第79話 それは理想か、災厄か
ルーセントとレインの視線が、自然と広場の中心へと向かう。
そこにいるのは……白銀坂 雪。鏡宮の兵士の間では、白蛇紋の御子と呼ばれ、鏡宮にとっての集大成ともいえる、完成された『漢』の姿がそこにあった。
彼は、まるで時間が止まったかのように、広場の中心で静止していた。深淵のような瞳を大きく見開いたまま、微動だにせず、ただ空を見上げている。
その姿は、この世の理から切り離されたかのようで、周囲の空気すら凍りついているように感じられた。神々しさすら漂わせるその存在感に、ルーセントとレインは思わず目を奪われる。
しかし、すぐに二人は互いに目配せを交わした。
先ほどまで共に行動していた、リュカ、カゲトラ、バルドの存在が、彼女たちの意識を現実へと引き戻していた。もし彼らと出会っていなければ、変貌した雪の姿から目を逸らすことなど、きっとできなかっただろう。
そして、雪の足元には、インクラインのリーダーである朱音が倒れている。
その身はぴくりとも動かず、意識の気配も感じられない。とはいえ、目立った外傷は見当たらず、魔力の痕跡もごく薄い。
鏡宮の頭脳……レインは、即座に状況を読み取った。
インクラインを極限まで追い詰め、白銀坂 雪を覚醒へと導くための布石。その第一段階として仕掛けたのが、瘴気を帯び変異したコボルトやゴブリンの群れだった。おそらく、その戦闘の中で朱音は傷つき、力尽きたのだろう。
ここまでは、レインが組み上げた計画の範囲内……想定された犠牲であり、予定された展開だった。
レインの視線が、静かに戦場をなぞるように巡る。
焦げついた大地。黒く炭化した瓦礫の山。凍てついた草花が、まるで時間を止められたかのように白く凍りついている。
そのすべてが、彼の放った魔法の痕跡だった。
美麗から贈られた、三つの魔道具。耳元で揺れるイヤリング、胸元に輝くネックレス、そして指先に光る指輪。それらが、白蛇紋システムから供給された膨大な魔力を媒介し、雪の中に眠る力を引き出した。
炎と氷……相反する二つの属性が、同時に、しかも桁外れの規模で放たれた。その一撃は、瘴気に侵された魔物たちを一掃し、戦場を一瞬で沈黙させた。
ここまでは、すべて想定の範囲内。レインが描いた計画の通り、雪は目覚め、力を解放した。
そして、最後の仕上げとして、彼は変質したとはいえ、回復魔法を放ったはずだった。それが、朱音を救うためのものだったのか、それとも無意識のうちに発動されたものなのかは、まだわからない。
しかし、その痕跡は確かに残っていた。
レインの目が、戦場のあちこちに残る癒しの痕を捉える。焼け焦げたはずの地面に、ぽつりぽつりと芽吹く新芽。凍りついたはずの空気の中に、わずかに漂う温もりの残滓。そして、朱音の身体にかすかに残る、回復魔法の余韻。
(……やはり、放ったのね。あの状態で、回復魔法を)
レインの瞳が細められる。その表情に浮かぶのは、驚きではなく、確信。すべては、計画通り……いや、それ以上の成果。
雪の内側から溢れ出す何かが、確かに周囲に影響を及ぼしている。そう直感したレインの瞳が細められ、空気の粒子がわずかに揺れる。
その横で、ルーセントもまた、静かに構えを取っていた。
ここまで、すべては計画通りに進んでいる。瘴気を帯びた魔物の襲撃、雪の覚醒、そして炎と氷による圧倒的な殲滅。
美麗から託された魔道具と白蛇紋システムの力が、雪を理想の漢として完成させるはずだった。
実際、その容姿は申し分ない。
さきほど遭遇した三人の男たち、リュカ、カゲトラ、バルドと比べても、引けを取らない逞しさと威厳を備えている。
それでもなお、レインの胸に広がるのは、得体の知れぬ違和感だった。
(……この危うさは、なんだ)
ただ立っているだけのはずなのに、近づくだけで、自分の存在が終わると本能が警鐘を鳴らす。
禍々しさすら感じさせるその気配は、もはや人の域を超えていた。
(まるで、制御不能な何かが、彼の内側で目を覚ましているような……)
先ほどの三人……本気を出していなかったとはいえ、彼らからも自分達を超える確かな力を感じた。
しかし、いま目の前にいる雪の放つ圧は、それを凌駕している。そもそも力の質が違う。
それは、ただ強いというだけではない。世界の理を歪めるほどの、異端の力。
レインの眉がわずかに動いた。
計画通りに進んでいるはずの戦場で、彼女の中に、初めて想定外の影が差し込んだ瞬間だった。
広場に駆け込んできた二つの影……ルーセントとレインの二人が現れた瞬間、インクラインのメンバーたちは、思わず息を呑んだ。
その気配。その歩み。その視線の鋭さと、空気を切り裂くような存在感。
まるで、戦場そのものが彼女たちを中心に再構築されるかのような錯覚。
藍坂 空は、静かに盾を握り直した。
(……この圧……この兵士たちのただの上官ってだけじゃない)
彼女の瞳が、ルーセントの動きに注がれる。無駄のない足運び、呼吸の深さ、そして全身から醸し出す数多の戦場を知る重み。
(この者たち……私たちA級より、間違いなく上。まさか……世界に十二名しかいないS級冒険者?)
その可能性に思い至り、空は無意識に仲間の前へと一歩出た。
「……大丈夫、私がいるから」
そう呟いた声は、誰に向けたものでもなく、自分自身への覚悟だった。
翠坂 風花は、怯える風精シルフィのささやきを聞きながら、そっと目を細めた。
(風が……ざわついてる。あの人たち、ただ者じゃないって)
ルーセントの周囲に漂う光の粒子が、風の流れを拒むように揺れている。
(魔力の密度が違う……あれは、自然と調和する力じゃない。制御された光。鋼のような意志)
「……木々が、とても緊張してる」
ぽつりと呟いたその声に、隣の空が小さく頷いた。
桃原坂 花恋は、倒れた朱音の姿を見て、唇を噛んだ。
(あかねが……あの子が、あんなふうになるなんて)
そして、ルーセントとレインの姿に視線を移す。
(あの二人、ただの戦力じゃない。あの空気の支配力……)
「ふふっ、これは……ゆっくん……元に戻れるかも……だよ」
笑みを浮かべながらも、その瞳は真剣そのものだった。
(この状況で、あの余裕……完全に上位者の空気。間違いない、あれは……)
黄金坂 萌黄は、いつもの調子で軽口を叩こうとして……やめた。
(うわ、なにこのビリビリじゃないピリピリ感……)
雷術士として、空気の振動には敏感な彼女の肌が、まさにびりびりと震える。
(あの人たち、魔力の波が……まるで雷雲の中にいるみたい)
「……え、なにこの感じ……私、スベったわけじゃないよね……?」
小声で呟きながらも、彼女の手はすでに愛用の雷の杖を握りしめていた。
(でも、なんか……安心する。本来なら敵のはずのあの人たちが来たなら、きっと大丈夫……ゆきゆきは元に戻る)
ぬぐっても拭いきれない、どうしようもない不安と焦燥を無理に追い払うように萌黄は、強者である二人を見つめた。




