第23章 キッチンどたばた劇
ChapterXXIII Kitchen romp play
黒煉瓦造りの壁に同化してしまいそうなほど黒いドアを開けると、そこは砂糖の甘いにおいで満ちていた。競技の賞品はお菓子のようだ。
「おや、君たちか。ちょうど良かった」
三月兎はこちらを振り返って弾んだ声を上げた。彼は調理用暖炉にかけた大きな琺瑯鍋の中身を木べらでかき回しているところだった。
「ちょうど良かったって?」
「欲しいときに欲しいものがやって来た。まったく幸運だね」
アリスの質問など聞いていないのか、浮かれた三月兎は突然木べらをくるくると振り回し出した。厨房中に鍋で煮詰められいたものが飛び散る。アリスは慌てて頭を下げ、チェシャ猫は体を横にずらすことで熱い液体を避けた。
危険が去り、アリスは顔を上げて文句を言った。
「危ないじゃない、火傷するところだったわ」
「いや、悪かったね。でもお菓子作りは楽しくないと」
あまり悪びれた様子もなく三月兎はひょいと木べらを鍋に戻して中身を撹拌する作業を再開させた。その腕が調理器具にぶつかっても、ボウルが硬い石の床に落ちて派手な音を立てても見向きもしない。
「何を言っても無駄さ」
チェシャ猫が顔を寄せてアリスに耳打ちした。彼の言う通りだ。アリスはさっさと用事を済ませることにした。
「帽子屋から伝言よ。用があるときは邸の中にいるって」
「ふうん、そうかい。それより手伝ってくれないかな、眠り鼠は役に立たなくてね」
鍋をかき回す手を休めないまま三月兎は調理台の隅を指差した。その先には大きな白磁のティーポットが置かれている。
アリスが近づいて蓋を開けてみると、中では眠り鼠が安らかな寝息を立てて午睡の真っ最中だった。底に柔らかな藁が敷かれていて、結構居心地が良さそうだ。アリスはそっと蓋をしめた。
「夢の中みたいね」
「そうなんだよ。使える手が必要なんだ」
欲しかったものとは助手だったようだ。アリスは少し考えた。
本当なら一刻も早く白兎の家に行くべきだが、知らなかったとはいえ彼の食事を食べてしまった負い目があった。それに、お菓子作りがちょっと楽しそうという気持ちもあった。
決めかねたアリスが何の気なしにチェシャ猫の方を振り向くと、彼はいつの間にか猫の姿になっていた。相変わらず行動が出し抜けだ。何も知らない人が見たら、いきなり猫が出没したように思うだろう。
「手伝ってあげれば? 俺は邪魔にならないように隅で小さくなってるよ」
気ままな猫はそう言うと一跳びで調理台に飛び乗った。そして眠り鼠入りのティーポットのところまで歩いて行き、その横で丸くなる。彼も昼寝の腹積もりらしい。
案内役の彼が眠り鼠と同じ状態になってしまったのでアリスは迷う必要がなくなった。助手として三月兎の横へ来ると、一番に知っておくべきことを聞いた。
「何を作ってるの?」
「果物の砂糖菓子さ。このシロップが大事なんだよ」
アリスは鍋の中身をのぞき込んだ。甘い湯気を立てる透明な液体はそれだけでも立派な甘味になりそうだ。
「コーカス・レースっていう競技の賞品だって聞いたわ」
「その通り。勝者に贈るものだからたくさん作らないといけないんだ」
「何をすればいいの?」
「その瓶の粉を二さじ、シロップに入れてくれないか」
三月兎が指差した瓶はちょうどアリスの目の前にあった。中にはきらきらした白い粉末が入っており、お菓子の材料というよりも何かの薬のように見えた。すぐ外は毒の庭ということもあり、アリスは少々警戒した。
「変なものじゃないでしょうね」
「まさか。酸味を足すだけだよ。ラベルにも毒だなんて書いてないだろう?」
促されてラベルを確認してみたが、書かれた文字は癖がありすぎて読めるものではなかった。アリスは警戒を深めながらもおそるおそる蓋を開けた。しかし鼻をついたのは柑橘類の甘酸っぱい、自然なにおいだった。
「本当にただの調味料だったのね」
アリスは安心して粉末をスプーンで二回分鍋に入れた。シロップにさわやかな香りを加わる。
しばらくするとシロップから泡が立ちはじめたので、それを確認した三月兎は鍋を火からおろした。そしてパンを捏ねるための大理石の練り台まで運ぶと、その上にどすんと置いた。
練り台にはあらかじめ下ごしらえされた種々さまざまな果物が銀の皿の上に盛られていた。種と柄をとったさくらんぼ、皮を剥いて房に分けたオレンジ、へたをとった苺、一口大に切った林檎とパイナップル。
確かにたくさんある。コーカス・レースの勝者はさぞかし喜ぶだろう。
「さあ、果物を串に刺してシロップにからめてくれ。ほら、急いで!」
急かされたアリスはあたふたと金串にパイナップルを一つ刺した。黄色い果肉をたっぷりとシロップにくぐらせ、練り台に広げてあった油紙にのせる。林檎、さくらんぼ、オレンジ――。三月兎と一緒に他の果物にも同じことを繰り返していく。二人はせっせと作業を続け、とうとう銀の皿を空にした。
「よし。これで後は仕上げだけだ」
三月兎は満足げにうなずいた。油紙の上では透きとおる甘い衣をまとった果物がきれいに並んでいる。目の前の成果を上機嫌で眺めていた彼だったが、次の瞬間何かに衝撃を受けたようにその場でぴょん、と飛び上がった。すぐ横にいたアリスの髪やエプロンが風で舞い上がる。
「どうしたのよ」
「しまった、コンフィを入れる入れ物がない」
三月兎は思わぬ失態を嘆くように額に手を当てた。しかしすぐに気を取り直すと、乱れた服や髪を直しているアリスを見て言った。
「君、帽子屋のところに行って箱か何かもらって来てくれないかな。僕は仕上げの準備があるからね」
「――私が?」
アリスは自分の声が裏返ったのがわかった。
帽子屋邸の中に、一人で?
心の中で首を振ると、アリスはチェシャ猫を見た。ついて来てくれるとしたら彼しかいない。しかしチェシャ猫は深く静かな、夢すらないような眠りの最中だった。昨日今日で痛い思いをしているので見た目よりも疲れていたのかもしれない。起こすのは忍びなかった。つまりお供も期待できなかった。
「無理よ。この建物を知らないし、帽子屋がどこにいるのかもわからないもの」
「きっと作業室だよ。場所は使用人にでも聞けばいいさ。邸の中には何人もいるんだから」
何とか断ろうとするアリスだが三月兎も押しが強かった。邸内の不案内を事も無げに跳ねつけると、アリスたちが入ってきたものとは違う、内部につながる方のドアを手で示した。
「賞品にするんだから、見栄えのするやつを頼むよ」
アリスは観念してドアの方へと歩き出した。




