぶちまけながら睨む。
自分の出したもので、体中が汚れようと無視して、血の競演を睨みつけた。
周囲にいた魔法使い達は、息を整えゆっくりと立ち上がる。
魔法使い達が全て立ち上がる頃には、男も震える足で大地を踏み、満足気に戦果を見下ろす。
そしてまた、左手が持ち上がった。




