第25章:地下への入口
「そこから先を調べるために、二人はある場所へ向かった」
古谷さんは、机の上にもう一枚の資料を置いた。
そこには、大牟田周辺の古い地図が広げられていた。
ところどころ赤い線が引かれ、いくつかの場所には小さな印が付けられている。
「この歌が示している場所が、本当に存在するのか」
古谷さんは、地図の上を指でなぞった。
「そして――」
一度、言葉を切る。
「その先に何があるのか」
社務所の空気が静まり返った。
美琴は地図を見つめている。
俺だけが、食い入るように赤い線を追っていた。
俺は尋ねた。
「……地下への入口を、見つけたとですか?」
古谷さんは、ゆっくりとうなずいた。
「それが、美琴さんの……お父さんとお母さんが最後に残した記録なんだ」
「入口……」
美琴の声が小さくなる。
「地下への入口はいくつもあるらしい」
「いくつも?」
美琴が聞き返す。
「そう」
古谷さんは、別の資料を取り出した。
「神隠しって聞いたことがあるかな?」
「神隠し?」
「突然、人がいなくなる」
古谷さんは資料をめくりながら続ける。
「山へ入ったまま戻ってこない。道を歩いていたら、いつの間にか知らない場所にいた。そして、何年も経ってから突然戻ってくる」
「そんな話が、大牟田にもあるんですか?」
美琴が尋ねる。
「大牟田だけじゃない」
古谷さんは首を横に振った。
「世界中に似たような話が残っている」
「何もない場所に、突然道が現れる」
「山の中で、人の声を聞く」
「地面の下から、何かを叩くような音がする」
「地下から、動物の鳴き声が聞こえる」
俺と美琴は顔を見合わせた。
「……コン、コンって音」
美琴が小さく呟いた。
俺も頷く。
「俺も聞いた」
「それに……」
「何?」
「甘木山で見た、あの人影」
美琴の顔から血の気が引いた。
「……あれも?」
古谷さんは二人をじっと見つめた。
「進さんたちは、そうした怪異や言い伝えまで調べていた」
「ただ……」
古谷さんは、資料を閉じた。
「僕は、それらを全部ただの怪談として片付けるのは違うんじゃないかと思っている」
俺は顔を上げた。
「違う?」
「世界中の神話や伝承を調べていると、不思議なくらい似た話が出てくるんだ」
古谷さんは、机の上に資料を並べていく。
「蛇」
「地下世界」
「巨大な木」
「禁じられた場所」
「そこへ導く道」
美琴が資料の一枚を覗き込んだ。
そこには、巨大な樹木と、その根元に絡みつく蛇のようなものが描かれている。
「世界樹……?」
「そう」
古谷さんは頷いた。
「世界各地には、世界樹や生命の木と呼ばれる巨大な木の伝承がある」
「そして、その根元や地下に、別の世界があると考えられている話も少なくない」
俺は図を見つめる。
「それが……大牟田の伝承と繋がっとる?」
「僕は、可能性があると思っている」
古谷さんは少し間を置いた。
「もしかすると、昔の人々が語った『巨大な木』は、最初から別々の木だったとは限らない」
「……一本の木?」
美琴が呟く。
「そう」
古谷さんは、巨大な樹の絵を指差した。
「もちろん、現実の世界に一本の木があって、それが世界中に繋がっているという話じゃない」
「じゃあ……?」
「別の世界に存在する一本の木が、場所によってはこちら側の世界と重なって見えていたとしたら?」
美琴の表情が変わった。
甘木山で見た、あの光景。
暗闇の中に浮かび上がった巨大な木。
その周囲を流れていた、青白い光。
「……あの木」
美琴が呟く。
「どうした?」
俺は振り向いた。
「あの時、甘木山で見た木……」
古谷さんが身を乗り出した。
「巨大な木を見たのかい?」
「うん」
美琴はゆっくり頷いた。
「ただの木じゃなかった」
「青白い光に包まれてた」
古谷さんの表情が変わった。
俺も、その言葉を聞いた瞬間に思い出していた。
図書館で見た、あの青白い炎。
その奥に浮かんでいた巨大な蛇。
そして――巨大な樹。
「それ……」
俺は口を開きかけた。
だが、美琴が先に言った。
「じゃあ、あの木は……」
美琴は、資料の絵を見つめる。
「この世界にある木じゃないの?」
古谷さんは、すぐには答えなかった。
やがて、静かに口を開く。
「その可能性はある」
「異世界……」
美琴の口から、その言葉がこぼれた。
社務所の中に、重い沈黙が落ちる。
「昔の人たちが『地下世界』『神の国』『死者の国』『黄泉の国』と呼んできた場所が、実は同じ場所だったとしたら……」
古谷さんは、地図へ目を落とした。
「入口が世界中に存在していても、おかしくない」
「そして、そこへ繋がるものとして、巨大な木があるのかもしれない」
