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第30章 ビルの災難

Chapter XXX Misfortune of Bill



 闇の中から光る目玉に見つめられ、アリスは短い悲鳴を上げた。視線から目を逸らせないまま後ずさるが、背中が壁に突き当たってしまった。その様子に目玉の持ち主はひとつ瞬くと、煙突からずるずると下りて来てその姿を現した。

 それは三ヤードはあろうかという大きな蜥蜴だった。鈍い光沢のある緑灰色の鱗に鉤爪のある四肢。鋸状の歯の間から赤い舌がちろちろとひらめいている。火に見えたのはこの舌だったようだ。そして首に嵌っている真鍮の首輪には“Bill”の文字が彫られていた。

 大蜥蜴が炉格子を倒して部屋の中へ入ってくるのと同時に、アリスの悲鳴を聞いたチェシャ猫が扉を開けた。そしてに中にいるアリス以外の生き物を目にして一瞬動きを止める。


「迂闊だったね。煙突から入ってくるなんて」

「これが、ビル?」


 震えた声でアリスが尋ねると、チェシャ猫は持っていたティーポットを床に置き、ナイフを取り出した。


「そうだよ。白兎の家の、鱗がある番犬だ」


 番犬――ビルは黒々としたりんぼくのような目で二人の侵入者を交互に、不思議そうに見つめた。尻尾をゆっくり揺らしながら、先の割れた長い舌を出したり引っ込めたりしている。

 その様にアリスは一刻も早くチェシャ猫のところへ駆け寄りたくなった。しかし他でもないビルが部屋の真ん中を陣取っており、走るどころか動くことすらできない状態だ。


「そのまま動かないでね」チェシャ猫はビルから目を離さないまま言った。「下手に刺激して暴れられたら法廷の二の舞だ。ここは逃げ回るだけの広さもないし」

「敵じゃないって説明できないの?」

「無理だね。こいつにとって、白兎から教えられてる奴以外は餌かおもちゃだよ。何をしてもいいと思ってる」

「――何をしてもって?」

「食べたり、振り回したり、手足をちぎって遊んだり」


 アリスは絶望的な気分になった。

 すると自分の話をしているとわかっているのかいないのか、二人を見ているだけだったビルがごそごそと動き出した。はっと息を詰めたアリスの方に目を向けると、這うようにして向かってくる。

 恐怖のあまりアリスは壁に磔にされたように動けなかった。しかしあと一足で届く、というところでビルの脚がぴたりと止まる。きょとんとして振り向いたビルの尻尾が、チェシャ猫が突き刺した長いナイフによって床に串刺しにされていた。


「悪く思わないでほしいな、ビル。俺はお前を助けたんだよ? その子を食い殺しでもしたら、首を刎ねられるだけじゃ済まないよ」


 チェシャ猫はナイフを握る手にさら力を込めた。驚いたビルは目をぱちくりさせると、慌てて四肢をばたつかせた。瞬間、危険に対する反応で尻尾が根元でちぎれた。抑えるもののなくなった巨体がつんのめる。はっとしたアリスは弾かれたように横によけ、ビルはそのまま勢いよく壁にぶつかってしまった。

 衝撃で家具が揺れ、掛けられていた版画が落ちる。本体から切り離された尻尾はナイフで床に縫いとめられたまま激しくのたうっている。

 ビルはというと、尻尾の自切も壁への衝突もさしたる痛手ではなかったらしい。出血もほとんどなく、ぶつけた頭をぶるぶると振っただけだった。


 その隙にチェシャ猫はナイフから手を離し、暖炉へ駆け寄った。

 単純に動くものに反応したビルが追うように暖炉に突進する。しかしチェシャ猫は慌てた様子もなく、暖炉飾りマントルピースの炉棚に飾られていた一本の瓶を取り上げた。


「お前も災難続きだね。叱られて、尻尾をちぎるはめになって。せめてもの景気づけだよ」


 チェシャ猫はそう言うと、向かってくる大蜥蜴に瓶を投げつけた。ビルは飛んできたそれを反射的に大きな口で受け止め、硝子を物ともせずにばりばりと噛み砕いた。中に入っていた琥珀色の液体が溢れ、絨毯を濡らす。途端に小部屋の中は酒精アルコールの香りでいっぱいになった。

