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第24章 帽子屋邸の恐怖

Chapter XXIV Fear of the Hatter house



 昼日中にもかかわらず、帽子屋邸の内部は夜のようだった。

 廊下の天井を見上げれば灯りは輝いているのに辺りは仄暗い。たとえ人が来ても、相当近づかなければ誰だかわからないだろう。


「誰か、いませんか?」


 静寂の中にアリスの声が響く。使用人の誰かが来てくれることを期待したが、しばらく待ってみても返事や物音といった反応は何もなかった。三月兎は何人もいると言っていたのに、影すら見当たらない。

 アリスは落胆して左右を見た。左は突き当たりだったので、右へ向かって歩き出した。


 邸の通路は入り組んでおり、ドアの数から見て相当多くの部屋があるようだった。いっそ目につくドアを全てをノックして回ろうかと考えたが、ある扉の前では消毒液のにおいが強く鼻につき、ある扉の前ではかさこそ、ぴちゃぴちゃと気味の悪い音が聞こえてくる。

 こんなふうだから普通に見えるドアにも下手に触る気にはなれず、アリスはひたすら濃紺の絨毯を進み続けた。


 おそるおそる歩いていると、突如として一人の女中が目の前に現れた。息を飲んで後ずさるアリスに彼女はいとも優雅にお辞儀をした。


「遅れて申し訳ありません。何かご用でしょうか」


 先程の呼びかけに対して、ようやくやって来てくれたらしい。アリスは安堵して早速訊ねた。


「帽子屋はどこですか?」

「ご案内いたします。こちらです」


 女中は抑揚のない声でそう言うと、背を向けて滑るように歩き出した。

 二つの角を曲がり、階段を登ってしばらく進むと、一つの扉の前に着いた。幸いなことに不安なにおいもなく、奇妙な音も聞こえない。

 しかし女中によって開かれた扉の向こうには、帽子屋はおろか人っ子一人見当たらなかった。


「こちらでお待ちください。今は席をはずしておりますが、すぐに参ります」


 室内に通されたアリスがありがとうを言う前に、女中は一礼して扉を閉めてしまった。


 博物館の一室のような部屋だった。戸棚や硝子つきの陳列棚が隙間無くひしめき、中には小動物の骨格標本や剥製がいっぱいに詰め込まれている。棚がない壁にも一面に昆虫標本の箱が飾られ、天井からは猛禽類の剥製が空を飛んでいる格好で吊るされていた。日光による劣化を防ぐためか窓はない。太陽の光が入る余地のない空間で、唯一の光源であるランプが頼りない光を放っていた。


 アリスは部屋の中央には据えられた大きなテーブルに近づいてみた。見ると何枚かの針金つきのラベルが散らばっており、どれも見慣れない単語が書かれていた。

 きっと不思議の国のものたちの名前たちだろう。アリスはぼんやりとそれらを眺めていたが、他のラベルの隙間からのぞく名前を目にした途端、飛びのくようにテーブルから離れた。


 “Alice”


 何よりも見慣れた名前に、アリスは混乱して足元がふらついた。

 何故、自分のラベルがあるのだろう?

 帽子屋は自分をどうするつもりなのだろう?

 頭の中では「ラベルをつけて飾られる」という女王の言葉がぐるぐる回っている。部屋に詰め込まれた死んだ生き物たちが、急に恐ろしいもののように思えてきた。




「何をそんなに怯えている?」


 突然掛けられた声にアリスは飛び上がって悲鳴を上げた。

 振り向くと、いつの間にか部屋に入ってきた帽子屋がすぐ後ろに立っていた。片手には薔薇を数本持っている。

 帽子屋はたじろぐアリスに目も向けずテーブルの上の紙片を一枚手に取った。そして薔薇の茎を束ねるように針金を巻きつける。アリスはそこでようやく気づいた。それがアリスの名がつけられた、あの青い薔薇だということに。改めてラベルと見ると“Princess Alice”の名前がはっきりと書かれていた。

 アリスは大きく息を吐いた。

 何のことは無い、薔薇のためラベルだったのだ。他の紙片に邪魔されて全部が見えなかったかとはいえ、自分の勘違いに恥ずかしいやら安心するやらだった。


「何でもないの。その薔薇、女王様にもらったの?」


 気を取り直して質問するアリスに、帽子屋はゆるやかに首を振った。


「贈与ではない、研究のために提供された。女王はこの薔薇の改良をのぞんでいる。とにかく数を増やしたいらしいが、培養が困難だ」

「珍しい色だから、やっぱり育てるのが難しいのね」

「それも問題の一つだが、この薔薇には致命的な欠陥がある――そろそろだ」


 帽子屋の言葉に、アリスは反射的に青薔薇を見た。次の瞬間、みずみずしい花びらが何の前触れも無く色褪せはじめた。茎や葉も、帽子屋の手の中で萎びて枯れてゆく。ついさっきまで生気に満ちていた薔薇は見る影もなく朽ち果ててしまった。


