うえい
第百八話 帰ってくる声
南の戦争が終わったのは、雨の朝だった。
灰橋同盟が、奪った土地のうち二つを返す。
残る一つは、元の持ち主が別の土地への交換を希望したため、取得に必要な道を灰橋側が用意する。
こちらの輸送路へは攻撃しない。
晴の同盟も、相手の城へ向けた進軍を止める。
取り決めを読み終え、俺は末尾に日付を入れた。
向こうから届いた確認の書簡には、謝罪の言葉がなかった。
こちらの事情を理解したとも、やりすぎたとも書かれていない。
ただ、条件を履行するとあった。
「これで、いいのかな」
晴が尋ねた。
納得していないというより、確かめたい顔だった。
「土地の持ち主は、この条件で止めたいと言っている」
「うん」
「道も使える。これ以上続けて取るものを考えると、俺は止めた方がいいと思う」
晴はもう一度書類を読んだ。
宗吾の前には、今も部隊の配置図が開かれている。
命令を出せば、戦争は続けられる。
勝ち切ってから終わることも、たぶんできた。
だからこそ、晴の返事を待った。
「分かった。止めよう」
宗吾が筆を取った。
帰還命令が送られていく。
俺は、そこでようやく背もたれに身体を預けた。
肩が痛かった。
何日も同じ姿勢で書簡を書いていたことに、今さら気づいた。
*
昼前には、倉庫へ向かう荷車が動き始めた。
恭介が道の状態を確認し、朱音が護衛の人数を減らしてもよい区間を示した。
二人はまだ、必要なことから話していた。
以前の戦争に触れれば、朱音の声が硬くなることもある。
それでも今日の仕事は進んだ。
紗良は、別の組で物資の受け取りに戻っていた。
正臣からの直接の連絡は、止まっている。
晴はその報告を聞き、何か言いかけてから、ただ頷いた。
もう大丈夫だと決めてしまわないようにしているのだと思った。
少しずつ片づいている。
そう言っていい日だった。
だが、葉が開いた世界地図から、交戦の印が消えることはなかった。
「南東、また増えた」
彼女が言った。
大連合の解散時に分けた砦を巡って、争いが再開していた。
北東では、停戦のあとに戻らなかった部隊が別の同盟を攻撃している。
中央へ近い地域では、装備を探すための進路が重なり、昨日まで協力していた者同士が衝突したという。
すべてが意識統制の解除だけで説明できるわけではない。
資源が足りない。
相手に先を越されたくない。
前から嫌っていた。
仲間が攻撃された。
理由を読むと、見覚えのあるものも多かった。
ただ、以前なら一晩置いたかもしれない返事が、その日のうちに出撃へ変わっていた。
「全部に返事はできないね」
晴が言った。
助けを求める書簡だけで、机の一角が埋まっていた。
千景が頷いた。
「できることを伝える返事と、引き受ける返事は分けましょう」
晴はつらそうだったが、反対しなかった。
俺は自分の担当分を引き寄せた。
その中に、律の書簡があった。
指が、そこで止まった。
*
律の同盟の近くでも、小さな戦闘が続いていた。
直接攻められてはいない。
ただ、二つ隣の同盟が割れ、どちらが道の許可を出せるのか分からなくなっている。
その確認を手伝ってほしいという用件だった。
文面の最後に、こうあった。
『南はどうなった? まだ忙しいなら、こちらは待てる』
俺は先に、その返事を書いた。
南は止まった。
今日なら話せる。
送ってから、ほかの書簡より先に返したことに気づいた。
理由はある。
道の問題は広がる前に整理した方がいい。
律は余計な情報を混ぜずに持ってくる。短い時間で話せる相手だ。
そう考えたところで、葉が俺を見ているのに気づいた。
「何だ」
「少し休んだら」
「今から律と話す」
「うん。じゃあ、お茶を入れてから」
それ以上は何も言わなかった。
*
面会の表示に現れた律は、髪を後ろでまとめていた。
何本かほどけて、頬にかかっている。
机の上には地図と、小さな皿があった。
「食事中か?」
「食べろって言われたから」
「麻緒に?」
「うん。話しながらでもいいからって」
律は少し困った顔で笑った。
俺も笑った。
その顔を見た途端、南の戦争が終わったことを、さっきよりはっきり感じた。
「そっちは、眠れてる?」
尋ねられ、返事が遅れた。
「昨日は少し」
「それ、私が言ったら怒るでしょ」
「怒りはしない」
「じゃあ、長く説明する」
「……するな」
律が笑った。
その声を、もう少し聞いていたかった。
用件は短く済んだ。
道の持ち主に確認すべきことを揃え、所属が変わっても以前の通行許可が続くのか、当人に聞くことにした。
軍を出す約束はしない。
返事が来るまでの輸送は、少し遠いが安全な道を使う。
話が片づくと、律は地図を畳んだ。
「助かった」
「このくらいなら、いつでも」
言ってから、少し言いすぎたと思った。
律は皿へ手を伸ばした。
焼いた芋らしかった。
一口食べて、まだ熱かったのか、口元を押さえる。
俺は地図ではなく、その手を見ていた。
「何?」
「いや」
「そっちも食べてないんじゃない?」
「あとで食べる」
「今、取ってきてもらえばいいのに」
何でもない会話だった。
前にも、似たことを話している。
なのに、今日は相手の声が終わる前から、次に何を言おうか考えていた。
仕事の話を増やせば、もう少しつながっていられる。
そう思ってしまい、口を閉じた。
律は皿を置いた。
「じゃあ、また返事が来たら送るね」
「ああ」
表示が閉じる。
机の向こうが空になった。
俺はしばらく、そこを見ていた。
*
自分の城へ戻ったあと、周に夕食を頼んだ。
待っている間に、律から追加の書簡が届いた。
通行の件の補足。
最後に一行。
『ちゃんと食べてね』
俺はその一行を、二度読んだ。
「返事、そんなに難しいのか?」
カイが椅子の向こうから覗いた。
反射的に紙を伏せた。
カイは俺の手を見て、それから顔を見た。
「何だよ」
「何でもない」
「じゃあ、そんな勢いで隠すな」
彼は卓上の果物を一つ取り、窓辺へ行った。
俺は伏せた紙へ手を置いたまま、動けなかった。
律が無事なら安心する。
疲れていたら、休んでほしいと思う。
それはほかの仲間にも同じだった。
けれど、用件が終わっても話を続けたかった。
ほかの誰かと笑っているところを想像すると、その場に自分もいたいと思った。
声だけでなく、隣で顔を見たかった。
そこまで考えて、ようやく認めた。
俺は律が好きなのだ。
いつからかは分からない。
解除の前からあったものが強くなったのか、今まで別の名前で考えていただけなのか。
今すぐ答えは出なかった。
ただ、さっきの顔を思い出すと、また会いたいと思った。
俺は紙を表へ返した。
夕食は今からだと書く。
それから、もう一文足しかけて、筆を止めた。
次に会いたい。
それだけの言葉が、戦争を止める書簡より書きにくかった。