 結果はすぐに現れた。

 ビルは数秒も経たないうちにふらふらとよろめき、目をぐるりと回したか思うと、ひっくり返って床にのびてしまった。


 事の成り行きにアリスは呆然としてすぐには動けなかった。しばらくして体の強ばりが解けると、チェシャ猫に歩み寄って訊ねた。


「このにおいって、もしかしてお酒?」

「当たり。ブランデーだよ。こいつは爬虫類だから酒には弱いんだ」

「じゃあ、これって酔い潰れてるだけなのね」


 度の強いブランデーのにおいにむせ返りそうになりながら、アリスはビルに近づいてみた。

 足の爪先で胴の辺りを軽くつついてみたが、起きることはない。よく観察してみると爪の先や口からはみ出した舌ががぴくぴくと動いているのがわかるし、呼吸も、肋骨の辺りが上下しているので心配ないようだ。

 アリスはほっとした。恐ろしい思いはしたが、死んでほしいわけではない。


「ビルも片付いたし、この部屋にはもう用無し?」


 チェシャ猫が大人しくなった尻尾からナイフを引き抜きながら聞いてきた。アリスは少し考えた後に首を振り、鏡台に目を向けた。


「まだここを調べてないわ」


 アリスはひっくり返っているビルをよけて鏡台へ近づいた。鏡をのぞき込んで自分の顔を見た後、天板の上を見た。

 そこには、ラベルがくくりつけてある小瓶と小さな硝子の箱が置いてあった。まず小瓶を手に取ってラベルを読むと、凝った花文字で“DRINK ME(私をお飲み)”と書かれていた。アリスは一旦小瓶を置いて、今度は硝子の箱を開けた。中には小さなケーキがおさまっており、こちらは干し葡萄カラントで“EAT ME(私をお食べ)”と綴られていた。


「それが探してるもの?」

「わからないわ」アリスは硝子の箱の蓋を閉めた。「でもキャタピラーは“片方”と“もう片方”って言ってから、二つあるのは確かよ」


 そして目の前には食べ物と飲み物が合わせて二つある。アリスはもう一度小瓶と箱を手に取ってまじまじと見つめた。示されている文言も似ていてペアのようだし、これらが帰るために必要なものではないか、という気持ちがひしひしと高まっていた。

 しかしチェシャ猫は気乗りがしない、というような顔をしている。アリスが持っている小瓶に手を伸ばし、指でラベルをいじった。


「飲んだり食べたりするものは危ないんじゃないのかなあ。口に入れたら、遅かれ早かれひどい目にあいそうだ」

「でも“毒”とは書いてないわよ」

「“安全”とも書いてないだろ? まして食べろだの飲めだの命令してくるなんて、ろくなものだとは思えないな。あんたもこの国の食べ物には懲りてるだろ?」

「……そうね。そうよね」


 アリスは小瓶と箱を鏡台の上に戻した。

 しかし表向きは素直に意見を聞きながらも、心の中では不審に思っていた。チェシャ猫の否定は少し強すぎる気がする。

 この猫の青年は自分からアリスが元の世界に帰るための手伝いを申し出たくらいで、そうしたくない理由はないはずだった。しかし最初にアリスが帰る邪魔をしたのが彼なのも確かだ。ただ気まぐれで遊んでいるだけなのか、それとも――。


「ちょっと、外を見て来てくれない?」アリスは窓に目を向け、チェシャ猫に言った。「まだ少し調べたいけど、他の使用人が来るかもしれないから」


 チェシャ猫は目を細めて少しの間黙っていたが、結局は「いいよ」と答えた。猫の姿になると、あけておいた窓から外へと出て行った。

 部屋からいなくなるチェシャ猫を見届けた後のアリスの行動は素早かった。エプロンのポケットからブリキの箱を取り出すと、空っぽのそれに小瓶と硝子の箱を入れた。

 いくら思いを巡らせてみても、チェシャ猫の考えていることはわからない。ただ、自分の世界に帰る可能性を見逃したくは無かった。


(帰れることになったら、すぐに返そう)


 アリスはブリキの箱をポケットに戻しながらそう思った。

 その時、階下で玄関の扉が開く音がして、知っている声が家中に響いた。


「メアリ・アン! メアリ・アンはいませんか!」



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