第45話 届かぬ御手、揺らぐ信仰
風が止んだあとも、カゲトラは動かなかった。
腕の中に抱いた猫獣人の女性は、かすかに震えながらも、しっかりと意識を保っていた。
そして、その瞳は、目の前の焼け落ちた里を見つめていた……しばしの沈黙ののち、彼女は小さく口を開いた。
「……ありがとうございます」
その声はかすれていたが、芯のある響きを持っていた。
「わたしは……この里の長をしている、ミトラと申します……。あの子……コトラの、姉です……にゃ」
リュカは、腕の中にいるコトラとよく似た雰囲気に納得し、バルドも静かに頷いた。
カゲトラだけが、しばらく無言だった。
「…………む」
ようやく、彼は自分の腕の中にある温もりに意識を向けた。
戦いの最中、ただ守ることに集中していたその身体が、今もなお自分に預けられていることに、ようやく気づいたのだ。
「……これは、失礼つかまつった」
カゲトラはわずかに顔を背け、そっとミトラを地に降ろした。その仕草は、どこかぎこちなくも丁寧だった。
ミトラはふらつきながらも立ち上がり、深く頭を下げた。
「本当に……ありがとうございました。皆さまが来てくださらなければ、私たちは……」
その声に、誰も言葉を返せなかった。なぜなら、彼らの背後には、瓦れきと化した里の光景が広がっていたからだ。
焼け焦げた家々。倒れたまま動かない猫獣人たちの姿。風が吹くたび、灰が舞い、静かに降り積もっていく。
誰もが、ただその場に立ち尽くし、目の前の現実に、再び深く息を呑んだ。
重苦しい沈黙を、リュカの声が破った。
「……大丈夫。まだ、間に合うさ」
その声は、あえて明るく響かせていた。自分自身に言い聞かせるように、そして誰よりも、ミトラのために。
「ここには頼れる回復職がいる。バルドがいれば、死んでさえいなければ、なんとかなる」
リュカはそう言って、コトラをそっと地に寝かせると、周囲に倒れている猫獣人たちへと駆け出した。
「動けるやつは手伝ってくれ! 広場の中央に集めよう!」
ミトラもすぐに動き出し、残された者たちが次々と協力に加わる。
焼け跡の中から、かすかに息をしている者を見つけては、慎重に運び出していく。
その中心で、バルドは無言のまま立ち尽くしていた。慈悲乃鉄槌を杖のように地に突き立て、ただじっと、集められていく猫獣人たちを見つめていた。
彼女たちは、人ではない。
その思いが、心の奥底からじわりと浮かび上がる。彼の世界には、獣人族など存在しなかった。
人と魔物、そのどちらかに属するものしかいなかった。そして、女神の加護が届くのは、人に限られていた。
魔物は、彼らを統べる魔族と、それを頂点から支配する魔神の人には負となる加護によって癒される。それが、バルドたちの世界における常識だった。
そして、バルドが扱う女神の加護は、あくまで人にのみ許された聖なる恩寵。
それゆえに、その加護は、魔族に属する者たちにとっては、致死をもたらす毒となる。
癒しではなく、浄化。
救いではなく、滅び。
だからこそ、バルドは恐れていた。この者たちが人ではなかったなら、自らの祈りは、彼女たちの命を奪ってしまうかもしれない。
その手に宿る光が、果たして祝福となるのか、それとも……。
「……果たして、届くのか……?」
誰にも聞こえぬ声で、バルドは呟いた。その手は、わずかに震えていた。
彼の中の信仰と現実が、静かにぶつかり合っていた。救いたいという想いと、加護が届かぬかもしれないという恐れ。その狭間で、バルドはただ、祈るように目を閉じた。
ミトラは、リュカの言葉を聞いた瞬間、ぴたりと足を止めた。その顔に浮かんだのは、驚きと、そして……おそれだった。
「……回復が、できる……?」
かすれた声が、唇から漏れる。彼女の視線は、ゆっくりとバルドへと向けられる。
