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作戦なんてない

第200話 これからも、ただいまを


「肩、上がってる」


背後から言われて、俺は意識して力を抜いた。


抜いたつもりだった。


レンの指が肩に触れ、そのまま少し止まる。


「……これで?」

「俺としては」

「お前の自己申告、当てにならねえな」


椅子の背に掛けていた上着を取られた。代わりに、首の後ろへ温かいタオルが乗る。


思わず息が漏れた。


「そこに座ってろ。十分」

「まだ返してない連絡が」

「十分で世界は滅びねえよ」


手を伸ばしかけた端末を、机の向こうへ滑らされる。


諦めて背中を預けると、レンの手が首筋から肩へ動いた。


痛い、と思う少し手前で力が緩む。その加減が妙にうまくて、言い訳を考えていた頭まで静かになった。


仕事は、ようやく軌道に乗っていた。


最初は、会議が終わるたびに自分の返答を思い返した。余計なことを言わなかったか。相手の意図を読み違えていないか。帰宅してから記録を開き直し、翌朝も同じ箇所を確かめた。


最近は、次の仕事を名指しで頼まれるようになった。


相談できる相手も増えた。わからないことを、その場でわからないと言えるようにもなった。


先の予定が埋まっていく。


収入の見通しが立つ。


それが嬉しくて、つい引き受けすぎた。


「顔は前よりましになったけどな」


レンが肩を押しながら言った。


「身体が追いついてねえ」

「仕事、面白くなってきたから」

「面白いと休まなくなるの、悪い癖だぞ」


返す言葉がなかった。


肩甲骨のあたりに指が入って、俺は小さく呻いた。


「そこ、すごい」

「感想はいいから息しろ」


素直に息を吐く。


机の向こうで端末が震えた。


画面に律の名前が見えた。


『今日は何時くらい?』


俺が目で追ったのに気づいたのか、レンが端末を戻してくれる。


「それは返せ」


『七時には帰れる。夕飯、一緒に食べよう』


送ると、すぐに返事が来た。


『わかった。待ってる』


その短い文を、少し長く見てしまった。


「律?」


頷いた。


レンの手が、一度だけ止まった。


「何かあるのか」


俺は膝の上に置いた鞄へ目を落とした。


中には、昨日受け取った小さな箱が入っている。


「……今日、言おうと思ってる」


レンは聞き返さなかった。


肩に置かれた手が、ゆっくり動き出す。


「じゃあ、今日はもう働くな」

「まだ何を言うか説明してないけど」

「その顔で仕事の相談だったら、逆に心配するわ」


笑った拍子に、肩から力が抜けた。


「生活も、やっていけそうなんだ」


家賃。食費。光熱費。


二人で話した数字を、何度も確かめた。


少しずつ貯める分もある。休みを取る余地も、急な出費に備える余地も、前よりできた。


派手な暮らしではない。


けれど、律と暮らす毎日を考えたとき、不安ばかりが先に立つことはなくなった。


「だから、ちゃんと言えるかなって」


レンは黙って聞いていた。


それから首の後ろのタオルを外した。


「言えばいいだろ」

「簡単に言うな」

「難しい言い方にすんなって意味だよ」


畳まれたタオルが、机の端に置かれる。


「結婚したいんだろ」


俺は頷いた。


声にするより先に、喉が詰まった。


レンはそれを見て、少し笑った。


「よし。肩は下がった」

「ありがとう」

「あとは自分で行ってこい」


*


玄関を開けると、夕飯の匂いがした。


「おかえり」


台所から律が顔を出す。


袖をまくって、片手に菜箸を持っていた。


「ただいま」

「今日はちゃんと七時」

「ちゃんとって」

「最近、七時が八時半になったことがあったから」


事実だった。


靴を揃え、手を洗う。


食器を出そうとすると、律が俺の顔を覗き込んだ。


「少し楽そう」

「レンに肩をほぐしてもらった」

「ああ。じゃあ、相当ひどかったんだ」

「俺を見るなり座らされた」

「正しい判断ね」


二人で食卓を整えた。


