第44話 烈風の断罪、その腕に守るもの
「……倒すべき敵で、間違いないでござるな?」
カゲトラは腕の中の女性に、静かに問いかけた。その声音はあくまで穏やかで、だが確かな刃のような鋭さを帯びていた。
彼女は苦しげに息を整えながらも、わずかに目を見開き、カゲトラを見上げる。
その瞳に宿る驚きと困惑、そして……ほんの一瞬、迷いをみせた。しかし、すぐにその瞳は強く結ばれ、彼女は小さく頷いた。
「……ならば、拙者が斬る」
カゲトラは彼女を抱えたまま、静かに体勢を低くした。風が彼の足元に集い、草が逆巻くように揺れる。
次の瞬間……風が、唸った。
誰もが、何が起きたのか理解できなかった。
仲間であるリュカも、バルドも、そして敵と認知された異形のコボルト自身すら。
ただ、そこにいたはずの巨体が、突如として四方に弾け飛んだ。黒紫の肉片が風に舞い、地に落ちるよりも早く、霧のように消えていく。
「……ナ、ナ、……ニ…………」
断末魔すら、風にかき消された。
その腕の中に、しっかりと女性を抱きかかえたまま、カゲトラは四散した魔物の背後に立っていた。
彼女は目を見開いたまま、ただ呆然とその横顔を見つめる。
「……しっかり捕まっておられよ。まだ、終わってはおらぬゆえ」
カゲトラの言葉に、彼女は微かに頷くことしかできなかった。その胸の鼓動が、ようやく現実を受け入れ始めていた。
風が止んだ。しかしそこに、静寂は訪れなかった。
家々の残骸の陰、倒れた木々の影、崩れた塀の隙間……そこかしこから、ぞろりと現れたのは、同じく異形のコボルトたちだった。
どれもが、先ほどの巨体に劣らぬ異様な姿。
黒紫の毛並み、禍々しいオーラ、そして……その両腕には、ぐったりとした猫獣人の女性たちが抱えられていた。
まるで戦利品でも運ぶかのように、無造作に。
「……っ!」
リュカがリュートを構え、バルドは静かに数珠を握りしめながら、背中の武器をゆっくりと引き抜いた。
それは、鉄塊のような巨大なメイス……慈悲乃鉄槌。僧侶の名を冠しながらも、バルドの姿はまるで戦場の破壊神のようだった。
それよりも早く、風が動いた。
「……拙者の腕の中にあるもの、守り通すと誓ったでござる」
カゲトラが低く呟くと同じく、風が爆ぜ、次の刹那、彼の姿は消えた。
目にも止まらぬ一閃。一体目の異形が、音もなく崩れ落ちる。
その腕から解放された猫獣人が宙を落ちるよりも早く、カゲトラは器用に彼女を片手で抱きとめ、静かに地面に降ろすと再び風と共に駆けた。
女性獣人をその腕に抱えたまま、二閃、三閃。
まるで舞うように、風が森を駆け抜ける。
抱えた女性を片腕に、もう片方の手で抜かれ、戻す一連の動作がまるで見えぬ速さの居合が、次々と敵を断ち切っていく。
気づけば、異形のコボルトたちはすべて地に伏していた。
その場に立っていたのは、風の中に佇むカゲトラと、彼の腕の中で呆然とする猫獣人の女性だけだった。
「……な、なに……あなた、いったい……」
女性が震える声で呟く。しかし、その問いに答える間もなく。
ズン、と地が揺れた。
「……!」
森の奥から、さらに一際凶悪な気配が現れる。それは、他の異形をも圧倒する二回りも巨体のコボルト。
全身を覆う毛並みは漆黒に近く、背には骨のような突起がいくつも突き出ている。その手には、ぐったりとした小柄な猫獣人……コトラが、まるでこん棒のように逆さに握られていた。
「コトラ……!?」
リュカが目を見開く。
そしてもう片腕には、意識のないフワリとニャルが、まるで荷物のように無造作に抱えられていた。どちらも頭から血を流し、ぐったりとしたまま動かない。
「……これほどの業、見過ごしては、魂に泥が塗られるわ」
バルドが低く呟き、慈悲乃鉄槌を肩からはずし構える。その瞳には、僧侶の慈悲を焼き尽くすほどの怒りが燃えていた。
「救えぬ者がいることは、拙僧とて承知しておる……されど、これは……許せぬ」
リュカは、さっきまで楽しそうに喋りかけらていた……いまは血に濡れて意識もない彼女たちを見つめた。その胸に、怒りが、悔しさが、どうしようもない無力感が渦を巻く。
