羽化
ハハト屋敷での大量殺人はヴァルシネア中を震撼させた。屋敷の人間は、幼い二人の子どもまでも、寝首を掻かれ死亡していた。ただ一人、使用人の青年は抵抗したようだったが、胸を抉られていた。賊の仕業だろうとも悪魔の仕業だろうとも噂されたが、犯人は未だに見つかっていない。
そんな忌まわしい事件から半年が経ち、ヴァルシネアに春が訪れた。喜びを塗り重ねるかのようにヴァルシネア侯爵の息子アルトゥリの結婚も決まり、ヴァルシネアは鬱屈とした冬から解き放たれた。
アルトゥリの結婚相手は、ハハト夫人ヴェルヴィの妹ヴェーラという女だった。金にも銀にも見える美しい髪に薄暮の神秘的な紫色の瞳を持つ見目麗しい女で、ヴェルヴィの葬儀のためにヴァルシネアを訪ねたところ一目惚れしたアルトゥリが三晩かけて口説き落としたという。侯爵もその身分とヴェーラの教養の高さに頷き、すぐに婚約が決まった。
ヴェルヴィの喪が明けてすぐ結婚式が行われた。ヴェルヴィが死の直前に贈ったという紫色の衣を身に纏ったヴェーラの姿はまさしく美の女神だと謳われ、その噂は帝国の中心地、皇帝の元まで届いた。
美貌だけでなく素晴らしい頭脳を持ったヴェーラは侯爵亡き後、影に日向に夫を支え、ヴァルシネアの栄華を数十年に渡り築き上げることになる。
*
一面の夜だった。上も下もない、夜の只中にエルネスティは立っていた。
「哀れなる善人エルネスティ」
囁くような声にエルネスティは意識を取り戻す。薄布で顔を隠し、漆黒の服を身に纏った女性がエルネスティの目の前にいた。腰からドーム状に広がるゆったりとした布地は夜との境界をなくしている。
「あなたは」
「夜と冥府の女神、ユンナフィルソシュナ」
「……ああ。死んだんですね、僕は」
深く息を吐いた。ミルヤミに刺されて。溢れる血液と共にすべての感覚が遠退いて。穏やかな眠りの最中のように落ち着いている。
「肉体が死ねば、魂は女神の裁きを受ける。善き魂は永遠の楽園へ。悪しき魂には永遠の無を。どちらも持つものは再び生を受け、再び女神の裁きを受ける。ラウナが長子、エルネスティ。私は貴方の魂を善なるものと認めます」
ささめくまま、女神はエルネスティを裁いた。傍ら、おもむろに扉が開く。
「いざ永遠の楽園へ。ラウナもそこにいます」
扉の向こうは眩い白い光で溢れていた。頬を撫でる光は温かく、母の手を思い出させた。同時に、妹の小さな手の平も。
「夜と冥府の女神ユンナフィルソシュナ様。僕の妹は、どうなりますか」
「恐らく貴方の予想する通りでしょう、エルネスティ。彼女は貴方を含め、罪無き者を十人殺めました。ヴェルヴィ・ハハトの妹ヴェーラ・ライニオを僭称し、己の欲を満たすためだけに数多の罪を犯して生きています。その罪が生者の世界で裁かれることはないのでしょう」
薄布の奥でユンナフィルソシュナが自分を見ているのがわかった。
「ユンナフィルソシュナ様。どうか僕を、もう一度生かしてはもらえませんか。僕のただ一人の妹なのです。もう一度あの子の傍にいさせてください」
「神の判決は覆りません。しかしエルネスティ。貴方の善行を全て見た身として哀れみ、そして提案しましょう。その魂と引き換えに私と契約を交わし、精霊となるのです。死者が生者と関わることは許されませんが、彼女が死したとき、貴方は語りかけることができます。そのとき彼女の魂が悪行を悔いるならば、私はそれを認めましょう」
「それしかミルヤミと話す方法はないのですか」
はい、と女神は頷いた。
「但し、精霊として再び生を受けるのならば記憶は失われ、貴方が彼女と兄妹であることを思い出すことは叶いません。また彼女が死した後も半永久に精霊として生きることになりましょう」
エルネスティは悩まなかった。
「きっと。記憶を失っても、僕がミルヤミの兄であることに変わりはありません。どうか、契約を」
永遠の楽園の扉が音もなく閉じ、夜に消えた。冷たくも穏やかで静謐な夜が訪れる。
「誓約と公平の女神ヨリガルデミヤシャ」
「はあい」
ユンナフィルソシュナの囁きに応えるかのように明るい声がした。二人の傍らに、褪せた色彩の少女が立っていた。目元を布で覆っているが、「こんばんは」としっかりとエルネスティの方へ顔を向けた。
「ユンナフィルソシュナとエルネスティによる精霊の契約ね。星の精霊の契約以来かしら、貴女ってば律儀に呼んでくれるから好きよ。海の女神と大違い。彼女、勝手に海の魂と契約を結んじゃったのよね。信じられる? 自由奔放にも程があるわ」
こちらの女神は随分とおしゃべりらしい。ユンナフィルソシュナがコホンと小さく咳払いすると、「わかっているわ」と夜と冥府の女神とエルネスティの手を握らせた。それを覆うように誓約と公平の女神は手を重ねられる。
「ラウナが長子エルネスティ。汝が夜と冥府の女神ユンナフィルソシュナの忠実なる精霊と為ることを、誓約と公平の女神ヨリガルデミヤシャの下に契約する。神と人による精霊契約の掟に従い、エルネスティより名と記憶を剥奪す。汝が良き精霊となるよう祈り、歓迎しましょう」
少女の声に釣られるように、握られた手からエルネスティの死の間際に身体の内を満たしたものが、引き潮のごとく流れていく。意識が白く、薄く透明に、そして夜に染まった。
エルネスティだった青年は精霊へと変化を遂げる。同時に、金めく銀髪は曇天のような灰色へと鮮やかさを失い、夕陽のごとき瞳は夜の漆黒に呑み込まれた。
「我が精霊よ、名を与えましょう。汝、アルリツィシス。貴方は魂の導き手、冥府の渡し守として、汝が魂を私に委ねることを誓いますか」
ユンナフィルソシュナの厳かな囁きに、青年は誇らしげに微笑んだ。穏やかに夜が更けていくかのような、優しい笑みだった。
「精霊アルリツィシスは、夜と冥府の女神ユンナフィルソシュナの従順なる僕となることを誓います」