第32章 のぞく糸口
Chapter XXXII Clue to peep out
“王女様のお披露目”という言葉にアリスの体はふらつきそうになるが、すぐに気を取り直して足にぐっと力を入れた。白兎の様子から今夜城で何かあるらしいことは察していたが、そこまで盛大なものだとは思わなかった。
アリスは額に手を当てて溜め息を吐いた。
「随分と急なのね」
「そうかな?」グリフォンは打ち合わせた手をそのままにアリスの顔を見た。「めでたいことはできるだけ早くお祝いするべきだよ! 招待状はもう出したから、あとはお客が来るのを待つだけさ」
「誰が来るの?」
「不思議の国の住人ほとんどが来るよ。だから食べ物もたくさん用意される。おいしいものが目一杯食べられるんだよ」
グリフォンはひたすら、今夜の祝宴で供されるであろう食事が楽しみらしい。何もない宙にそれらを描き、楽しげに見上げている。
とても彼ほど浮かれた気分になれないアリスは苦笑しながら、三月兎が「ハートの城から特別なお菓子を依頼された」と言っていたのを思い出していた。間違いなく今夜のお披露目のためだろう。
「それ、俺は呼ばれてないけど」
チェシャ猫がティーポットを片手に小首を傾げて訊ねた。招待される“ほとんど”に含まれていなかったらしい。さも不思議そうに問われた言葉にグリフォンはぱっとそちらを向くと、目を見開いてきょとんとした。
「何言ってるんだよ。死刑囚なんか招待されるわけないじゃないか」
「でも、せっかくの祝い事だろ? 恩赦ってこともある」
「ないよ。あったとしても、お前は無理だね」
グリフォンは呆れたように片手をひらひらと振る。そしてアリスに向き直り、ハートの城がある方向を指差した。
「さあ帰ろうか。あんまり遅くなると陛下の機嫌が悪くなる」
「ああ、そうね、ええと……」
アリスは言葉を濁し、目だけでチェシャ猫の方を見た。完全には信用できないとはいえ彼は唯一の味方だ。しかしグリフォンの前では大した相談もできず、このまま別れてしまったら次に会えるのはいつになるかわからない。
ぐずぐずしていたアリスの横で、グリフォンはさっさと獣の姿に変わっていた。諦めたアリスが大人しく彼の背に乗っていると、チェシャ猫が近づいてきた。
「こいつは持って行ってよ。どうせ城に行くんだろ」
言いながら手渡されたティーポットを受け取った途端、耳元に吐息がかかるほど近くでチェシャ猫が囁いた。
「また明日会おう。城の外に出てくれたら、俺から会いに行くよ」
アリスが顔を上げると同時にチェシャ猫はぱっと離れ、素知らぬ風でいつものニヤニヤ笑いを浮かべている。
とりあえず交わした約束にアリスはほっとした。すると手の中でティーポット蓋がひとりでに開き、眠り鼠が顔をのぞかせた。鼻とひげをひくひくさせて「何の話?」と眠たげな声を出す。
「ああ、その中に眠り鼠がいたんだ。そうだね、眠り鼠は招待されてるよ。お前と違ってね」
グリフォンは首を回してティーポットとチェシャ猫を見比べると、おかしそうに笑った。チェシャ猫の方は気を悪くした様子もなく肩をすくめただけだった。
「そういうことだね。のけ者は邪魔にならないところで大人しくしてるよ」
アリスは少しだけ気の毒に思ったが、あの女王がいるハートの城へ来てもいいとはとても言えない。離陸し始めたグリフォンの背からアリスが手を振ると、チェシャ猫も振り返した。
「今日はありがとう。さよなら」
「ああ、さよなら」
夕闇が迫る空を飛んでいると、すぐにハートの城が見えてきた。近づくにつれ、赤い城が色とりどりの旗やランプ、垂れ幕で飾り立てられているのがわかった。垂れ幕に踊る“Princess Alice”の文字を見てアリスは顔を顰めた。
敷地で花火の用意をしているトランプ兵を眺めながらグリフォンが着地したのは、城の外壁に並ぶバルコニーの一つだった。アリスがその背から降りると、すぐに獣から人の姿に変化する。
バルコニーの扉は閉まっていたが、彼が取っ手を軽く引くと音も無く開いた。
