▼Season 3 第57章:記憶の奥へ
目の前から、すべてが消えていく。
社務所の声も、机の上の日記も、隣にいる美琴の姿も。
代わりに、知らないはずの景色が浮かび上がった。
湿った土の匂い。
肌にまとわりつく冷たい空気。
遠くから響く、水滴の音。
――ポタッ。
静寂の中に、小さな音が落ちた。
そして、俺は坑道の中に立っていた。
手には、使い込まれた安全灯が握られている。
その明かりが、目の前の岩肌をぼんやりと照らしていた。
頭上には、丸太を組んだ支保工が続いている。
木材の表面は湿り、ところどころ黒ずんでいた。
足元には泥がたまり、歩くたびに靴が沈み込む。
俺は周囲を見渡そうとした。
だが、身体が思うように動かない。
いや、違う。
身体は動いている。
俺の意思とは関係なく、足が前へ進んでいた。
「おい、遅れるぞ!」
すぐ前を歩いていた男が振り返った。
薄暗い坑道の中、その顔は安全灯の明かりに照らされていた。
見覚えのない男だった。
「……ああ、今行く」
俺の口から、知らない声が出た。
少し低く、今よりも落ち着いた声。
自分で話しているはずなのに、言葉の選び方も、声の調子も、俺のものではなかった。
そこで、ようやく気づいた。
ここにいるのは、ひいじいちゃんだ。
俺は、ひいじいちゃん自身になっていた。
目の前の男も、隣を歩く男も、俺の知らない人物だった。
けれど、ひいじいちゃんの記憶の中では、彼らは一緒に坑道へ入る同僚だった。
俺は彼らとともに、暗い坑道を進んでいた。
「今日は、えらい湿っとるな」
隣を歩く男が、壁に目を向けながら言った。
「ああ。こげん日は、足元に気ぃつけんといかん」
ひいじいちゃんの口から、自然と言葉が出る。
その声を聞いていると、俺自身も、ずっとこの坑道で働いてきたような気がしてきた。
安全灯の光が、歩くたびに左右へ揺れる。
そのたび、壁の凹凸や、天井から垂れ下がる細い根のようなものが浮かび上がっては消えていった。
どこかで水が流れているのか、湿った空気の中に、かすかな水音が混じっている。
「もう少しで持ち場やろ?」
「ああ。そげん遠くはなか」
同僚たちは、慣れた様子で歩き続けていた。
俺も、その後ろを進んでいく。
そのときだった。
ふと、頬に何かが触れた。
「……ん?」
冷たい空気だった。
一瞬、坑道の奥から吹いてきた風かと思った。
だが、風はすぐには止まらなかった。
頬をかすめ、耳元を通り過ぎていく。
俺は足を緩めた。
坑道の中で、風を感じること自体は不思議ではない。
通気のために空気は流れている。
けれど、この風は少し違っていた。
ほかの坑道を進んでいたときとは、明らかに空気の流れが異なる。
俺は、安全灯を持つ手を少し上げた。
光の先に、坑道の脇へ続く空間が見えた。
「……なあ」
前を歩く同僚に声をかける。
「なんね?」
男が振り返った。
「この先に、分かれ道なんかあったか?」
「分かれ道?」
男は俺の横まで戻ってきた。
俺は安全灯を傾け、脇の空間を照らした。
そこには、人ひとりが通れるほどの道が続いていた。
入口の周囲には、丸太の支保工がない。
岩肌はむき出しで、地面も荒れている。
普段、俺たちが使っている坑道とは様子が違っていた。
「……おかしかな」
同僚が眉をひそめた。
「この先は、行き止まりのはずやろ?」
「そう聞いとるが」
俺は、もう一度、脇道へ安全灯を向けた。
その奥は暗く、どこまで続いているのか分からない。
だが、頬にはまだ風が当たっていた。
「ばってん……こっちから風が流れてきよるぞ」
俺は、脇道の入口に近づいた。
風は、間違いなく奥から吹いてきている。
同僚も手をかざし、しばらく様子を確かめた。
「どれ……?」
男は目を細め、顔を少し傾けた。
「……うーん」
やがて、首を横に振った。
「気のせいやなかか? 坑道の空気が動いただけやろ」
「そうか……?」
「ほら、行くぞ。あんまり遅れると怒られるばい」
男はそう言うと、再び仲間たちの後を追い始めた。
「おう、先に行っとるぞ!」
少し離れたところから、別の同僚の声が聞こえた。
俺は返事をすることも忘れ、脇道を見つめていた。
……本当に、気のせいなのか。
風は、まだ吹いている。
かすかだが、確かに頬を撫でていた。
俺は、仲間たちの背中に目を向けた。
彼らは、いつものように坑道を進んでいる。
ここで立ち止まっていても仕方がない。
そう思いながらも、なぜか脇道のことが頭から離れなかった。
奥から吹いてくる風。
支保工のない岩肌。
そして、記憶にない分かれ道。
俺はしばらく迷った。
やがて、仲間たちの姿が暗闇の向こうへ遠ざかっていく。
「……ちょっとだけ、見てみるか」
誰に言うでもなく、俺はつぶやいた。
そして、同僚たちとは別に、その分かれ道へ足を踏み入れた。
一歩。
足元の土が、ぐにゃりと沈んだ。
二歩。
安全灯の明かりが、荒れた岩肌を照らす。
三歩目を踏み出した、その瞬間だった。
――何かがおかしい。
はっきりとした理由は分からない。
だが、身体が異変を感じ取っていた。
俺は立ち止まり、後ろを振り返った。
戻ろう。
そう思って、来た道へ足を向けた。
だが――。
「……は?」
そこに、さっきまで歩いていた坑道はなかった。
いや、坑道そのものは続いている。
けれど、見覚えのある丸太の支保工も、同僚たちの姿も、どこにもなかった。