「それでは……この御方は……白印の方であると?」
その言葉には、信じがたいという色が濃くにじんでいた。
獣人族の長であるミトラの知識では、回復の力を持つ人族は確かに存在する。
「……白印の方とは、神の奇蹟を授かりし者。その身は清らかで、華奢で、可憐で……まるで神の使いのような……」
彼女の声が震えていた。そして、目の前に立つバルドを、改めて見上げた。
異形のコボルトもかくやという巨躯。全身を覆う筋肉の鎧。慈悲乃鉄槌を片手で担ぎ、まるで戦場の鬼神のような風貌。
その姿は、彼女が教えられてきた白印とは、あまりにもかけ離れていた。
「……まさか……そんにゃ……」
ミトラの声は、もはや自分に言い聞かせるような呟きだった。それでも、目の前の現実は、彼女の常識を静かに、しかし確実に揺さぶっていた。
この御方が、本当に……神の加護を持つ者なのか? その問いが、ミトラの胸の奥で、重く響いていた。
幸か不幸か……広場に集められた猫獣人たちは、全員が辛うじて息をしていた。とはいえ、瀕死の者は多く、血に染まった毛並みも痛々しい。しかし、ここに死者はいなかった。
それは、奇跡だった。
意識を保っている者たちは、誰ひとり声を発せず、ただ固唾を呑んで見守っていた。
その視線の先に立つのは、巨躯の僧侶……バルド。
彼は静かに目を閉じ、慈悲乃鉄槌を胸の前に立てる。その姿はまるで、戦場にそびえる一本の神殿の尖塔のようだった。
「……女神よ。拙僧の祈り、どうか……この者たちに届きますように」
低く、深く、魂の底から響くような声。その言葉とともに、鉄槌の先端が淡く光を帯び始めた。
「……《癒環の祈祷 (サークル・ヒール)》」
その瞬間、広場全体に柔らかな光が広がった。それは爆発のような派手さではなく、まるで母が子を抱きしめるような、静かで温かな光。
バルドの足元から放たれた光輪は、波紋のように広がり、猫獣人たち一人ひとりを優しく包み込んでいく。
傷口がふさがり、血が止まり、掠り傷や裂傷が癒えていく。苦しげだった呼吸が、少しずつ穏やかになり、痛みに歪んでいた顔が、安らぎを取り戻していく。
だというのに、意識を失った者たちのまぶたは、閉じたままだった。
コトラも、フワリも、ニャルも、その胸はほんのわずかに上下していたが、目を覚ます気配はなかった。
「…………っ」
リュカが歯を食いしばる。ミトラは、手を祈りの形に組んだまま、動けずにいた。
バルドは、静かに目を開けた。その瞳に浮かぶのは、安堵でも、落胆でもない。ただ、深い祈りの余韻。
広場に漂っていた癒しの光は、やがて風に溶けるように消えていった。
その光が残した温もりは確かにあった。
「……女神様へ、拙僧の祈りは……届かなかった……」
その言葉は、誰に向けたものでもなかった。ただ、空へと捧げるように、静かに紡がれた。
「……いや、違う。祈りは届いた。女神様は……この者たちを我らと同じ人と見てくださっている。されど……この地は、我らが女神様が築かれた世界ではない。加護が届かぬ……異なる理の地なのだ」
その声には、深い確信と、拭いきれぬ無力感がにじんでいた。
リュカが顔を上げ、バルドを見つめる。ミトラもまた、言葉を失ったまま、ただ祈るように手を組んでいた。
意識を失ったままの猫獣人の少女たち。
癒しの光に包まれてもなお、まぶたは閉じられたまま。命の灯は、かろうじて揺れているだけだった。
「……この世界では、女神様の御手も、届かぬのか……」
バルドの呟きが、風に溶けていく。その目の前に、慈悲乃鉄槌が重く沈黙していた。
癒しの光はもう消え、その余韻だけが、広場の空気に静かに漂っていた。
まるで、次の奇跡を待ち続けているかのように。




