第37話 白き記憶、灯る小さな炎
白銀坂 雪は、この世界に転生してきた存在だった。偶然なのか必然なのか、前世でも名前は雪であった。
けれど、それはよくある、日本で暮らしていた高校生やオフィスワーカーが異世界や別の世界軸に転生する物語のようなものではない。
雪が生まれ変わったのは、この世界の過去から……まだ男女の数が等しく、魔石も存在しなかった時代からだった。
前世での雪は、重い病を抱え、幼い頃から病院のベッドで過ごしていた孤独な少女だった。
裕福な家に生まれ、病院も親戚が経営するものだったが、兄弟はいなく、両親は忙しさを理由に、ほとんど見舞いに来ることはなかった。
世界は、白い天井と点滴の音、そしてタブレットの画面だけでできていた。
そんな日々の中で、彼女の唯一の楽しみだったのが、アイドルのライブ映像やアニメを観ること。特にお気に入りだったのは、難病を抱えた少女が仮想空間で仲間とともに冒険するファンタジー作品だった。
その少女が、限られた時間の中で笑顔を絶やさず、仲間と絆を深め、戦い、夢を追い続ける姿に、雪は心を重ねた。
(あんなふうに頼れて、頼りにされる仲間と一緒に、冒険の旅に出られたらいいのに……)
現実では叶わないその夢を、想像の中で何度も繰り返すことが、雪にとって何よりの楽しみだった。剣を振るうことも、走ることも、誰かと笑い合うこともできない日々。
だからこそ、夢見た。いつか、自由な身体で、誰かと一緒に、世界を駆ける日を。
そしてもうひとつ彼女が心惹かれたのは、歌って、踊って、みんなに笑顔をとどける、そんなステージに立つこと。
画面の中で輝くアイドルたちに憧れ、冒険することと、アイドルになること。 そのふたつは、彼女にとって何よりも強く、切実な夢だった。
しかし、夢を叶えることもなく、雪は静かにその短い生を終えた。
次に雪が目を覚ましたのは、真っ暗な空間だった。目を開けているのか、閉じているのかもわからない。手も足も動かせず、声も出せず、ただ、どこまでも静かな闇の中に沈んでいた。
怖い……最初はそう思った。ここはどこ? あたしは、またひとりなの? 今度は、何も見えないまま終わってしまうの?
けれど、不思議なことに、その恐怖は、すぐに消えた。
暗くて、狭くて、息をしているのかさえわからないのに、なぜか、心は穏やかだった。
温かく、やわらかく、包まれているような感覚。まるで、深い深い水の底で、優しく揺られているような。
そして、かすかに聞こえてきた。誰かが語りかけてくる声。 内容はわからないけど、なぜか伝わってくる。
「大丈夫よ」
「あなたは、ここにいていいのよ」
そんな想いが、胸に染み込んでくる。
それは、きっと、母の声だった。
雪は知っていた。これが、二度目の生なのだと。そして今度こそは、ちゃんと生きるのだと。
やがて、光が差し込んだ。まぶしさとともに、世界が開かれる。
雪は、力いっぱい産声を上げた。新しい命として、この世界に生まれ落ちた。
声を上げたその瞬間、雪は不思議な感覚に包まれた。目はまだ開かず、光も形もわからない。けれど、まるで心に直接触れるように、周囲の気配が流れ込んできた。
歓声。安堵の吐息。そして、どこか焦ったような、切迫した声。
「すぐに処置を!」
「装置に! 早く!」
言葉の意味は、わからないはずだった。けれど、なぜか伝わってきた。まるで、音ではなく感情そのものが、雪の中に染み込んでくるように。
(また……?)
せっかく生まれ変わったのに。また、病気なの? また、ひとりで、ベッドの上で過ごす……?