「ここだけ鍵を開けておいたんだよ」グリフォンが内緒話をするように声を顰めた。「本当はちゃんと門から入らないといけないんだ。仮にも女王陛下付きの使用人がそんなことじゃ、示しがつかないって。でもこっちの方が楽なんだよね」
薄暗い部屋に入るとグリフォンは慎重に扉を閉めた。鍵をかけている背中を見つめながら、アリスも声を顰めて訊ねた。
「じゃあ、もし見つかったら大変なんじゃない?」
「そうなんだよ。白兎もだけど、陛下が一番怒るんだ。だから陛下には秘密――」
そこまで言って振り返ったグリフォンの視線がふと部屋の戸口のあたりで釘付けになり、そのまま口も動きも止まってしまった。アリスが首を傾げてそちらを見ると、そこには女王が腕を組んで立っていた。
「誰に何を秘密なんだ?」
女王は目を細めて微笑んだ。仄暗い室内で見ても、決して楽しくて笑っているわけではないとわかる笑みだった。
「陛下、こちらにいたんですか?」グリフォンは驚きのあまりひっくり返った声を上げた。それから慌てて背筋を伸ばし、ごまかすような愛想笑いを浮かべる。「用もないのに客間にいていいんですか? 今日は忙しいでしょうに」
女王は答えず、組んでいた腕をゆっくりと解いてサーベルの柄に触れた。
「秘密を守る方法を知っているか? それを知る者をできるだけ少なくするんだ――出所のお前がいなくなってみるか?」
「すみません!」グリフォンはすぐに己の非を認めた。「もうしませんよ、本当ですってば!」
しばらく睨んでいた女王だったが、「まあいい」とサーベルから手を離した。血の惨劇とならずにすみ、アリスとグリフォンは一緒にほっとした。
「お前にかまっていられないほど忙しいのは確かだ。今夜は不思議の国の王女の――次期女王の――つまりお前のための祝いだからな」
そう言って女王がアリスの肩に手を置いた。突然だったのでアリスはびっくりして体を強ばらせたが、何とか笑みを浮かべた。女王もアリスの様子に満足そうに口端を吊り上げる。
「王女のことはすでに国中に知らせてはあるし、お前も住人の幾人かには顔を合わせただろう。しかし正式に姿を見せるのは初めてになる。今日は記念すべき日だ」
女王はそこで言葉を切ると、バルコニーの向こうの大手門の方角に目をやった。
「そういえば、招待した住人達がそろそろ到着する時間だな」
「ああ、それならこいつが一番乗りですよ」
グリフォンがアリスからティーポットをひょいと取り上げ、女王の前に差し出した。比較的穏やかだった女王の表情がいつもの不機嫌そうな顔に戻った。
「何だこれは。俺の国の住人に陶器なんかいないぞ」
「違いますよ。眠り鼠ですよ」
さらに眉間の皺を深くした女王は蓋を開けて手を中に突っ込むと、眠り鼠の首根っこを掴んで彼を自分の目の高さまで持ち上げた。
衝撃にうとうとしながらも瞼を持ち上げた眠り鼠は、鼻先で睨む女王にぎょっと体を跳ねさせた。
「女王様が目の前に」眠り鼠はぱちぱちと瞬きをして、辺りをきょろきょろと見回した。「僕、大きくなった?」
「寝惚けてるのか? ケーキを食べたのでもないのに、そんなばかばかしい速さで大きくなるわけないだろう。だいたい、この場所で大きくなる権利があると思ってるのか?」
女王が呆れたように吐き捨てた言葉の中の単語にアリスははっと顔を上げた。自分が知っている情報と、持っている品物がわずかにつながった気がしたのだ。
アリスはもっと何か言ってくれないかと二人を――一人と一匹を伺っていたが、女王の御前という場でも眠り鼠の眠気は覚めないらしい。困ったように手足をもぞもぞと動かし、眠そうな聞き取りづらい声で何かをしゃべっていたが、やがて手足と尻尾を垂らしてぐっすりと寝入ってしまった。
女王は溜め息を吐くと、眠り鼠を乱暴にティーポットの中に戻した。
「祝宴のときにはつねって、ひげをむしってでも目を開けさせていろ。それでも駄目なら首を刎ねろ」
女王の物騒な発言の途端、バルコニーの方から高く鋭いラッパの音が聞こえてきた。




