第1話『保健委員・和原なごみさんによる窃盗①』
「ねえ坂木くん。私、あなたのことが大好きなの……」
空き教室に一人で佇みながら、和原なごみは意を決したように呟く。
誰が聞くこともない虚空へ向けた告白。それでも彼女はまるで、想い人が目の前にいるかのごとく振る舞っている。
「私ね。恋愛なんて一生できないと思ってたんだ。私の好みって……少しだけ、普通じゃないから。ずっと隠していくつもりだったんだけど――」
そこで和原なごみは頬を赤らめる。
「とっても不思議なの。初めて坂木くんを見た瞬間に『この人なら』って思っちゃったんだ。胸が高鳴っちゃったんだ。どうしてだろうね?」
そうして和原なごみは空き教室の卓上に置かれた『それ』に手を伸ばした。
掌に収まるほどの『それ』を、彼女は愛おしそうに胸へと抱く。まるで小さな想い人を抱擁するかのように。
「これを盗ったって――きっと坂木くんなら許してくれるよね? 理解ってくれるよね? そうでしょ?」
和原なごみの瞳からは徐々に理性の色が消え失せていく。この場にいない想い人に向けて、ひたすら一方通行に思いの丈を述べていく。
「あぁ……やっぱりそうだよね。私が変な子だって、坂木くんは誰よりもよく理解ってくれるもんね? 誰よりも理解った上で全部、受け容れてくれるもんね?」
和原なごみは手に握った『それ』に何度も頬擦りをしながら、狂気的な笑みを浮かべる。
「私も。私もだよ。私も坂木くんの全部を受け容れたいの。血も汗も涙も。あなたの全身から溢れ出す何もかもに――」
和原なごみは高揚に震える声で、ただ己の狂気を語り上げる。
「――溺れちゃいたいくらい、大好き」
――――――――――――――
僕の検尿が盗まれた。
犯人は分かっている。保健委員の和原なごみさんだ。
「ごめんね坂木くん。盗まれちゃったのは私のせいだよ……」
放課後の昇降口。靴を履き替えて下校しようとしていた僕に、その和原さんがもじもじとしながら近づいてきた。
僕はごく平然とした態度を心掛けてそれに応じる。
「気にしなくていいよ和原さん。それに、まだ盗まれたと決まったわけじゃない。何かのはずみで運んでる途中に落ちてしまったとか。そんな可能性も十分あるよ」
「ううん。その可能性はあり得ないの。これを見て」
そう言って和原さんはスマホを取り出した。
画面に表示されているのは、『クラス人数分の検尿容器が収まった回収ケース』である。
「回収場所の空き教室まで運んだ後、ちゃんと全員分が揃ってる証拠として撮っておいたの。この時点で坂木くんの分はなくなっていないよね? だから『運んでる途中に落ちた』はありえないんだ……せっかくフォローしてくれたのにごめんね……」
「でも、盗難だと断定するのはまだ早いよ。後から何かしらのトラブルでなくなっただけかもしれない」
「何かしらのトラブルって、たとえばどんな?」
「たとえば、だよ。和原さんの後にやって来た他クラスの保健委員が、うっかりミスで僕らのクラスの回収ケースを床にひっくり返してしまったとか。散らばった検尿容器を慌てて拾い集めたけど、僕の分だけ物陰とかに転がり込んでしまって見つからない。やむなく諦めて、怒られないよう今は知らんぷりを貫いてる――なんて説はどうだろう」
「ううん。その可能性もあり得ないの。これを見て」
再び和原さんがスマホの画面を見せつけてくる。
表示されているのは空き教室の全景を引きで撮った写真。教室の真ん中に配置された長机には、5クラス×3学年分――合計15個の回収ケースが置かれている。
「全クラス分が揃ってるでしょ? 空き教室にケースを運び込んだのは、私が最後だったんだ。だからね、他のクラスの保健委員さんが私の後に来るなんてことはあり得ないの」
「分からないよ。もしかしたら何かの事情で引き返してきた委員さんがいたかもしれない」
「ううん。その可能性もあり得ないの」
再び和原さんがスマホの画面をタップする。次に表示されたのは動画。
自撮りのアングルで映されているのは――和原さんが事件現場の空き教室に施錠するシーンだ。
「一番最後にケースを運び込んだ保健委員は、空き教室に施錠して職員室に鍵を返すことになってたの。だから私の後に引き返してきた人がいても教室には入れない。坂木くんが言うようなトラブルの類は起きるはずがないの」
なんでわざわざ逐一ケースの数やら施錠のシーンを入念に撮影しているのか。
一から十まで言動があまりにも不自然すぎるが、僕はそのあたりを敢えて全無視する。
「でも……すごく不思議だと思わない? この後、教頭先生が回収業者さんを案内してこの教室にやってくるまで、現場は密室になってたんだよ? 犯人はどうやって盗んだんだろうね?」
ぐいっと和原さんが踏み込んできて、息遣いが感じられそうなほど間近に顔を寄せてくる。その瞳は底なし沼のごとく真っ黒に淀んでいる。
「ねえ坂木くん。一緒に考えてみようよ。誰なら犯行が可能だったと思う? いったいどんな動機で盗んだんだと思う?」
「さぁ……? 再提出も間に合ったし、僕はもうあんまり興味がないかな」
「私はね。犯人が誰かは見当も付かないけど、動機ならなんとなく想像できるんだ」
話題を流そうとする僕の抵抗は華麗にスルーされる。彼女は祈りを捧げるシスターのように両手をぎゅっと握り合わせ、うっとりと語り始めた。
「その子はきっと、坂木くんのことが大好きなの。いつも身近に存在を感じていたいの。それでね……ほら、体液とか分泌物ってすごくダイレクトに『命』を感じられるよね?」
「ちょっとその感覚はよく分からないかな」
「カラカラに干からびたミイラを思い浮かべてみて? ちっとも『命』を感じないでしょ? つまり『命』っていうものはとっても湿潤的だと思うの」
「その理屈だと水死体はどうなるの?」
「もう。あんまり極端な例はズルだよ?」
和原さんは壊れたマネキンのような動作でかくんと首を傾げた。極端な例というならミイラの方が大概だと思う。
「スポーツドリンクとか経口補水液の『人体と同じ浸透圧』って売り文句とか、少しドキドキしちゃわない? 『私の大好きなあの人の体液もこんな濃度なんだぁ』なんて。ふふ」
毛ほども共感できない。
一方、和原さんは高揚を抑えられないとばかりに胸元を手で押さている。
いや、よく見ると違う。押さえているのは自身の胸というよりも制服の胸ポケット部分だ。彼女はそこに収まった『何か』を布地ごしにぎゅっと握りしめている。ちょうど人差し指くらいのサイズの『何か』を。
「犯人の子はきっと、坂木くんに見つけてもらえるのを待ってるよ。ワクワクしながら待ってるよ。だってそれは秘めた恋心を見抜いてもらえたってことだから」
「そうかな……?」
「そうだよ」
和原さんは瞳孔ごと見開いたような目で僕を見据える。
「誰が犯人なのか――理解ってくれるよね?」
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