恐怖が、胸を締めつけた。
その瞬間、頭の奥が焼けるように痛んだ。まるで、前世の記憶と今の現実がぶつかり合い、軋んでいるかのように。
雪は小さな身体を震わせながら、意識の底へと、静かに沈んでいった。
目が覚めるたびに、頭の奥がずきずきと痛んだ。 まるで、何かが軋みながら馴染もうとしているような、そんな感覚。雪は泣くこともできず、ただ静かにその痛みに耐えるしかなかった。
けれど、少しずつ……ほんの少しずつ、世界は輪郭を持ち始めた。光が差し込み、色が生まれ、やがて、目が見えるようになった。
最初に見えたのは、透明な装置の向こう側にいる人の姿。
ぼんやりとした輪郭の中で、いつもそこにいて、じっとこちらを見つめてくれている。
たぶん……お母さん。名前も知らないのに、そう思えた。
目が合うと、彼女はにっこりと笑った。その笑顔は、まるで光そのもののようで、雪の胸に、じんわりとあたたかいものを灯してくれた。
(……大丈夫。今度は、ひとりじゃない)
そして、もうひとつの小さな存在。その人の隣に、赤い髪の幼い女の子が、たまに顔をのぞかせていた。
まだ小学生の低学年らしきその子は、装置の中の雪を見つけるたびに、目をまんまるにして、嬉しそうに笑ってくれた。
飽きもせず、何度も何度も、雪の顔をのぞき込んでは、まるで宝物を見つけたみたいに、目を輝かせていた。
その笑顔が、どれほど雪の心を救ってくれたか……このときの雪は、まだ知らなかった。
頭痛は、まだ続いていた。
目が覚めるたびに、ずきん、と鈍い痛みが雪の意識を曇らせた。けれど、それでも雪は、あの赤い髪の女の子が来てくれるのを、いつも楽しみにしていた。
その日も、彼女はやってきた。
装置の外から、にこにこと笑いながら、雪の前にちょこんと座る。そして、いたずらっぽく指を立てると、その指先に、小さな炎が灯った。
それは、ろうそくの火のように揺らめきながら、ふわり、と宙に浮かび、赤い小さなドラゴンの形をとって、くるくると舞い踊った。
雪は、息を呑んだ。
目の奥の痛みも、胸の苦しさも、すべて忘れるほどに……ただ、見とれていた。
(なに、これ……)
その瞬間、病室の扉が開いた。お母さんと思えるその人が、少し慌てた様子で駆け寄ってくる。
「ちょっと! 病室でなにしてるの! 魔法をこんなところで使っちゃダメでしょ!」
赤い髪の女の子は、はっとして、しゅんと肩を落とした。炎のドラゴンはふっと消え、指先には何も残らなかった。
けれど、雪はそれどころではなかった。叱られる彼女を見ながら、胸の奥がざわざわと震えていた。
この世界には……魔法がある。
それは、前世で夢に見た冒険の世界。画面の中でしか見られなかった、あの奇跡が、ここには確かにある。
雪の中で、何かがはじけた。痛みの向こうに、確かに灯った。希望という名の、小さな炎が。
それからというもの、雪は考え続けていた。
この世界には魔法がある。あの赤い髪の女の子が見せてくれた、小さな炎のドラゴン。あれは、ただの幻じゃない。確かに、そこに在った。
(もしかして……この頭の痛みも、魔法と関係があるんじゃ……?)
そう思ったのは、ある夜のことだった。また、いつものように頭が痛んで、眠れずにいたとき。ふと、前世で読んだ小説やアニメの記憶が、脳裏をよぎった。
「魔力が暴走すると、頭痛や発熱が起こる」
「魔力を制御できない子どもは、体調を崩しやすい」
(……あるあるだ)
前世では、ベッドの上の小さな世界でそんなテンプレをいくつも観てきた。そして今、自分の身に起きていることが、まさにそれじゃないかと気づいた。
(だったら……やってみよう)
雪は、目を閉じた。
頭の奥に渦巻く、あの熱のようなものに、そっと意識を向ける。最初は、触れようとするたびに、びりびりとした痛みが走った。けれど、何度も、何度も。
少しずつ、少しずつ、雪はその熱の輪郭を掴んでいった。
そして、ある瞬間。ふっと、何かがほどけた。
まるで、きつく締められていた糸が解けたように、あれほど雪を苦しめていた頭痛が、すうっと消えていった。
(……やった)
雪は、そっと目を開けた。
世界は、何も変わっていない。けれど、自分の中には、確かな変化があった。
魔力を、自分の意志で感じ取れる。 それは、まるで新しい手足を得たような感覚だった。
雪は、微笑んだ。
この世界で、自分にもできることがある。そう思えた瞬間だった。




