第46話 刹那に裂ける理、零秒の奇蹟
沈黙の中、カゲトラが、前へと進み出る。その瞳には、一点の曇りもない光が宿っていた。
「……拙者に、任せるでござる」
その言葉に、リュカが振り返る。
カゲトラは懐からひとつの小瓶を取り出し、軽やかにリュカへと投げ渡した。
「これは……フェルマの……特級ポーション!?」
リュカが驚愕の声を上げる。
瓶の中で揺れる液体は、淡く輝く金緑色。
エリクサーには及ばないが、欠損すらもたちどころに癒すとされる、超高濃度の回復薬。
それは、フェルマが万が一に備えて、仲間一人ひとりに託していたものだった。「命を賭けるような時にだけ使ってくれ」と、真剣な顔で手渡されたその一本。
「まさか、お前……林と火の複合技を使う気か!? それをしたら、お前の全身の骨が砕けるって、前に自分で……」
「救える命があるなら、放ってはおけぬでござる」
カゲトラの声は静かだった。そう、その言葉には、誰にも揺るがせぬ決意が込められていた。
「それに……フェルマ殿のポーションを、拙者は信じているでござるよ。あの者、料理の腕に関しては、からっきしでござるが……ポーションに関しては、まごうことのない天才でござるからな」
リュカは言葉を失ったまま、瓶を見つめた。その手の中で、命の光が揺れている。
「……お前ってやつは……」
リュカは小さく息を吐き、瓶をしっかりと握りしめた。そして、カゲトラの背を見つめる。
風が、再びざわめき始めた。
それは、嵐の前触れ……命を救うための、命を削る技が、今まさに放たれようとしていた。
風が、ざわめきを越えて、唸りを上げ始めた。
カゲトラは静かに目を閉じ、刀の柄に手を添える。その足元に、二重、三重の紋が浮かび上がる。
「……風林火山・林と火の印、交わる時……」
リュカが息を呑む。
その技の名を、彼は知っていた。いや、誰よりも知っている。それは、放てば最後、使用者の肉体すら保たぬとされる、禁断の一閃。
「カゲトラ……やめろ、それは……」
しかし、カゲトラは微笑んだ。
「拙者の刃が、誰かの命を繋げるなら……それで、よいでござる」
その瞬間、誰も何が起こったのか、理解できなかった。
カゲトラはただ、静かに刀へと手を添え、次の瞬間には、すでに鞘へと収めていた。
「……風林火山・一閃……無明斬」
空気が凍りつき、風が止まり、音が消える。
そして、静寂の中にカチリ、と。遅れて届いた鞘鳴りの音だけが、広場に澄んで響いた。
誰も、その刃が振るわれた瞬間を見ていない。ただ、空が軋み、空間のひび割れが残されていた。
目に見えぬはずの次元が、確かに裂けていた。
光と闇が交錯し、そこに理の外側が垣間見える。まるで、この世界が一瞬だけ、別の法則に書き換えられたかのように
その裂け目の向こうに、バルド達がいた世界……女神の加護が満ちる、聖なる大地が、かすかに垣間見えた。
「……今だ、バルド殿」
カゲトラの声に、バルドが応じる。
慈悲乃鉄槌……メルセデスを高く掲げ、祈りを捧げる。
「女神よ……この刹那に、どうか御手を……」
次元の裂け目から、まばゆい光が降り注いだ。
それは、まるで天から差し込む一筋の祝福。その光が、メルセデスに宿る。
慈悲乃鉄槌が、淡く、そして確かに輝き始めた。
その光は、バルドの手を通じて、広場に集められた命たちへと降り注ぐ。
コトラのまぶたが、かすかに震えた。
フワリの指が、ぴくりと動く。
ニャルの胸が、少しだけ深く息を吸い込んだ。
「……っ!」
リュカが思わず声を上げ、ミトラは、両手で口を覆い、涙をこぼした。
それは、ゼロコンマ一秒の奇蹟。
この世界の理を超え、女神の加護が届いた、ただ一度きりの例外。
だがその代償は。
「……カゲトラ!!」
リュカが振り返ったとき、カゲトラは膝をついていた。その身体は震え、刀を支えにしてようやく立っている。
「ふむ……骨が……七割ほど、砕けたでござるな……」
それでも、彼は笑っていた。
風に揺れる髪の奥、瞳はまだ、確かな輝きが彩っていた。
「カゲトラ、無理するな……今、ポーションを……」
