第65話 炎の咆哮、氷の鎮魂歌
雪の胸元で、青白く光っていたネックレスが、瞬く間に赤く染まっていく。それはまるで、彼の胸のなかに渦巻く怒りを映すかのように、脈動しながら色を変える。
カチリッ……何かが、外れた音がした。
それは、心の奥にかけられていた鍵が外された音。感情の蓋が、完全に吹き飛んでいた。
「やめろって……言っただろ」
雪の声は、低く……震えていた。その声に、空気が反応する。風が止まり、瘴気が引き、世界が一瞬、静止した。
次の瞬間……爆ぜた。
雪の足元から、紅蓮の炎が噴き上がる。
それは朱音の《緋焔》の炎とは異なる、もっと深く、もっと禍々しい……まるで地獄の底から這い上がってきたかのような、獄炎。
その炎は、雪の怒りに呼応するように、瞬く間に戦場を包み込んだ。
「な、なに……この魔力……!?」
萌黄が目を見開き、花恋が思わず香炉を取り落とす。風花の精霊たちは、恐怖に震えながらも、雪の周囲から逃げようとはしなかった。
空は、盾を杖代わりにどうにか立ち上がると、朱音のもとへ近づく。
そして……雪が、静かに手を宙に伸ばした。
「…………燃え尽きろ」
その一言で、世界は激変する。
獄炎が咆哮を上げ、次から次へとコボルトたちを飲み込む。
黒紫の毛並みが焼け、瘴気が悲鳴を上げるように空へと昇っていく。ゴブリンたちは、逃げる間もなく灰となり、異形のコボルトたちも、次々と崩れ落ちていく。
その炎は、仲間たちには一切触れず、まるで意志を持っているかのように、敵だけを選んで焼き尽くしていった。
やがて、炎が収まったとき、その場に立っていたのは、ただ一体。
コボルト・ロード。
全身を焦がされながらも、なおも立ち塞がるその姿は、まさに災厄の象徴だった。とはいえ、今やその前には、もはや守られるだけの存在ではない、雪が立っていた。
その瞳には、確かな怒りと、決意の炎が宿っていた。
灼熱の嵐が過ぎ去り、戦場に静寂が戻る。
焦げた大地からは、燃えるほどの熱気を帯びた煙が立ちのぼり、空気は焼け焦げた鉄と血の匂いに満ちていた。
その中心に、雪と全身を焦がされながらも、なおもその巨体を支えるコボルト・ロードが、にらみ合いながら立っていた。
向かい合う二人の前に、ふらつきながら立ち塞がる影があった。
それは一体の、コボルト。
全身は焼け落ち、皮膚のあちこちが剥がれている。それでも、その足は雪の目の前まで進み、ぐらつきながらも、おのれの主に歯向かう者の前に立ちふさがった。
「…………!」
雪は思わず、息を呑んだ。
そのコボルトの目は、まっすぐに自分を見つめていた。
赤黒く濁っていたはずの瞳は、今や澄んだ琥珀色に変わっていた。瘴気が焼かれ、消え去ったのだろうか。
そこにあったのは、狂気でも憎悪でもない。ただ、主を守ろうとする、まっすぐな意志の光だった。
(……なんで)
雪の胸が、きゅう、と締めつけられる。その目を見た瞬間、彼の中で何かが崩れた。
ふと、周囲に目を落とす。
そこには、焼け焦げた無数の死体が転がっていた。
ゴブリン、コボルトといった魔物と呼ばれていた存在たち。なのに、彼らの身体は、ダンジョンの法則である倒されたのなら霧散して、魔石を残して消えることはなかった。
肉が焼け、骨が露出し、黒く炭化した死体が、確かに辺り一面に残ったままだった。
(……あれを全て、ボクが……)
自分の怒りが、命を奪った。
それは、ただの魔法が発動したことの結果ではない。感情が、力に変わり……その力が、命を焼きつくした。
「……ボクが……やったのか……」
呆然と呟いた雪の手が、かすかに震え、その指先には、まだ熱の余韻が残っていた。
何事もなかったかのようにネックレスが、青白く光を放っていた。
雪の前に立ちふさがった一体のコボルト。
その身体は、今にも崩れそうだった。それでも、主を守るために、消えかける命を振り絞って立っている。
「……ジャマ……スル、ナ」
低く、濁った声が響いた。
次の瞬間、コボルト・ロードの腕が横薙ぎに振るわれる。焼け落ちることなく残っていた禍々しい鉄棒が、唸りを上げながら容赦なく振り抜かれた。
ドグシャッ。
鈍い音とともに、コボルトの身体が宙を舞い、地面に叩きつけられる。
