第38話 白き刻印、はじめての祝福
魔力の暴走が収まり、頭痛が消えてから、雪の身体は少しずつ安定していった。
そしてある日、ついに雪は、装置の外に出ることが許された。
初めて感じる空気の流れ。
誰かの手に抱き上げられ、柔らかな毛布に包まれながら、雪は世界の温度を知った。それは、前世では一度も味わえなかった、生きているという実感だった。
けれど、退院はまだできなかった。
身体の状態は安定してきたとはいえ、まだ小さく、慎重な経過観察が必要だった。
そして雪自身も、うすうす気づいていた。自分は、前世とは違う性で生まれ変わっている。
鏡に映る顔は、前世の少女の面影を残しながらも、どこか違っていた。肌のきめ細かさや、指先のかたち、声の響きや、身体の軽さ……どれもが、前とは少しずつ違っていた。
けれど、それは決して強くなったとか男らしくなったというものではなかった。どちらかといえば前世よりも、ずっと繊細で、可憐で、華奢にみえた。一箇所を除いて。
(ああ、そうか……あたし、男の子なんだ)
その事実に気づいたとき、雪はほんの少しだけ、胸の奥がざわついた。けれど、不思議と拒絶感はなかった。むしろ、どこか納得するような、静かな受け入れがそこにあった。
(でも……それでも、あたしは……雪だ)
前世の記憶も、今の身体も、すべてが自分を形づくるかけがえのない一部。そう思えたのは、きっと、この世界で出会った人たちが、雪を『雪』として見てくれていたから。
不思議と、混乱はなかった。驚きはあったけれど、それよりも。
(今度は、ちゃんと生きられるなら、それでいい)
そう思えたのは、きっと、前世で生きることに渇望していたからだ。
そしてもうひとつ。
この世界では、男性は非常に貴重な存在だった。出生率の激減により、男性の数は極端に少なく、国家レベルで保護対象とされていた。
そのため、雪の存在は慎重に扱われ、外部との接触も制限されていた。
けれど、それでも雪は、確かにこの世界に生きている。そう考えるだけで、胸の奥がじんわりとあたたかくなった。
ハイハイができるようになったのは、雪が一歳を迎える少し前のことだった。まだ身体は小さく、動くたびにふらふらと揺れてしまうけれど、それでも、前へ進めるようになったのが、嬉しくてたまらなかった。
そんな雪のそばには、いつも朱音がいた。赤い髪をふわふわ揺らしながら、雪の前にしゃがみこみ、「ほら、こっちこっち!」と、両手を広げて待っていてくれる。
ある日、雪はついに、朱音の手を握って立ち上がった。
ぐらり、と体が揺れる。けれど、朱音はしっかりとその手を握り返してくれた。
「だいじょうぶ、雪ちゃんは、あたしが守るから!」
それが、朱音の口癖だった。何かあるたびに、転びそうになるたびに、彼女はそう言って、雪の前に立った。
その言葉が、どれほど心強かったか。その手が、どれほどあたたかかったか。雪は、まだうまく言葉にできなかったけれど。
その日、雪は初めて、自分の足で立ち、歩いた。
よちよちと、たどたどしく。けれど、確かに一歩ずつ、朱音の手を握りしめながら。
その瞬間、朱音はぱあっと笑って、「やったー! 雪ちゃん、歩けたー!」と、まるで自分のことのように喜んでくれた。
雪も、笑った。ふたりの笑顔が、病室の光をやさしく照らしていた。
雪がひとりで歩けるようになったのは、ある春の朝だった。
朱音の手を借りずに、ふらつきながらも自分の足で歩く姿に、医師たちは目を見張った。検査の結果も良好で、魔力の安定も確認された。
そして、雪が三歳になった日に、ついに退院の許可がおりた。
それは、雪にとって夢のような出来事だった。
前世では、ずっと病院のベッドの上で過ごしていた。窓の外を眺めることはあっても、外に出ることはなかった。だからこそ、家に帰るという言葉が、こんなにも胸を震わせるなんて、思ってもみなかった。
もちろん、セキュリティは厳重だった。
雪が男の子であるというだけで、この世界では特別な存在だったから。
けれど、それでもいい。家に帰れる。家族と一緒に暮らせる。
その事実だけで、胸がいっぱいになった。
退院の日、朱音がいつものように手を差し出してくれた。
「さあ、行こっか、雪ちゃん!」
その声は、いつも以上に軽やかで弾んでいた。
雪は、にこりと笑って、その手を握った。小さな手と小さな手が、しっかりとつながる。
そしてふたりは、病院の扉をくぐった。
外の光が、まぶしかった。
風が頬を撫で、草の匂いが鼻をくすぐる。空は、どこまでも広くて、青かった。
(ああ……これが、外の世界)
雪の胸に、静かに、でも確かに、生きているという実感が満ちていった。
迎えの車が病院の前に到着し、雪は朱音と手をつないだまま、ゆっくりと歩を進めていた。
初めての外の空気。初めての帰る場所。
胸が高鳴る。けれど、その想いを引き裂くように
「神の子を、我らの手に!」
鋭い叫び声とともに、黒いフードを被った女たちが、突如として現れた。
その手には、鈍く光る刃。
雪をめがけて、一気に距離を詰めてくる。
(なに……?)