律が鍋を持ってくる間に、俺はコップへ水を注いだ。


こういうことなら、もう迷わない。


箸の場所も、律が使う器も知っている。


けれど鞄の中の箱をいつ出すかは、夕飯を食べ終わっても決められなかった。


「悠」


食器を流しへ運んでいると、律に呼ばれた。


「今日、何かあった?」

「どうして」

「さっきから、話し始めそうな顔をしてる」


皿を置く。


水道の音が止まった。


律がこちらを向いていた。


仕事で、相手の反応を見ながら話すことには慣れてきた。


それなのに、いちばん大事な相手を前にすると、用意していた順番が全部わからなくなる。


「話したいことがある」


律は手を拭いた。


「うん」


二人で食卓へ戻った。


俺は鞄から小さな箱を取り出し、握ったまま座った。


律の目がそこへ落ちる。


それから、ゆっくり俺の顔へ戻った。


「仕事、先の見通しが立ってきたんだ」


律が頷く。


「うん。聞いてる」

「来月だけじゃなくて、その先も。無理しすぎなければ、ちゃんと続けていけると思う」

「無理しすぎなければ、ね」

「そこは直す」


少しだけ笑ってくれた。


その笑顔を見たら、用意していた説明が急に長すぎる気がした。


収入の話も、住む場所の話も、大事だった。


でも、律にいちばん伝えたいことは、もっと前から決まっていた。


「律と暮らしたい」


言うと、律の唇がわずかに開いた。


「仕事が終わったら、律のいる家に帰りたい。律が遅い日は、俺が先に帰って待ってたい」


握りしめた箱の角が、掌に当たっていた。


「今日あったことを話して、一緒に飯を食べて。休みの日には出かけたり、何もしなかったりして」


律はじっと聞いていた。


俺も、目を逸らさなかった。


「前に律が熱を出したとき、明日も何か持ってくるって言っただろ」

「……うん」

「ああいうとき、帰る時間を気にしなくていいようになりたい。同じ家にいて、朝になったら具合を聞いて、粥が残ってたら温めたい」


律が、小さく息を吸った。


「俺が倒れたら、たぶん律に世話になるけど」

「たぶんじゃないと思う」

「そうだな」


二人で少し笑った。


笑えたら、やっと箱を開けられた。


指輪を見た律の目に、涙が浮かんだ。


その瞬間、俺まで声が出なくなりそうだった。


でも、ここだけは曖昧にしたくなかった。


「律。俺と結婚してください」


静かな部屋で、自分の声を聞いた。


「好きです。これからも、ずっと一緒にいたい」


律は俯いた。


片手で口元を押さえて、何度か頷く。


俺は待った。


やがて律が顔を上げた。


「……はい」


泣きながら、笑っていた。


「私も、悠と結婚したいです」


息が抜けた。


ずっと胸の中に入っていたものが、一度にほどけた気がした。


「よかった」


それしか出てこなかった。


律が泣きながら吹き出す。


「もっと何かないの」

「考えてたけど、今、全部忘れた」

「仕事ではあんなに喋るのに」

「律のほうが難しい」

「難しくしなくていいよ」


律が左手を差し出した。


俺は指輪を取り出した。


指先が少し震えて、一度持ち直す。


律は急かさず待ってくれた。


薬指に収まった指輪を、二人で見た。


「……似合う」

「うん」


律は手を傾けた。


それから、その手を俺の手に重ねた。


「悠」

「うん」

「仕事がうまくいかない日も、帰ってきてね」


俺は顔を上げた。


「うまくいってるから結婚する、だけにはしないでほしい」


律の親指が、俺の手の甲を撫でた。


「疲れた日も、失敗した日も、一緒に暮らすんだから」

「……うん」

「私もそうする。ちゃんと頼る」


頷いて、その手を握った。


「一緒に考えよう」

「うん」


椅子を引いて立つと、律も立った。


抱きしめた身体は温かかった。


背中に回された手の、指輪の感触がした。


「よろしくお願いします」


耳元で律が言った。


「こちらこそ」


少し離れると、律が俺の顔を見て笑った。


「泣いてる」

「律も」