俺は慌てて数歩戻った。
「おい……?」
声をかける。
返事はない。
「おーい!」
少し声を張り上げてみた。
その声は、暗闇の奥へ吸い込まれていった。
安全灯を高く掲げ、周囲を照らす。
どこまでも続く、暗い空洞。
さっきまで通っていたはずの坑道へ、どうしても戻れない。
「……なんでや」
俺は、来た道をもう一度確かめた。
壁に触れる。
湿った岩肌が、指先に冷たくまとわりついた。
足元を見る。
自分が歩いてきたはずの地面が、暗闇の中に続いている。
間違いなく、ここから来たはずだった。
それなのに、戻る道だけが見つからない。
俺は、もう一度、脇道の入口へ目を向けた。
そこには、岩肌が続いているだけだった。
何かが動いた様子もない。
ただ、静かだった。
あまりにも静かすぎた。
さっきまで聞こえていた同僚たちの足音も、話し声も、まったく聞こえない。
水滴の音さえ、どこかへ消えてしまっていた。
「……おかしかろ、こりゃ」
俺は安全灯を握り直した。
もう一度、来た道を確かめた。
それでも、何も変わらなかった。
やがて、俺は奥へ目を向けた。
前へ進むしかない。
そう判断した。
歩き始める。
そこは、ほかの坑道とはまるで違っていた。
人が掘り進めた坑道というより、自然にできた洞穴のようだった。
天井も壁も、むき出しの岩肌が続いている。
ところどころ、岩の表面が水に濡れ、光を受けて鈍く輝いていた。
足元には小さな石が転がっている。
踏むたびに、かすかな音が響いた。
俺は足元に注意しながら進んだ。
一歩進むごとに、空気が冷たくなっていく。
息を吐くと、口元に冷気がまとわりつくようだった。
それでも、奥から吹いてくる風は止まらなかった。
まるで、何かが俺を呼んでいるかのように。
俺は、その考えを振り払った。
風が吹いているからといって、何かがあるとは限らない。
そう自分に言い聞かせながら、歩を進めた。
どれほど歩いただろう。
時間の感覚は、とっくになくなっていた。
ときおり足を止めては、後ろを振り返る。
だが、来た道は暗闇の中に沈み、どこまで続いているのかも分からない。
それでも、戻ることはできなかった。
やがて、風の流れが少し強くなった。
俺は顔を上げた。
その先に何があるのか、確かめようとした。
そのときだった。
――ふっ。
手元の明かりが消えた。
「……っ!」
俺は反射的に安全灯を持ち上げた。
火が消えている。
ついさっきまで、確かに灯っていたはずだった。
揺すってみる。
角度を変えてみる。
だが、明かりは戻らない。
「しまった……!」
頭の中が真っ白になった。
火をともすための火種を、持ってきていない。
火を起こす道具もない。
今ここで明かりを失えば、もう自分では火をともす術がなかった。
「くそっ……!」
手が震えた。
何度も安全灯を確かめる指先が、思うように動かない。
息が、自分でも分かるほど浅く、速くなっていた。
途方に暮れた。
俺は、その場に立ち尽くした。
周囲を見渡す。
しかし、そこには吸い込まれそうな暗闇が広がっているだけだった。
手を伸ばしても、自分の指さえ見えない。
壁がどちらにあるのかも分からない。
自分がどこを向いているのか。
どちらから来たのか。
前と後ろの区別さえ、少しずつ曖昧になっていく。
やがて、上下の感覚まで怪しくなった。
立っているのか。
倒れかけているのか。
自分が本当にここにいるのかさえ、怪しく思えてくる。
「……落ち着け」
俺は、自分に言い聞かせた。
「落ち着くんや……」
声が、闇に溶けて消えた。
返事はない。
風の音も、水滴の音も、いつの間にか聞こえなくなっていた。
何もない。
何も見えない。
何も聞こえない。
このまま、ここで終わるのか。
そう思った瞬間、胸の奥が締めつけられた。
心臓が、耳の奥で鳴っているように感じた。
頭の中で、嫌な考えばかりが膨らんでいく。
このまま、誰にも見つけてもらえず、暗闇の中で終わるのだろうか。
仲間たちは、俺がいなくなったことに気づくだろうか。
それとも、俺がここにいることさえ、誰にも知られないままなのだろうか。
気が狂いそうだった。
それでも、俺は必死にこらえた。
ここで心まで折れたら、本当に戻れなくなる。
そう思った。
どれほどの時間、そうしていただろう。
不意に、遠くに何かが見えた。
「……ん?」
目の前の暗闇に、小さな光がともっていた。
淡く、白い光。
最初は、目の錯覚かと思った。
俺は目をこすった。
だが、光は消えなかった。
むしろ、少しずつ大きくなっている。
近づいてきているのだ。
「……誰か、おるんか?」
声をかけた。
返事はない。
光は、こちらへ近づいてくる。
その揺らめきに、俺は目を奪われた。
まるで、生き物のようだった。
淡い炎が、脈打つように明るさを変えている。
強くなり、弱くなり。
そのたびに、周囲の闇がわずかに浮かび上がる。
俺は動けなかった。
逃げるべきなのか。
それとも、助けを求めるべきなのか。
判断できない。
ただ、その光から目を離せなかった。
光は、なおも近づいてくる。
そして――。
暗闇の向こうで、何かが動いた気配がした。
俺は息を呑んだ。
白い光が、闇を切り裂くように照らし始める。
その先に何がいるのか。
俺は、まだ知らなかった。
(第57章、終わり)