理解が追いつく前に、朱音が雪の前に立ちはだかった。
「雪ちゃんは、あたしが守る!!」
その声は、震えていた。けれど、確かだった。
朱音の小さな手が、空を切る。指先に灯った炎が、襲撃者たちの足元を焼くように走った。
「下がって! こっち来ないで!」
幼いながらも、彼女の魔法は確かに敵をけん制していた。
「邪魔をするな、小娘が!」
一人の襲撃者が、朱音の魔法をかいくぐり、刃を振りかざす、その瞬間、鋭い閃光が走った。
「……お姉ちゃん!?」
雪の叫びと同時に、朱音の小さな身体が、地面に崩れ落ちた。
頬に血が飛び散り、世界が、色を失う。
雪の胸が、理解が追いつかないまま張り裂けそうになる。
だがその刹那、その場の空気が震えた。
「国家保護機構、制圧に入る!」
黒いスーツに身を包んだ精鋭たちが、四方から現れた。魔導杖の閃光が走り、襲撃者たちの動きが一瞬で封じられ、魔法障壁が展開され、雪と朱音の周囲を守るように包み込む。
「対象確保、完了!」
「負傷者を搬送、至急治療を!」
すべてが、ほんの数十秒の出来事だった。けれど、雪にとっては、永遠にも思える時間だった。
朱音は、意識を失っていた。けれど、その顔には、うっすらと笑みが浮かんでいた。
(どうして……どうして、こんなに小さいのに……)
雪は、震える手で朱音の手を握った。その手は、まだあたたかかった。
だけど、朱音の手を握った瞬間、雪は言葉では説明できない感覚に包まれた。
目の前の彼女の命が、急激に薄れていくのが、なぜかはっきりとわかった。
(だめ……このままじゃ、間に合わない)
搬送の準備が進められている。けれど、雪にはわかった。このままでは、朱音の命は……。
そのときだった。額に、鋭い痛みが走った。
「っ……!」
思わず目を閉じた雪の意識の奥で、何かが開かれる感覚があった。痛みの中心から、あたたかく、やさしい何かが、じんわりと染み出してくる。
それは、まるで前世の記憶の奥底にあった願いが、形になってあふれ出すような感覚だった。
誰かを癒したい。誰かの痛みを、少しでも和らげたい。あの頃、画面の中の少女に重ねた夢が、いま現実になろうとしていた。
雪の額に浮かぶ白印が、淡く、やわらかな光を放ち始める。その光は、ふわりと広がり、雪と朱音の身体をそっと包み込んだ。
まるで、春の陽だまりのような、深い海の底で揺れる波のような、あたたかくて、やさしい光。
周囲の空気が静まり返る。
国家保護機構の隊員たちも、思わずその光に目を奪われていた。
雪は、ただ朱音の手を握りしめたまま、その光の中で、祈るように目を閉じていた。
光が、すうっと収まっていく。まるで役目を終えたかのように、雪と朱音を包んでいた淡い輝きが、静かに消えていった。
「……朱音……お姉ちゃん……」
雪は、まだ手を握ったまま、そっと彼女の顔をのぞき込んだ。
その頬に、ほんのりと赤みが戻り、胸が、かすかな上下を繰りかえす。
「……ゆき、ちゃ……ん……?」
かすれた声が、雪の耳に届いた。朱音のまぶたが、ゆっくりと開かれる。焦点の合わない瞳が、やがて雪を見つけて、ふわりと笑った。
「……泣いてるの……雪ちゃん?」
「……朱音……お姉ちゃん……」
雪の目から、ぽろぽろと涙がこぼれた。
言葉にならない想いが、あふれて止まらなかった。朱音は、そんな雪の頬に手を伸ばし、そっと涙をぬぐった。
「だいじょうぶ……あたし、ちゃんと守ったよ……」
その声は弱々しかったけれど、確かな生命を感じた。
雪は、何度もうなずきながら、彼女の手をぎゅっと握りしめた。
その様子を見ていた、国家保護機構の隊員たちが、ざわめき始める。女性だけで構成されたその部隊の中で、ひとりの隊長格の女性が、驚きに目を見開いた。
「……今の、白印の発光……」
「まさか、あの年齢で……」
「白印レベル、A級……いえ、それ以上の可能性も……」
別の隊員が、震える声でつぶやく。
「記録が正しければ、白印の覚醒は早くても十代前半のはず……」
「この子は、いったい……」
彼女たちの視線が、雪に集まる。
けれど、雪は気づいていなかった。ただ、朱音が生きていることに、心から安堵していた。
その小さな背に、まだ誰も知らない奇跡の重みが、そっと降り始めていた。