そのまま動かない。その瘴気によって肥大化した身体は、主の一撃によって、完全に沈黙した。
「…………っ!」
雪の目が、見開かれ、言葉が喉の奥で詰まった。
「なんで……」
声がどうしようもなく震える。
「なんで……味方を……殺すんだよ」
あのコボルトは……瘴気が晴れた目は、主を守ろうとしていた。
それなのに。
「お前を……守ろうとしてただろ」
雪の頬を、涙が伝う。怒りではない。ただ、胸の奥から湧き上がる、どうしようもない悲しみ。
報われなかった想い。届かなかった忠誠。踏みにじられた命の重さが、雪の心を締めつける。
その瞬間、彼の胸元で、ネックレスが再び光を放つ。先ほどとは違い今度は、透き通るような蒼の輝き。
空気が一変する。雪の足元から、ひんやりとした冷気が立ちのぼり、焼け焦げた大地に白い霜が広がっていく。
雪の悲しみが、氷となって世界を包み始めた。先ほどまで、焼け焦げるような熱気が満ちていた戦場。しかし、その空気が一変していた。
風が止み、音が消える。まるで、世界そのものが凍りついたかのように、雪の足元から広がる霜が、焦土を白く染めていく。
空気は凍てつき、吐息が白く浮かぶ。仲間たちの頬にも、薄く霜が降り始めていた。
雪の瞳は、もはや怒りに燃えてはいなかった。その奥にあったのは、深く静かな冷たい決意。
「……終わらせるよ」
彼の手のひらに、蒼白い光が集まっていく。それは、触れれば砕けそうなほど繊細で、それでいて、すべてを凍てつかせるほどの力を秘めていた。
魔力が、溢れる。
抑えきれないほどの冷気が、彼の周囲に渦を巻く。その中心に立つ雪の姿は、まるで氷の王子のように、静謐で、そして美しかった。
「《絶対零度》グレイシャル・レクイエム」
その言葉とともに、世界が凍った。
刹那、コボルト・ロードの周囲に、蒼白い光の柱が立ち上がり、空間そのものが氷に閉ざされはじめる。
コボルト・ロードが咆哮を上げようとしたその口元すら、凍りつく。黒く焦げた毛並みは、白く染まり、骨の突起が音もなく砕けていく。
そして、音すらも凍結したかのような静寂が訪れ……パァンッ。
氷の結晶が砕けるような音とともに、コボルト・ロードの巨体が、粉々に砕け、霧のように消え去った。
肉体すら残さず、瘴気の残滓すらも凍てついたまま、風に溶けていく。
雪は、ただ静かにその光景を見つめていた。その手のひらには、まだ微かに冷気の名残が漂っていた。
絶対零度の魔法が、すべてを終わらせた。空気は凍りつき、戦いの場は静寂に包まれる。
インクラインの仲間たちは、呆然とその光景を見つめていた。
あまりにも強大で、あまりにも美しい魔法。回復魔法しか扱えない白印の雪が放ったとは、すぐには信じられなかった。
けれど、雪の目は、彼女らを映していなかった。
雪の視線の先には、地面に倒れたまま、動かない朱音の姿があった。その紅の髪が、土にまみれ、風に揺れている。
(……まただ)
胸の奥が、冷たく締めつけられる。
あのときと同じ。
退院の日、初めて外の世界に出たあの日。朱音が自分をかばって倒れた、あの瞬間と、まったく同じ光景。
「……朱音……お姉ちゃん」
雪はふらつきながら、彼女のもとへと駆け寄った。
足元が定まらず、視界が揺れる。
魔力が、ほとんど残っていないことに、雪自身も気づいていた。
それでも、彼女の傍に行かずにはいられなかった。
朱音の顔は、青白く、目を閉じたまま、呼吸は浅く、意識は戻っていない。
「……治さなきゃ……」
雪は、震える手を彼女の胸元にそっと置いた。
けれど、いつもはすぐに感じられる魔力の流れが、出てこない。さっきの絶対零度で、すべてを使い果たしてしまったかのように。
「……なんで……なんで、こんなときに……」
唇を噛みしめ、雪はうなだれた。
治したい。助けたい。でも、力がでない。魔力が無くなった自分は、ただの力を失った少年にすぎず、何もできない。
それでも朱音の手を震えながら握りしめる。
その手は、あのときと同じように、まだあたたかい。けれど、その温もりが、少しずつ遠ざかっていくのが感覚でわかってしまう。
「お願い……お願いだから……」
雪の声が、かすれ、涙が頬を伝う。
その一滴が、朱音の手の甲に落ちたとき……雪の胸元で、再びネックレスが淡く光を放ち始めた。




