第64話 その光は、まだ解き放たれない
逃げ場は、なかった。
ユグドラシルの根がうねり、背後の道を塞ぐように盛り上がる。左右の森も、赤黒い瘴気に包まれ、視界すら奪われていく。
前方には、異形のコボルトとゴブリンの群れ、そして後方からも、地を揺らす重低音が響いてくる。
まるで、大地そのものが脈打つような足音。空気が震え、風が止まり、精霊たちが完全に沈黙する。
そこに、現れたのは、コボルトの上位種であるコボルド・ロード。元の種から歪な進化を遂げ、他の個体を遥かに凌駕する巨体。
通常のコボルトであれば初級冒険者が、狩れるようになってはじめて一人前扱いされる。それとは、とても同系統と思えないほどの異形と化した群れと率いる主。
その全身を覆う漆黒の毛並みは、光を吸い込み、まるで闇そのもののように存在していた。その背には、骨のような突起がいくつも突き出し、動くだけで軋む音を立てる。
その瞳は、赤黒く濁り、理性の光は一切ない。ただ、破壊と殺意だけが、そこにあった。
その姿は、トロールや巨人種といった脅威度A+と比べても遜色ないほどの威容を誇っている。
「……っ、なんて圧……」
朱音の声が、かすかに震える。
彼女の魔剣《緋焔》が、強敵を前に熱を帯び、赤く脈動し始める。空の盾……蒼壁が、迫る激闘に震え重みを増す。風花の精霊たちは、彼女の背中にしがみついたまま、動こうとしない。
「完全に……囲まれてる……」
花恋が魔導香炉《桃薫》を左手でくるくると振り回しながら、袖に仕込んでいる小型爆符《恋火》に魔力を流す。
萌黄は、魔導導杖《雷鳴之筆》を正眼に構える。
雪は、静かに息を吸い、アクセサリーに触れた指をそっと握りしめた。すでに逃げる選択はできない。ならば、戦って道を開くしかない。
ユグドラシルの根の前、赤黒い瘴気の中で、インクラインは再び陣を組んだ。その先に立つのは、災厄の主……コボルト・ロード。
戦端が、切って落とされた。
「雷迅穿ッ!」
萌黄の雷鳴之筆から放たれた雷が無数の矢となり空を裂いて走る。雷光は一直線に複数のコボルトの胸を貫き、爆ぜるような音とともに黒煙を巻き上げた。
「……まだ、動いてる!?」
雷に焼かれ、焦げたはずのコボルト数体が、呻き声を上げながら立ち上がる。
その巨体はふらつきながらも、なおも戦意を失っていなかった。赤黒く濁った瞳が、再びインクラインを捉える。
「普通なら、あれで沈むはずなのに……」
花恋が振った香炉から、桃色の煙がふわりと広がり、仲間たちの動きが鋭さを増していく。とはいえ、異形へと変じたコボルトとゴブリンの群れは、なおも押し寄せてくる。
「……なら、あたしも本気でいくからね」
花恋は袖口から、小さな灯火のように揺らめく恋火を取り出す。掌の上で淡く脈打つそれは、まるで心臓の鼓動のように温かい。
次の瞬間、花恋は一歩踏み込み、迫りくる異形の群れへ向かって、恋火を弧を描くように投げ放つ。
桃色の残光が軌跡となり、宙を裂くように一直線に飛んでいく。
「…………届けっ!」
恋火が空中で花開くように輝き、淡い光の波が異形の群れへと広がった。
光に触れた数体のコボルトとゴブリンが、その場で動きを止める。しかし、倒れたはずの者たちの中には、よろめきながらも再び立ち上がる影もあった。敵の数は一向に減らず、押し寄せる圧はむしろ増えていく。
「くっ……!」
朱音の《緋焔》が、炎の軌跡を描いて唸る。
斬撃がコボルトの胴を裂き、黒紫の血が飛び散る。しかし、倒れたはずの個体が、呻きながら腕を振り上げ、朱音に反撃を試みる。
空が即座に盾を構え、朱音を庇うように前に出る。
「……大丈夫、私がいるから」
その声は静かだったが、盾に叩きつけられた衝撃は凄まじく、地面が軋んだ。空の足元にひびが走り、彼女の肩がわずかに沈む。
一方、風花は必死に精霊たちを励ましながら、風の渦で敵の動きを封じようとする。しかし、シルフィもドリュアスも、怯えたまま本来の力を発揮できず、魔法の効果は薄い。
「……ごめん、みんな……精霊たちが、怖がってるの……」
敵は、ただの魔物ではない。瘴気に侵され、常識を超えた耐久と執念を備えた異形の群れ。数も多く、倒しても倒しても、次々と湧いてくる。
インクラインの五人は、確かに強かった。A級冒険者として、数々の修羅場をくぐり抜けてきた精鋭たち。だけど、そんな彼女たちですら、徐々に魔力を削られ、体力を消耗して呼吸が荒くなる。
汗が額を伝い、足取りが重くなる。それでも、誰一人として退こうとはしなかった。
