第31章 メアリ・アンの偽物
Chapter XXXI Fake of Mary Ann
「メアリ・アン、いないんですか!」
階下から響いてきた白兎の声にアリスは飛び上がり、反射的に扉の方を振り向いた。彼が戻ってくるなんて、まったく予想の外だった。
メアリ・アンというのは女中だろうか、白兎は彼女の名前を呼びながら家の中を探し回っている。
部屋を出るか、チェシャ猫を待つか。アリスは窓と扉とを交互に見くらべて逡巡した。しかしそうしてぐずぐずしているうちに、白兎が階段をのぼってくる足音が聞こえてきた。
もう扉から出ることはできない。二階へ上がってきた白兎は部屋を一つ一つ開けて見回っているようで、この小部屋までやって来るのは時間の問題だった。
(何とかしないと)
アリスは部屋を見回し、机の椅子に目をつけた。白兎が他の部屋の戸を開け閉めする音に焦りながら、椅子を引きずらないように持ち上げると、ビルを避けて扉の前まで運んでくる。そして取っ手の下に背もたれをかませ、動かないようにしっかりと固定した。
「ここですか? メアリ・アン」
白兎は呼びかけと共に取っ手に手を掛けて部屋に入ろうとしたが、内開きの扉は椅子がつっかえ棒になり開くことはなかった。困惑したらしい白兎は訝しげに取っ手を回して扉を押す動作を繰り返した。それでも開かない扉に焦れたのか、動作がだんだん乱暴なものになっていく。
がたがたと揺れる扉に恐ろしくなってきたアリスは鏡台の陰に行くと、しゃがみこんで身を隠した。体を小さくしながらも、開かないようにと祈るような気持ちで扉を見つめる。
その祈りが通じたのか、壊れるのではないかというほど激しく揺さぶられた後に扉は静かになった。とうとう諦めたらしい。そして「窓から入りますか」という独り言を残して白兎は階段を下りて行った。
玄関の扉が閉まる音を聞いて、アリスはほっと肩の力を抜いて立ち上がった。部屋から出るには今しかない。アリスはすぐに扉へ駆け寄って椅子をどかそうとした。
しかし、椅子は動かなかった。いくら揺らしてみても引っ張ってみても、アリスの力では根が生えたようにびくともしない。手荒く扱われたせいだろう、背もたれが取っ手の下に固く食い込んでしまったらしい。
アリスは全身から血の気が引くのを感じた。部屋から出られなくなってしまった上に、すぐにでも白兎が窓から入って来ようとしているのだ。ひっくり返ったビルの周りを意味も無くあたふたと歩き回る。家具の少ないこの部屋では、隠れようにも隠れられない。
(とにかく、部屋から出なくちゃ)
アリスは決心して窓を開けた。白兎が来る前に外壁の装飾づたいに隣の部屋に逃げようと考えたのだ。
だが一足遅かったようだ。窓を開けた途端に「あ!」という白兎の声が下から聞こえ、アリスは何もかもがおしまいになった気持ちでぎゅっと目を閉じた。しかし――
「探しましたよ、メアリ・アン、やっぱりそこにいたんですか!」
地面から見上げているためよく見えないのか、先入観からか、白兎はアリスをメアリ・アンと勘違いしているらしい。下手に逃げることもできなくなったアリスが困惑と安堵で立ちすくんでいると、白兎は腰に手をあてて下を向き、大きな溜め息を吐いた。
「今日はどうなっているんですか? 温室は壊されたし、煙突の網は破れてる。扉は開かない。下では窓も割れていましたよ。この際、家を焼いて建て直してしまおうかと思いましたよ」
怒るというよりも、もはや呆れて果てているらしい。肩を落として疲れた様子だ。
温室や煙突の網(部屋へ入ってきた時に破ったのだろう)はビルの仕業だが、窓や扉はアリスの都合で駄目になったものだ。メアリ・アンではないとばれないためにも声を出せない。しかしそれ以上に申し訳ない気持ちから、アリスは何も言えずに身を小さくした。
幸い家の有り様を嘆いている白兎は返事をしないメアリ・アンを気にすることは無かった。ひとしきり愚痴をこぼした後に、ぱっと顔を上げる。
