第40章 海亀もどきの泣き言
Chapter 40 Complaint of Mock Turtle
試合の終わったクロッケー・グラウンドは後片付けの真っ最中だった。白兎が全体の指揮をとり、先程まで選手だったトランプ兵たちがそこらを逃げ回るフラミンゴと針鼠を必死に回収している。皆忙しそうなので、アリスは自分でフラミンゴと針鼠を柵の中へ連れて行った。
「海亀もどき? あいつに何の用があるんです? ――ああ、話をさせるんですか、じゃあ海岸に行くんですね」
声がする方を見ると、グリフォンが女王から命令を下されているところだった。さっきまで女王に追い掛け回されていたグリフォンは見るからにくたくただった。赤いモーニングコートもフラミンゴのくちばしのせいで裂いたような傷だらけで、いかにも手負いという感じだ。
そんなぼろぼろの臣下に厳命した後、女王はさっさと己が城へ歩いて行った。
「仕事を増やしちゃってごめんなさい。疲れてるでしょ?」
女王がその場を離れたのを見て、アリスはグリフォンに駆け寄った。アリスの謝罪に、グリフォンは軽く肩をすくめただけだった。
「君を乗せるくらいかまわないさ。それに、どうせここにいたって片付けの手伝いをさせられるだけだしね。それじゃあ早速行こうか」
そう言ってグリフォンは獣の姿になると、アリスを乗せて城を飛び立った。アリスの服装が変わっているのでエプロンを手綱代わりにすることはできなかったが、すでに何度か乗せてもらっているので必要なかった。
高度はぐんぐんと上がり、ハートの城はあっという間に人形の住処のようになった。
「海亀もどきっていうと、公爵夫人の旦那さん?」
アリスは何とはなしに質問した。空は澄み渡り、陽の光はうらうらと輝いている。
「そうだよ、だから公爵になる。今は海の屋敷で暮らしてるんだ。それからね、俺はあいつとは同学なんだよ」
「女王様から聞いたわ。どんな学校なの?」
「海の学校ってとこだよ。不思議の国一の学び舎さ。まあ、そこしか学校がないんだから、当たり前だけど」
話をしているうちに眼下の深い森が途切れ、白い砂浜と青い海が見えてきた。徐々に下降して行くと涙の池よりもずっと濃い潮の香りが漂ってくる。
静かに着陸したグリフォンの背から、アリスは靴に砂が入らないようにゆっくりと降りた。
潮風になぶられた髪を押さえつつ周囲を見渡すと、岩場に何か生き物がぽつんと座っているのが見えた。その生き物に向かって、人の姿になったグリフォンが片手を上げた。
「海亀もどき!」
グリフォンの声に、生き物がのろのろと顔を上げた。海亀の体に小牛の頭と尻尾がついた一風変わった姿をしている。歩いて近づくにつれ、その丸い目が憂慮が堪えないとばかりに涙でうるんでいることに気づいた。
「ああ、君か」
海亀もどきはグリフォンを視界に入れながらそう言うと、長い長い悲しげな溜め息を吐いた。
都合の悪いときに来てしまったのだろうか。アリスはためらって足を止めたが、その様にも友人の悲しげな姿にも、グリフォンは笑っただけだった。
「こいつはいつもこんな感じだよ。何にも悲しいことなんかないんだから」そう言うと海亀もどきに向かってアリスを右手で示した。「急に来て悪かったね。この子がお前の話を聞きたいんだってさ」
アリスが聞きたいと言ったわけではないが、それは黙っておいた。
「ああ、王女様だね」海亀もどきはちらとアリスを見てから、ひれで向かいの岩を差した。「いいよ。そこへお座りよ。話が始まったら、終わるまで口をきいちゃ駄目だよ」
アリスとグリフォンは言われた通りに岩に腰掛けた。そしてそれを確認するや、海亀もどきはなんとも憂鬱そうに息を吐き、しくしくと涙を流し始めた。
アリスは声を掛けようとしたが、横にいるグリフォンが人差し指を口元に当てて「静かに」の仕草をしたので開きかけた口を閉じた。
「僕は――そこにいるグリフォンもだけど、僕たちは海の学校に通ってたんだ」
海亀もどきがひれでグリフォンを指し示した。アリスはグリフォンを目だけで見て、首を縦に振った。
「最高の教育を受けたんだよ。ほんとさ。読み書きはもちろん、加減乗除に外国語、音楽、それに洗濯!」
「洗濯?」
アリスは思わず口をはさんだ。しかし海亀もどきは気にした様子もなく、むしろアリスの反応に気を良くしたように大きくうなずいた。
「そうさ、洗濯さ。ここまで学ぶなんて、なかなかないだろう?」
「ええ、確かにそうね」
洗濯は学ぶものではなく、してもらうものだと思ったが、アリスは余計なことを言わないことにした。
「いい教育を受けたおかげで、いい娯楽を享受できるってわけさ。そうそう、ロブスター・カドリールを見たことがある?」
「いいえ」アリスは首を横に振った。「ないわ。どんなものなの?」
「すばらしいダンスだよ。まず海岸に一列――いや、違った、二列になるんだ」
言いながら、海亀もどきは海岸を見せびらかすようにひれをぐるりとめぐらした。
「一方はロブスター。そしてもう一方は海の仲間たち、アザラシ、ウミガメ、サケなんかさ」そこで言葉を切り、神妙に声を落とした。「ただし、くらげはのぞいて。これは絶対の約束なんだ」
「大変なダンスなのね」
「まあね。でも、ダンスには作法がつきものさ。なんの約束もなくただ動き回るなんて、そんなのはいかれてるよ」
海亀もどきはここでふうと一息吐いた。その隙にアリスが横目でグリフォンを見てみると、居眠りの真っ最中だった。疲れていたのか、話に飽きたのか、その両方かだろう。
「僕の話はこれでおしまい。何か聞きたいことはある?」
よくわからない話が終わりアリスはほっとしたが、問いかけには少し頭を悩ませた。何もないと言うのも、あまりにそっけない気がする。
「どうして公爵夫人と別々に暮らしてるの?」
アリスのようやく思いついた質問に、海亀もどきは目をぱちぱちさせた。そしてあらぬ方向を見つめて溜め息を吐いた。今までで一番の、体の中の息を全て吐き出さんばかりの溜め息だった。
「料理女が胡椒を入れ過ぎるからさ。彼女は気にしないけど、僕は耐えられなかった」
その味を経験しているアリスは、海亀もどきに心から同情した。彼ほど悲観主義でなくても、あれが毎日、毎食続くなんてとてもじゃないが耐えられない。
「それが悲しくて、いつも泣いてるの?」
「いや、そればかりじゃないさ。世の中にはたくさんの悲しいことがある」
海亀もどきは首を回して静かな海を見つめた。鏡のような水面は陽光をきらきらと照り返している。
「僕は昔、正真正銘の本物の海亀だったんだ」
ぽつりと呟くと、小牛の顔ですん、と鼻をすすり、小牛のしっぽで軽く岩をたたく。
「それが今はこのザマさ。昔と今と、そしてこれからも、今と違うものになるんだ。似ても似つかないものになるかもしれない。これを悲しまずにいられるかい?」
海亀もどきはそう言うと、両のひれの甲で目を覆い、ひたすらおいおいと泣くのだった。