リュカが駆け寄り、懐から取り出した瓶を手に、カゲトラのもとへ膝をつく。しかし、彼の手がカゲトラの口元に届くよりも早く、そっとその手を制する者がいた。
「……私が、この御方に飲ませます……にゃ」
ミトラだった。その瞳には、静かな決意と、深い感謝の色が宿っていた。
リュカは一瞬戸惑ったが、すぐに頷き、瓶を彼女に手渡す。
ミトラはそれを受け取ると、そっとカゲトラの傍らに膝をつき。
「……少し、失礼しますにゃ」
そう言って、彼の頭を自分の膝に優しく乗せた。
全身の骨が砕けている彼に、少しでも負担がかからぬように。その仕草は、まるで壊れ物を扱うように繊細で、慈しみに満ちていた。
「…………っ!?」
カゲトラの耳が、ぴくりと跳ねた。そして、みるみるうちに赤く染まっていく。
「み、ミトラ殿……これは、いささか……っ、いや、ありがたき幸せ……でござるが……っ」
その様子を見ていたリュカとバルドも、思わず顔を背けた。
リュカは口元を押さえながら、肩を震わせている。バルドは咳払いひとつ、顔を真っ赤にして天を仰いだ。
「……なんだろう、すごく……ありがたい光景のはずなのに……見てはいけないものを見ている気がする……」
「拙僧も……同感でござるな……」
ミトラはそんな二人の反応に気づくことなく、そっと瓶の口を傾け、カゲトラの唇にポーションを注いでいく。
「……どうか、少しでも……楽になりますように……」
その声は、まるで愛し子をいたわるようだった。そして、広場に吹く風もまた、どこか優しさを帯びたように感じられた。
「……ん、うぅ……」
最初にまぶたを震わせたのは、コトラだった。続いて、フワリが小さく咳き込み、ニャルが「にゃ……?」と寝ぼけた声を漏らす。
「……コトラ!? フワリ!? ニャル!!」
ミトラが驚きと喜びの入り混じった声を上げる。
けれど、その手はまだ、しっかりとカゲトラの頭を膝に乗せたまま、離そうとはしなかった。
「ミトラ殿……拙者、もう立ち上がれるでござる……」
カゲトラが小さく声を上げる。その頬には、まだほんのりと赤みが残っていた。
しかし、ミトラは首を横に振り、そっと彼の額に手を添えた。
「だめです。……もう少し、このままでいてください……にゃ」
その声は、かすかに震えていた。喜びと安堵、そして感謝が、言葉の端々からこぼれていた。
カゲトラは、それ以上何も言わなかった。ただ、静かに目を閉じ、その温もりに身を預けるように、風の音に耳を澄ませた。
「……あれ? 生きてる……? あたし、生きてるにゃ……?」
ニャルがきょとんとした顔で辺りを見回し、フワリはぼんやりと空を見上げてから、ぽつりと呟いた。
「……夢じゃ、ないよね……?」
「夢じゃないにゃ! これは……これは……」
ニャルがぴょんと立ち上がり、両手を広げて叫んだ。
「奇蹟にゃーーーーっ!!」
その声に、周囲の猫獣人たちも次々と歓声を上げる。
「生きてる!」
「治ってる!」
「すごいにゃ!」
「ほんとに奇蹟だにゃー!」
そして、誰ともなく言った。
「これ、あのおっきい人がやったんだって!」
「えっ!? あの鉄槌の人が!?」
「すごいにゃ!」
「かっこいいにゃ!」
「神様みたいにゃ!」
わらわらと、猫獣人の娘たちがバルドのもとへ駆け寄り、小さな手が彼のローブを引っ張り、しっぽがぴこぴこと揺れる。
「おっきい人、ありがとうにゃー!」
「すごいにゃ、あんな光、初めて見たにゃ!」
「ねえねえ、名前なんていうの!? すごくカッコいいにゃ!?」
「なっ……!? こ、これは……っ!」
バルドの顔が、みるみるうちに真っ赤に染まっていく。
あの異形のコボルトを一撃で砕いた巨体の僧侶が、今や猫獣人の娘たちに囲まれ、完全にお祭り状態。
「ば、バルド……顔、真っ赤だぞ……」
リュカが肩を震わせながら、楽しそうに笑う。
「う、うむ……拙僧はただ、祈っただけで……なぜこうなったのでござろうか……」
「いや、もうちょっとで救い主様って呼ばれそうだったぞ」
「や、やめてくだされ……!」
そんなやりとりをよそに、猫獣人たちの歓声はますます高まっていく。
広場には、戦場の気配をなくし、かわりに笑い声が満ちていた。