俺は黙って資料を見つめていた。
その時、美琴が小さな声で尋ねた。
「……お父さんたちは、そこへ行ったと?」
古谷さんは答えなかった。
その沈黙が、答えのように感じられた。
「だから……」
美琴の手が震える。
「だから、お父さんとお母さんは……?」
「まだ分からない」
古谷さんは静かに答えた。
「ただ、進さんたちは、その入口についてかなり詳しく調べていた」
古谷さんは、さらに一枚の資料を取り出した。
「特定の条件が揃った時にだけ、入口が現れる」
「条件?」
俺は身を乗り出す。
古谷さんは、しばらく資料を見つめていた。
そして、低い声で言った。
「二月の新月の夜」
その瞬間。
美琴が口元を押さえた。
「……その日って」
おばあさんが、重い口を開く。
「有明海で舞ば奉納する日」
そこで言葉を切った。
「そして……二人がおらんごつなった日たい」
社務所に、長い沈黙が落ちた。
美琴は俯いたまま動かない。
やがて、震える声で尋ねた。
「……どこなんですか?」
古谷さんは、地図を広げた。
大牟田周辺の古い地図。
その一点を指で示す。
「三池に伝わる話なんだけどね」
「三つの池のうち、一つだけ、どんなに日照りが続いても枯れない池がある」
「昔から、その池は有明海と繋がっていると言われていた」
俺は地図を覗き込む。
「有明海と……?」
「そう」
古谷さんは頷いた。
「そして――」
指が、地図の一点で止まった。
「二月の新月の夜、その池に入口が現れる」
「……入口」
俺は呟いていた。
美琴は、地図を見つめたまま動かない。
「お父さんと、お母さんは……」
声が震える。
「その入口を探していたんですか?」
「その可能性が高い」
古谷さんは静かに答えた。
「ただ、入口が本当に存在するのか。それすら、まだ分からない」
「でも……」
美琴は顔を上げた。
「戻ってきた人もいるんですよね?」
古谷さんは少し黙った。
「いる」
「数日後に戻ってきた人もいる」
「数年後に戻ってきた人もいる」
「じゃあ――」
美琴の目に、わずかな光が戻る。
「お父さんたちも……」
「ただ」
古谷さんが言葉を挟んだ。
「戻ってきた人たちには、一つ共通点がある」
「共通点?」
「行方不明になっていた間の記憶がないんだ」
美琴の表情が固まった。
「記憶が……?」
「本当に何も覚えていないのか」
古谷さんは視線を落とす。
「それとも……」
「何かを見て、話せなくなったのか」
誰も口を開かなかった。
その時だった。
おばあさんが、静かに言った。
「……おるよ」
全員の視線が集まる。
「そんな人が、この近くにもおる」
親父も、ゆっくり頷いた。
「うちの爺さん、お前のひいじいちゃんたい」
俺は親父を見た。
「ひいじいちゃんが?」
「爺さんが十七歳の頃、炭鉱の中で行方不明になっとる」
「そして――」
親父は一度、言葉を切った。
「一年後に戻ってきたげな」
「一年……?」
俺は息を呑んだ。
「そうたい」
親父は遠い記憶を探るように続けた。
「無口な人やったけん、多くは語らんやったらしか」
「家族が何度聞いても、炭鉱の中で何があったのか、ほとんど話そうとはせんやった」
「ただ……」
親父の声が低くなる。
「一つだけ、言い残したことがある」
社務所にいる全員が、親父を見る。
「『誰かが、あの場所に呼ばれるかもしれん』」
俺の背筋に、冷たいものが走った。
「『その時は、これを渡せ』」
親父は、机の上へ視線を向けた。
「そう言って、日記を手渡したげな」
「日記……?」
親父は机の上に置かれていた古びたノートへ手を伸ばした。
「これたい」
ノートを持ち上げる。
俺の視線が、その表紙へ吸い寄せられた。
古びた紙。
擦れた文字。
そこには――
『炭坑日記』
と書かれている。
「……炭坑日記」
俺は、その文字を見つめた。
以前、蔵で見たものと同じだった。
その時。
俺の目の前で、何かが揺らいだ。
「……え?」
表紙の文字が、ぼやける。
墨が水に溶けるように、文字の形がゆっくりと崩れていく。
「炭坑……」
俺は目をこすった。
次の瞬間。
そこに書かれていた文字が――
『黒坑日記』
に変わった。
「……黒坑?」
俺は無意識に呟いてた。
「何て言った?」
親父が顔を上げる。
俺は慌てて首を横に振った。
「……いや」
もう一度、表紙を見る。
そこには――
『炭坑日記』
と書かれている。
「…………」
今のは、見間違いだったのか。
それとも――。
俺は、古びたノートから目を離せなかった。
そして、胸の奥で何かが静かに脈打った。
――黒坑。
その言葉だけが、なぜか頭から離れなかった。
(第25章、終わり)