「私は先に泣いてたから」


それがどういう理屈なのかは、聞かなかった。


ただ、もう一度抱きしめた。


*


報告の文章は、二人で考えた。


考えた結果、とても短くなった。


『律と結婚することになりました。今日、プロポーズして、受けてもらいました』


送信する前に、隣の律を見る。


「いい?」

「うん」


押した。


数秒後、端末が震えた。


晴からだった。


『おめでとう!!』


続けて、また震える。


『電話していい?』

『今はやめたほうがいい?』

『明日でもいいから声聞かせて』


律が笑いながら打ち込んだ。


『ありがとう。あとで少しだけ話そう』


玄からは、短い祝福が届いた。


朔からは、いつ皆で集まれるかと聞かれた。


葉と岳と杏の言葉が続き、画面がみるみる埋まっていく。


カイからは、


『直接聞く分も残しておけ』


と来た。


レンの返事は、少し遅かった。


『言えたか』

『言えた。ありがとう』

『おめでとう。明日はちゃんと休め』


俺は笑って、端末を律にも見せた。


「そこまで面倒見てもらったの?」

「今日は、かなり」


律がレンにお礼を送っている間に、俺は両親へ電話をかけた。


母は、最初の一言を聞いて黙った。


珍しく、何も返ってこなかった。


「母さん?」


鼻をすする音がした。


その後ろで父が、何度も「よかったな」と言っていた。


律に電話を代わると、母はようやくいつもの調子を取り戻した。


「式は?」


律が俺を見る。


俺は笑って首を振った。


「これから、二人で決めるよ」


*


俺たちの報告から三日後、同じ連絡網に新しい報告が届いた。


『実は、こちらも結婚の話を進めています』


以前から付き合っていた仲間だった。


祝福が集まる中、その人はこう続けた。


『悠たちの話をしてたら、俺たちはどうする、ってなって。昨日、ちゃんと話しました』


律と並んで画面を見た。


「……きっかけになったみたい」

「そうだね」


翌週、もう一組から婚約の報告が来た。


その次は、両家への挨拶の日取りが決まったという知らせだった。


迷っていた人が、相手に話を切り出す。


待っていた人が、自分から将来の希望を伝える。


以前にもあった結婚の波が、また仲間たちの間に広がり始めた。


晴が連絡網に書き込んだ。


『お祝いの日程、重ならないように整理しよう』


その下に、朔が返した。


『またマリッジラッシュか』


『今回は悠が火元だな』


岳の言葉に、俺は首を振った。


「俺、何も勧めてないんだけど」

「うん」


律は笑っていた。


「でも、嬉しかったんだと思う」

「何が?」

「一緒に帰ってきた人が、こっちで幸せになるのを見るの」


俺は画面へ目を戻した。


祝福の言葉の間に、式の日程や、住む場所や、仕事の休みの話が混じっていた。


皆、忙しそうだった。


それでも、ちゃんと先の予定を立てていた。


隣から律が肩を寄せる。


俺はその手を取った。


指輪は、もうそこにあるのが自然に見えた。


「俺たちも決めないとな」

「まず、次のお休み」

「両親に挨拶?」

「それも。あと、二人で出かけたい」


俺は端末の予定表を開いた。


空いている日を探して、その一日を押さえる。


仕事の連絡が入る前に、二人の予定を書き込んだ。


律がそれを見て、満足そうに頷いた。


「よし」


夕飯の支度をしようと立ち上がった律について、俺も台所へ行く。


「今日は何する?」

「野菜、切ってくれる?」

「わかった」


まな板を出す。


律が隣で鍋を用意する。


食卓には、まだ二人分のコップが残っていた。


これからも、ここへ帰ってくる。


そう思いながら袖をまくると、律が俺を呼んだ。


「悠」


振り向いたところへ、短いキスが触れた。


驚いた俺を見て、律が笑った。


「これから、よろしくね」


俺も笑って、頷いた。


「うん。よろしく」

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