その時だった。地の底から、再び、あの重低音が響いた。
ズウン、ズオン……空気が震え、瘴気がざわめく。獲物を見定めるように戦場を観察していた災厄の主が、ついに牙を剥いた。
インクラインの戦いが激しさを増すにつれ、配信を見守るミラージュリンクたちのコメント欄も、凄まじい勢いで流れ始めていた。
彼女たちの一挙手一投足に一喜一憂し、敵の異常な耐久力に戦慄し、倒しても減る気配のない様子に、視聴者たちは悲鳴をあげていた。
【コメント欄】
『ちょ、ちょっと!? あのコボルト、雷耐えたんだけど!?』
『もえもえの雷魔法が効かないとか、何それバグ!?』
『空ちゃんの盾が軋んでる……やばい、やばいって……!』
『風花様の精霊が沈黙してる……こんなの初めて……』
『朱音姐さんの剣が通ってるのに倒れない!? 何者よあれ!?』
『花恋ちゃんの香炉、効いてるのに押されてる……』
『やばい、涙出てきた……みんなが削られていくの、見てられない……』
『これ、全滅ルートじゃないよね!? ねえ、誰か否定して!!』
『雪様を……雪様を守ってあげて!!』
『空ちゃん、もっと前に出て! 雪様が危ない!!』
『朱音姐さん、無理しないで! でも雪様のそばは離れないで!!』
『雪様のアクセサリー、なんか光ってない? 気のせい?』
『雪様が無事なら、それでいい……でも、でも……』
『みんな! 無事に帰ってきて……お願い』
コボルト・ロードが唸り声を上げ、その巨体を揺らす。次の瞬間、黒煙をまとった腕が大きく振りかぶられた。
その手に握られていたのは、棍棒と呼ぶにはあまりに歪で不気味な武器……ねじれた鉄の塊に、無数の骨のような突起が埋め込まれた、禍々しい鉄棒。
その表面からは黒煙が立ちのぼり、まるで武器そのものが生きているかのように、低く唸りを上げていた。
「空っ!」
朱音の叫びと同時に、空が《蒼壁》を前に突き出し、軋む音を響かせながら正面からその一撃を受け止めた。
響き渡る轟音。
地面が砕け、空の足元が陥没する。衝撃波が周囲に広がり、木々の葉が吹き飛ぶ。
一瞬、耐えた空だったが、そのまま数メートル後方へと吹き飛ばされ、地面を転がった。
「空っ……!?」
朱音は叫びながら駆け出し、次の瞬間、《緋焔》が紅蓮の軌跡を描いて、コボルト・ロードの懐へと鋭く斬り込まれる。
その剣閃は、確かに命中した……はずだった。
ガキィィィン!
異様な音が響いた。コボルト・ロードが手にしていた、禍々しい棘付きのこん棒が、朱音の剣を受け止めていた。
ただの金属ではない。それは、瘴気を凝縮したような、黒く脈動する異形の武器だった。
「なっ……!」
朱音の目が見開かれ、次の瞬間、こん棒が唸りを上げて振り下ろされる。
ドゴォーン!
朱音の身体が宙を舞い、地面に叩きつけられた。紅の髪が宙に舞い、彼女の身体が地面を転がっていく。
「朱音っ!!」
風花の悲鳴が響く。萌黄が駆け寄ろうとするが、周囲のコボルトたちがそれを許さない。花恋の香が敵の動きを鈍らせるも、数の暴力がじわじわと包囲を狭めていく。
風花は、必死に精霊たちを呼び出そうとするが……。
「……だめ、怖がってる……」
シルフィも、ドリュアスも、瘴気に怯え、力を振るうことができない。風花自身も、精霊との繋がりが霞むような感覚に、額から冷や汗を流していた。
一方の花恋も、香での支援こそ得意とするものの、直接の戦闘には不向きなトリックスター。幻惑と撹乱で敵の足を止めることはできても、決定打にはならない。
そんな中、ただ一人、萌黄だけが前線に立ち続けていた。
雷の魔法を次々と放ち、仲間たちを守るように立ち回る。しかし、いくら撃ち倒しても、敵の数は一向に減らない。
「っ……もう、魔力が……」
萌黄の額に汗がにじみ、呼吸が荒くなる。魔法の精度がわずかに鈍り、放たれる間隔も徐々に開いていく。
体力も、魔力も、確実に削られていた。このままでは……全滅は、時間の問題だった。
この状況で……雪は、立ち尽くしていた。
目の前で、空が吹き飛ばされ、朱音が地に伏す。仲間たちが、必死に自分を守ろうとして、傷ついていく。
胸の奥で、何かが軋んだ。
とんでもなく異質で冷たいのに熱気を帯びたなにかが、こみ上げてくる。喉の奥が焼けるように熱く、視界が赤く染まる。
心の奥底で、何かが……はじけた。
(……やめろ)
その瞬間、雪の指が、胸元のネックレスを強く握りしめた。
(やめろ……やめろ……やめろ……これ以上みんなを傷つけるな)
その想いに呼応するように、アクセサリーが淡く、青白い光を放ち始めた。