「まあ、その部屋にいるならちょうどいいです。手袋と扇子が一組入用なので鏡台から取って来てください」そこで少し考えた後、命令をつけ加えた。「時間がないので、そこから投げてください!」
アリスは弾かれたように鏡台に走った。机の上の手袋と扇子を適当に一組取り上げると、窓に戻って腕を出し、手首の力をはたらかせて手袋と扇子を投げる。
白兎は難無くそれらを受け取った。品物を確かめて一つうなずくと、再度アリスの方を見上げた。
「助かりました。僕は城に戻りますので、後のことはよろしくお願いします」
用が済んだ白兎は返事も聞かずに家に背を向けて歩き出した。門へ向かいながら、チョッキから懐中時計を取り出して時間を確認する。すろとその途端に兎の姿になると、ぱっと駆け出してあっという間に見えなくなった。だいぶ時間が押しているらしい。
その様を見届けたアリスはどっと力が抜け、とうとう床にへたり込んだ。今度こそ戻ってこないはずだ。
すっかりくたびれて座り込んでいるとちょうど頭上にある窓から軽い音が聞こえた。見上げると、チェシャ猫が窓の敷居にちょこんと着地していた。
「ただいま。だいぶお疲れのようだね」
アリスはおかえりを言う気力も無くのろのろと立ち上がった。チェシャ猫は窓から床に飛び降りざまに人の姿になる。白いコートが軽く揺れ、蘭麝のにおいが香った。
「白兎が戻ってきたわ」
アリスは目を細めて咎めるようにチェシャ猫を見た。見回りを頼んだはずなのに、役に立たなかった。そんな非難を感じ取ったのかチェシャ猫はなだめるように両手を軽く上げた。
「悪かったよ。庭の奥を見に行ってたから入れ違いになったみたいだ」
「メアリ・アンっていう女中と間違えてくれたから助かったけど、ひやひやしたわ」
「メアリ・アン? ああ、確かにあんたとは年が近かったかな。まあ見つからなくて幸運だったね」
チェシャ猫は扉の方へ歩いて行くと、アリスがすっかり忘れていたティーポットを拾い上げた。近づいて蓋を開けてみると、中ではいつもと変わらずに眠り鼠がすやすやと眠っていた。
「眠り鼠はいいわね。ずっと寝てるわ」
「こいつは眠るのが仕事みたいなものさ。さあ、ここからさっさと出よう。そろそろ使用人たちが戻ってくるよ。――随分大変だったんだね。こんなもので支えまでして」
チェシャ猫が扉が開く妨げとなっている椅子に手をかけて、少し力を込める。するとそれは簡単に取っ手の下から外れた。
部屋から出て、階段を下り、アリスは招かれざる白兎の家からようやく出て行った。
「結局、キャタピラーが言ってたものは見つからなかったね」
来た道を戻りながらチェシャ猫が呟いた。コーカス・レースはお開きになったらしく、涙の池に近づいて来ても何の喧騒もない。
アリスは「そうね」と答えながらポケットの中身を思い浮かべた。
彼がアリスの邪魔をしたいのか本当に助けになりたいのか、今はまだよくわからない。だからそれがわかるその時まで、小瓶とケーキのことはとぼけておくことにした。
「もう少し調べてから、いろいろ考えるわ」
アリスの言葉にチェシャ猫はにっこりと笑った。これもよくわからない笑みだった。
特に会話も無く歩いていると、ふいに頭上から「見つけた!」という声が聞こえた。驚いて顔を上げると、獣の姿のグリフォンが翼を動かして降下してくるところだった。
「よかった。三月兎から涙の池の辺りにいるって聞いたから」
グリフォンはちょうどアリスの目の高さで人の姿になると、軽い音を立てて地面に着地した。赤いモーニングコートがはためく。
「さあ、城に帰ろう。今夜はお祝いだから、準備もあるし」
「お祝いって?」
「もちろん君のお祝いだよ!」
グリフォンは弾んだ声で言った。両手を打ち合わせ、期待に輝いた目を空に向ける。
「今夜はご馳走だよ、なんてったって王女様のお披露目だからね!」
不思議の国は知らないうちにいろいろなことを進めているようだ。
アリスの意思に関係なく。




