序章・プロローグ・第1章『13歳の灯守り』
はじめまして。
『黒坑日記 ― 三池大迷宮譚 ―』をお読みいただきありがとうございます。
福岡県大牟田市と三池炭鉱を題材にした、郷土ホラー×神話ファンタジーです。
お楽しみいただければ幸いです。
序章 黒坑の奥
闇だった。
光は、**境灯真**が左手に掲げた古びた安全灯だけ。
その小さな灯だけが、果てしなく続く坑道をぼんやりと照らしていた。
滴る水音。
冷たい風。
どこまでも続く暗闇。
そして――。
ザザザザザ……。
床を這うような音が、四方八方から近づいてくる。
灯真の表情が変わる。
「美琴」
短く呼ぶ。
「何かいる。」
美琴も槍を握り直した。
「うん。」
二人は背中合わせになる。
次の瞬間だった。
灯真は安全灯を高く掲げる。
闇が照らされる。
「来るぞ!」
無数の黒い影が、一斉に飛びかかってきた。
灯真は右手を横へ払う。
バシッ!
黒い影が弾ける。
しかし次から次へと湧き出してくる。
その瞬間――。
頭の奥で、あの声が響いた。
――巫女を守れ。 ――灯を絶やすな。
灯真の目が鋭くなる。
「美琴!」
「左!」
美琴は迷わず飛び退く。
直後。
ガガガガガッ!!
巨大な岩が崩れ落ちた。
「危なかった……。」
美琴が息をつく。
灯真は前だけを見つめていた。
「大丈夫か」
「うん」
「奥にデカいのがおる。」
暗闇のさらに奥。
二つの赤い光が、ゆっくりと開いた。
巨大な何かが息をしている。
ゴォォォォ……。
坑道全体が震えた。
灯真は安全灯を高く掲げる。
「俺が道を作る!」
「美琴!」
「トドメを頼む!」
「任せて!」
美琴が札を放つ。
「鎮まれ!」
札が岩肌へ突き刺さる。
崩れかけていた天井が止まる。
灯真は地面すれすれまで腰を落とした。
右へ。
左へ。
滑るように走る。
黒い影を払い、
岩を避け、
崩落を見切り、
迷宮の中に一本の道を作っていく。
「美琴!」
「ここは広か!」
「自由に動け!」
「了解!」
美琴は地面を蹴った。
高く。さらに高く。
闇の中へ舞い上がる。
巨大な黒い影が咆哮した。
その額へ。
一直線。
「やあぁぁぁぁぁっ!!」
槍が吸い込まれるように眉間へ突き刺さる。
グサァァァッ!!
一瞬。
世界が静まり返る。
巨大な影は悲鳴を上げることもなく、ゆっくりと崩れ始めた。
黒い灰となり、周囲の影も次々と灰へ変わっていく。
静寂。
灯真は安全灯を掲げ、美琴を照らした。
「やったな。」
美琴は満面の笑みを浮かべる。
そして得意そうに両手を胸の前へ。
「チョキ、チョキ。」
カニのはさみだった。
灯真は額を押さえる。
「……まだやるんか」
「気に入った」
「戦闘中にやるもんじゃなか」
「えー」
美琴は笑いながら肩をすくめる。
灯真も苦笑した。
「まぁ、無事ならよか。」
安全灯を少し高く掲げる。
その先には。
左右へ伸びる二つの坑道。
どちらも底知れない闇へ続いていた。
灯真は静かに前を見据える。
「右へ行こう。」
美琴は何も迷わず頷く。
「うん」
「灯真について行く。」
二人は並んで歩き出す。
安全灯の小さな光だけを頼りに。
まだ誰も踏み入れたことのない、黒坑のさらに深淵へ。
その闇の奥で、何かが静かに目を開いた――。
――これは、二人が黒坑へ辿り着く、少し前の物語である。
プロローグ ひいじいちゃんの記録
それは、どんな歴史書にものっていない。
百年以上前、この国の地下で起きていた出来事の記録だった。
僕――境灯真が、その古いノートを見つけたのは、大蛇山祭りの太鼓が遠くから聞こえてくる、蒸し暑い夏の夕方だった。
実家の蔵の奥。
埃をかぶった桐箱の中に、それは入っていた。
表紙には、かすれた墨文字で、たった四文字。
『炭鉱日記』
大正七年。
当時十三歳だったひいじいちゃん、境灯真が書き残したものだという。
僕の名前はひいじいちゃんから貰ったと聞いている。
「どんな人だったんだろう?」
同姓同名なので、少し気になりその日記を手に取った。
最初は、ただの古い炭鉱労働の記録だと思った。三池炭鉱。
かつてこの街を支え、日本を支えた巨大炭鉱。その記録なら、歴史的な価値はあるだろう。
だが、一ページ目を読んだ瞬間、僕は違和感を覚えた。
『そこは部外者には、まったく想像もつかない世界であり、恐ろしい死の場所でもある。独特の服装、風俗、習慣もある。坑夫たちも特殊な人間が多かったようだ。私が書こうとしているのは、その特殊な世界の一端である。』