「……音で癒やすことしかできない俺が、音で誰かを救えないなら、せめて……」
怒りのあまり微かに震える指先で、リュートの弦にそっと触れる。
その音は、風を呼ぶ祈り。しかし今は、祈りでは足りない。
「……風よ、導け。この怒りを、刃に変えてくれ」
リュカの声が、低く、鋭く響いた。
風が、再びざわめき始めた。それは、優しさではなかった。怒れる風、悲しみに濡れた旋律が、空を裂く。
漆黒の異形が、口の端を吊り上げた。
その手に握られたコトラが、ぐらりと揺れる。まるで、これから始まる惨劇を告げる鐘のように。
しかし、その始まりは、訪れなかった。
「《風詠みの旋律・第二楽章……烈風ノ断罪》」
リュカのリュートが、空を裂くように鳴り響いた。
その音は風を呼び、風は怒りをおび唸りを上げ、空が割れ、雷鳴のような音が森を揺らした。
「……南無三ッ!!」
バルドが咆哮とともに、慈悲乃鉄槌を振りかぶる。
その一撃は、風の奔流をまとい、まるで天から下された審判の鉄槌。風と音と怒りが一つになり、地を砕き、空を裂いた。
異形のコボルトが何かを叫ぶよりも早く、その巨体は、風に押し上げられ、バルドの一撃を真正面から受けた。
「……応報、受けよや!!」
慈悲乃鉄槌が振り下ろされる。
地が爆ぜ、空気が震え、風が爆風となって吹き荒れ、次の瞬間、漆黒の巨体は、音もなく崩れ落ちた。
その腕から解き放たれたコトラが、宙を舞う。
小さな身体が、空中でくるりと回転しながら落下していく。
「……風よ、導け!」
リュカがリュートを鳴らし、風をまとって跳ね上がる。その身はまるで風そのものとなり、軽やかに宙を駆け、コトラの身体をふわりと抱きとめた。
「よく頑張ったな、コトラ……もう大丈夫だ」
その声に、コトラのまぶたがほんの僅かに震えた。
そして、もう片腕から投げ出されたフワリとニャルが、無防備に落下していく。
「……おお、慈悲よ」
バルドが静かに呟き、慈悲乃鉄槌を地に突き立てた。その巨体が音もなく跳躍し、両腕を広げる。
「おう……よう戻って来たな。おう、よう頑張った」
その腕に、ふわりと収まる二つの小さな身体。
バルドはそっと膝をつき、まるで壊れ物を扱うように、二人を胸元に抱き寄せた。
異形のボスは、もはや原形を留めていなかった。風に刻まれ、鉄槌に砕かれ、ただ黒い霧となって消え去っていた。
「……終わった、か」
リュカがリュートを下ろし、深く息を吐く。
「拙僧の魂も、少しは洗われた気がいたす」
バルドが静かに目を閉じ、抱きしめた二人の額にそっと手を添えた。
風が、ようやく穏やかに吹き抜ける。
その風は、確かに語っていた。怒りと悲しみの果てに、正義が振るわれたことを。
風が止んだ。
空気が静まり返り、森のざわめきすら遠のいていく。
リュカ、バルド、カゲトラの三人は、互いに視線を交わした。
戦場に満ちていた異形の気配は、もはやどこにも感じられない。
風の流れが変わった。それは、熟練の冒険者たちにとって、何よりも確かな終わりの合図だった。
「……敵勢、壊滅でござるな」
カゲトラが静かに呟く。
しかし、そこに安堵の色はなかった。むしろ、三人の胸を満たしたのは、別の感情。
「……これは、ひどい……」
リュカが、コトラを抱いたまま、里の方角を見やる。
そこに広がっていたのは、かつての穏やかな暮らしの面影を失った、瓦礫と炎の残骸だった。
小さな家々は焼け落ち、地面には無数の爪痕と血の跡。風に乗って漂ってくるのは、焦げた木材と、鉄の匂い。
「……まるで、戦場そのものだ」
バルドが低く呟き、腕の中の猫獣人の少女たちに目を落とす。
フワリとニャルは、いまだ目を覚まさない。
その額には血がにじみ、呼吸は浅く、かすかに震えるだけ。リュカの腕の中のコトラも、意識は戻らず、か細い息を繰り返している。
「……間に合った、のか……?」
リュカの声は、風にかき消されそうなほど小さかった。
誰も答えられなかった。
ただ、三人はその場に立ち尽くし、目の前の現実に、静かに息を呑んだ。