「この薔薇は株から切り取った後は長くはもたない。一時間前に摘んだばかりのものでも、このように枯れてしまう」


 あっ気にとられるアリスにそう説明すると、帽子屋は干からびた薔薇をテーブルに置いた。


「この薔薇に限らない、すべての花はいつか枯れてしまう。永遠に枯れない花があればいいが」


 かすかな溜め息を吐く帽子屋は、そういう花が存在しないことを本当に残念がっているようだった。


 そのとき扉がノックされ、一人の使用人がティー・セットと虫籠を乗せた銀の盆を持って入ってきた。奇妙な取り合わせにアリスは首を傾げた。しかしテーブルに置かれた虫籠の網目越しに目にした生き物はさらに奇妙だった。

 翅は透けるほど薄いバタつきパン、体はパン皮、そして頭は角砂糖でできている。どうやら蝶の類ようだが、料理人が戯れに作ったお菓子と言われた方が納得できるような姿だった。

 使用人が退室したのを見送って、アリスは口を開いた。


「不思議の国の虫?」

「違う。これはバタつきパン蝶という名の鏡の国の昆虫だ」

「鏡の国? それがどうしてここにいるの?」

「先日他の数種類の昆虫と共に輸入した。希少種なので、少し手間がかかったが」


 帽子屋はティーポットを手に取るとカップに紅茶を注いだ。茶葉が少ないのか、随分色が薄かった。その中にクリームを入れてかき混ぜると出来上がりらしい。虫籠を開け、湯気を立てるカップをバタつきパン蝶の近くに置いた。


「この蝶の餌だったのね」

「そうだ。この種は薄い紅茶にクリームを入れたものしか摂取しない」

「鏡の国では自然にそういうものがたくさんあるの?」

「ない。だから大抵すぐに死んでしまう。故に希少種になった」

「じゃあ、保護のために飼ってるのね」

「そういうわけではない。ある程度成長させてから標本にするためだ」


 アリスは壁の昆虫標本を見て、それから虫籠の中のバタつきパン蝶を見つめた。後に箱の中で張りつけにされる運命のこの蝶は、何も知らずにカップの縁につかまって紅茶をすすっている。しかし自然の中で生きていても餌が無いためにすぐに死んでしまうのだ。どちらが幸せかは、アリスには決めかねることだった。


 それにしても、帽子屋の標本への熱の上げ方は少々気違いじみている。永遠に咲く花がないことを嘆いていたが、この世に“いつまでも”がないことの代償行為なのかもしれない。


 そんなことを思っていると、扉が再びノックされた。開かれた戸口を見ると、アリスを程案内してくれた女中が先の使用人同様に何かを乗せた銀の盆を持って立っていた。

 アリスははっと目を見開いた。

 盆の上に乗せられているのは人間の頭蓋骨だった。


「これって、もしかして――」


 うやうやしくテーブルの上に置かれた髑髏にアリスは声を詰まらせた。しかし言葉の先を察したのか、帽子屋は肯定するようにうなずく。


「そう、君とグリフォンが持ってきた首だ。眼球を刳り抜いた後に鍋で煮て肉や組織を分離した」

「そこまでは聞きたくなかったわ」


 アリスは初めて首を、その成れの果てをまともに見た。乾いた骨は肉のついた生首に比べればずっとましで、視界に入れることはそう難しいことではなかった。公爵夫人や部屋の骨格標本で慣れてしまっていたこともある。

 帽子屋は戸棚から丈夫そうな針金を取り出すと、頭蓋骨の下顎を器用に固定し始めた。


「これも標本にするの?」

「その通りだ。他にも、刳り貫いた眼球は防腐剤に漬けて――」

「その話は、また次の機会に聞くわ。――でも、鍋とか煮るとか、なんだか料理みたいね。あんまり一緒にはしたくないけど」


 何気なく呟くアリスに帽子屋は標本作成の手を止めて顔を上げた。


「料理と言えば、今日は専用の暖炉が使えなかったので、首を煮る作業は急遽第一厨房で行ったそうだ」そう言いながらアリスを見る。「ちょうど君とチェシャ猫の昼食を作っているときらしい」


 アリスはぎょっとして帽子屋を見返した。

 彼は今、何と言った?

 顔から血の気が引いていくのを感じながら、アリスはようやく震える声を出した。


「私たちが食べた料理と、一緒のところで煮たの?」

「隣り合っていたというだけだ。厳格な場所分けと消毒を行った上で作業をしている。衛生面の問題は無い」


 平然と答える帽子屋に、アリスは青褪めながら一つのことを決めた。

 これからもし帽子屋邸で何かを出されても、絶対に口にはしない――と。



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