読み進めるほどに、背筋が冷えていった。ひいじいちゃんが書いているのは、僕たちが知る三池炭鉱ではなかった。
五寸の松丸太で支えられた坑道。その隙間から絶えず滴り落ちる地下水。闇の中を走り回る、見たこともないほど巨大な鼠。
そして、暗闇の奥で、ほとんど裸同然の姿で黒い岩盤を掘り続ける男たちと女たち。
そこには、学校で習った「産業遺産」は存在しなかった。あるのは、生き物の腹の中のような、湿り気を帯びた巨大な地下世界だけだった。
さらに、ページをめくる。ひいじいちゃんは、自分の仕事をこう記していた。
『安全灯係』
消えた安全灯を再点火する役目。だが、その説明の端々(はしばし)には、理解できない言葉が混じっていた。
「灯の力」
「地底の気配」
「坑内の掟」
そして――最後のページ。乱れた筆跡で、まるで何かに怯えたように書かれていた。
僕は顔を上げた。
窓の外では、大蛇山祭りの太鼓が鳴り響いている。
ドンドンドン。
ドドンガドン。
ドンドンドン。
ドドンガドン。
そして、その太鼓に合わせるように、遠くから囃子の声が流れてきた。
「ヨイサ――!」
「ヨイヤサ――!」
「ヨイサ――!」
「ヨイヤサ――!」
生まれたときから、毎年聞いてきたはずの祭り囃子だった。
それなのに、その時だけは違って聞こえた。
まるで、地上の人間たちが祭りをしているのではなく、地の底に眠る何かを鎮めるために、百年、いや千年もの間、同じ調子で叩き続けているかのようだった。
ドンドンドン。
ドドンガドン。
『我々は間違っていた。』
ドンドンドン。
ドドンガドン。
『この坑道は迷宮ではない。』
「ヨイサ――!」
「ヨイヤサ――!」
『これは――』
ドンドンドン。
ドドンガドン。
その瞬間だった。
僕は確かに聞いた。
祭りの太鼓とは別の、もっと巨大で、もっと低い鼓動を。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
それは、地面の下から響いていた。
いや。
僕たちが、その鼓動の上で暮らしていたのだ。
『大蛇の腹の中だ。』
馬鹿げている。
そう思おうとした。
だが、ページの隅にこびりついた古い染みを指でなぞったとき、僕はふと、自分の頭の奥に何かが「触れた」感覚を覚えた。
それは音ではなかった。
声でもなかった。
ただ、誰かに名前を呼ばれたような、そんな感覚だった。
僕は本を閉じることができなかった。
最後のページの裏。
これまで気づかなかった一文が、滲んだインクの奥にうっすらと浮かんでいた。
『読む者は、潜る者となる。』
太鼓の音が、また一つ響いた。
僕は目を閉じ――そして、開いたとき。
そこは、もう蔵の中ではなかった。
第1章 十三歳の灯守り
冷たく湿った空気。
天井から滴り落ちる水の音。遠くの坑道から響く、炭車の軋む音。どこかで誰かがツルハシを振るう、ザクッ、ザクッという鈍い響き。
それらすべてが混ざり合い、この巨大な地下世界そのものが呼吸しているように感じられた。
僕は、自分の手を見た。子供の手だった。着ているものも、見覚えのない、煤だらけの作業着。
「灯を絶やすなよ」
声がした。振り返ると、薄暗い坑道の奥へ、先輩らしき男の背中が消えていくところだった。
カツン。カツン。カツン――。
足音が遠ざかり、やがて何も聞こえなくなった。
これは、夢なのか。
それとも、ひいじいちゃんが見ていた光景そのものに、僕自身が放り込まれたのか。
考える間もなく、目の前には粗末な板机があった。
その上には、真鍮の部品が付いた大きな磁石と、予備の安全灯が三つ。
これが、僕の――いや、十三歳だったひいじいちゃんの仕事場だった。
灯が消えたら、闇に呑まれる。
そんな馬鹿げた話があるものか。
そう思いたかった。
だが、この場所に来てから、僕の知っている常識は、ひとつずつ崩れていっていた。
「キィ。」
突然、小屋の外で何かが鳴いた。
僕は飛び上がった。
恐る恐る安全灯を手に取り、入口の隙間から外を照らす。
暗闇。何もいない。
いや――いた。
二つ。
四つ。
六つ。
無数の赤い点が、闇の中で小さな火のように揺れている。
「……炭鼠」
先輩が言っていた。
崩落の前には、こいつらが騒ぎ出す、と。
しかし、その赤い目は、こちらを見ていた。
逃げるでもなく、威嚇するでもなく。
ただ、じっと。まるで、何かを待っているかのように。
僕の背中を、冷たい汗が流れた。
そのときだった。
――ゴオォォォォ……。
床が震えた。
いや、震えたのではない。脈打った。
ドクン。ドクン。ドクン。
巨大な心臓が、地下深くで鼓動したかのような振動。
安全灯の火が、ふっと揺れた。
「な……なんだ……」
炭鼠たちが、一斉に後ずさった。
赤い目が、怯えたように散っていく。
そして、僕の視界の隅に、奇妙なものが見えた。
黒い岩盤の壁。その表面に、さっきまでなかったはずの、赤い線が浮かび上がっていた。
まるで、誰かが岩の内側から血で文字を書いているかのように。
『ニゲロ』
僕は、息を止めた。
次の瞬間、坑道のはるか奥から、聞いたことのない音が響いた。
それは獣の咆哮でも、落盤の轟音でもない。
もっと巨大で、もっと古く、もっと生々しい音。
まるで、山そのものが苦しそうに呻いているような声だった。
その呻きの合間に、僕は確かに聞いた。遠く、頭上のどこかから届いてくるはずのない、祭り囃子の太鼓を。
ドンドンドン。
ドドンガドン。
地上の祭りと、地底の鼓動が、同じ拍子で重なっていく。
「誰か……!」
叫ぼうとした。
しかし、声は出なかった。
手元の安全灯の炎が、じわじわと不気味な青色へと変わっていく。
まるで、何か得体の知れないものの接近を告げているかのように、周囲の空気が急激に冷え込んだ。
そして。
静寂が訪れた。
滴る水の音すら消え失せたような、完全な沈黙。
青い炎が、かすかに揺れる。
その光の届く先。
誰もいるはずのない坑道の奥から、何かがゆっくりと現れた。
(……あ)
僕は、息を呑んだ。
黒い煤と漆黒の岩盤に埋め尽くされたこの世界で、そこだけが異様なほど鮮やかに浮かび上がって見えた。
女だった。
若い坑夫。
腰には黒いフンドシを巻いているだけで、そのほかには何も身につけていない。
安全灯の青い炎に照らされ、白い肩、細い腕、しなやかな身体の輪郭が、闇の中にぼんやりと浮かび上がっていた。
だが。
何よりも僕の目を奪ったのは、その肌の白さだった。
それは、炭鉱で働く者の肌ではなかった。
まるで一度も太陽を見たことのない雪。
あるいは、地下深く眠る大理石を磨き上げたような、冷たく、神々(こうごう)しい白。
その白さが、青い炎の中で妖しく揺らめいていた。
美しい。
なのに。
恐ろしい。
目を逸らせない。
逃げなければならない。
そう思うたびに、逆に視線は彼女へと吸い寄せられていった。
ごくり。
僕は、自分でも気づかないうちに、唾を飲み込んでいた。
その瞬間だった。
――ペチャリ。
水音がした。
僕は、はっとした。
女の足元を見た。
そして、全身の血が凍りついた。
「足がない!」
膝から下が存在しない。
黒い影が、地下水のように地面を這い、女の身体を支えていた。
女は、それでもゆっくりと近づいてくる。
ぽたり。
ぽたり。
濡れた黒髪の先から、水滴が落ちる。
そのたびに、安全灯の青い炎が小さく震えた。
女の首が、ゆっくりと傾いた。
まるで。
僕が誰なのか、知っているかのように。
そして。
女が、顔を上げた。
「ひっ……」
声にならない声が漏れた。
そこには、何もなかった。
目がない。
鼻がない。
ただ、滑らかな皮膚が広がっているだけ。
……いや、違う。
これは――くち、なのか。
耳元まで裂けるほど大きな口だけが、不自然につり上がっていた。
その口が。
ゆっくりと。
ゆっくりと。
笑った。
そして。
女は、確かに声を発した。
「……ヨォイサァ……」
僕の背筋を、氷の針が突き抜けた。
その声は。
さっきまで地上で聞こえていた、大蛇山祭りの囃子の声と、まったく同じだった。
「ヨイヤサァ……」
青い炎が、大きく揺れた。
僕の手から、安全灯が滑り落ちる。
真鍮の灯が、黒い岩盤の上を転がった。
この日。
十三歳の安全灯係、境灯真は。
大牟田の地下に、人間ではない何かがいることを知った。
そしてもう一人の境灯真――百年後の僕は。
その恐怖を、自分自身の記憶として受け取ってしまった。
( 第1章 終わり )
第1章を読んでいただきありがとうございました。
物語の舞台である大牟田市や三池炭鉱には、実際の歴史や伝承を参考にした要素も登場します。
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