第22章 おなかいっぱいの対価
Chapter XXII Full value
「それで、白兎の家はどこにあるの?」
すぐにでも次の目的地に向かいたいアリスは早速チェシャ猫に訊ねた。しかし彼は質問には答えず人差し指を天に向けたので、アリスはつられて上を見上げた。青い空。うららかな太陽。
何の真似だったのかと眉を寄せてチェシャ猫を見ると、彼はいつものニヤニヤ笑いをしてた。
「見た?」
「何を?」
「陽があんなに高くにある」
「それが何なのよ」
「もうお昼だよ。何か食べようよ」
その意見をアリスはすぐには却下できなかった。朝から動き回ったり、驚きの連続だったりで、胃袋はすっかりからっぽだった。おなかに手をあてて意識すると、余計に空腹を感じてしまう。
「一度、帽子屋のところに戻らない?」
「戻ってどうするのよ。まさか、お昼をちょうだいなんて頼むの?」
「いつも余分な客に対して用意してるから平気だよ。ねえ、行こうよ」
アリスは少し悩んだが、結局はうなずいた。図々しいと思ったがおなかは空いているのは事実で、何かを食べる以外にどうにかなるものではなかった。
「そういえば、朝のあのバスケットの食べ物は三月兎のものだったのね。――盗んできたの?」
チェシャ猫は口端を吊り上げるだけで何も言わなかった。
帽子屋邸へ行くと、帽子屋は変わらず毒の庭で紅茶を嗜んでいた。
ただしその場に三月兎と眠り鼠の姿はなく、テーブルの上もひどく様変わりしてしまっていた。
少し前まで整然としていた卓上は食べ物や飲み物がこぼされ、割れたり欠けたりした茶器や食器でいっぱいになっている。磁器製のミルク壺などは皿にひっくり返され、いまだにミルクがぽたぽたと地面に滴り落ちていた。三月兎のランチが入っていたバスケットも芝生の上に転がっている。
そんな状態を目の前にしながら、帽子屋は雅やかに紅茶を飲んでいた。彼の水銀のような、金属的な光を帯びた瞳がアリスとチェシャ猫をとらえる。
「また来たのか」
帽子屋は何の感慨もなく呟き、黒手袋をはめた手でカップをソーサーに置いた。帽子屋のいる場所だけは、不思議と乱雑さはなかった。
「また来たよ。おなかがすいたからね」
「猫は、餌をやると何度でも来るな」
「餌ってあの薬のこと?」
チェシャ猫は笑いながら勝手に椅子に座った。アリスはどうするべきか迷ったが、帽子屋の「用意させよう」の言葉にありがとうを述べて席に着いた。
帽子屋はどこからか取り出したベルを鳴らして使用人を呼ぶと、客人二人の昼食を言いつけた。
やってきた数人の使用人はみな無口で影のようだった。命令を機械的に了承し、テーブルをそつのない動作で手早く片付け、掛け直された新しいテーブルクロスの上にカラトリーやナプキンを音もなく並べた。
「三月兎と眠り鼠はどうしたの?」
使用人たちが一礼して屋敷に去った後、アリスはナプキンを膝に敷きながら帽子屋に聞いた。
「第二厨房にいる」
「厨房? 何か作ってるの?」
「ドードーに頼まれて、コーカス・レースの賞品を作っている」
アリスが聞きなれない競技に首を傾げると、チェシャ猫が口を挟んだ。
「そういえば、今日だっけ?」
「午後三時から開催だ。主催はドードー。場所は涙の池」
「ねえ、コーカス・レースって何なの?」
アリスの質問に、今度はチェシャ猫が首を傾げる番だった。
「口で言うよりは、実際にやってみる方が理解できると思うよ」
答えになっていない答えだったが帽子屋も賛同するようにうなずいたので、結局そのレースが何をするのかはわからなかった。
そんな会話をしているうちに昼食が運ばれてきた。
随分早い。余分な客に対して用意が周到だというチェシャ猫の言葉は事実だったようだ。
供されたメニューはラムチョップの花野菜添えにメレンゲの焼き菓子、そして一杯の葡萄酒だった。
チェシャ猫は早速ラムチョップの骨を直接持って、頬杖をつきながら食べ始めた。アリスもフォークとナイフを手に取り、肉を切り分ける。自分で思っていたよりもずっと空腹だったらしく、野菜も肉も焼き菓子も残さず食べた。ただし、葡萄酒だけは二口ほど口をつけただけにした。
「ごちそうさま。ええと、ありがとう。すごくおいしかったわ」
アリスは控えめな声でお礼を言った。何か役に立つことをしたわけでもないのにご馳走になったことが、急に申し訳なくなったのだ。ふと横目でチェシャ猫を見ると、何に気兼ねすることなく二杯目の葡萄酒を飲んでいた。
帽子屋は二人の客の対照的な態度にも特に思うところはないようだった。自らティーポットからカップに紅茶を注ぎながら口を開いた。
「口に合ったのなら幸いだ」
「本当にありがとう。あのう、何か私に出来ることがあれば言って?」
もてなされっぱなしでは割りに合わない。
アリスの申し出に、帽子屋はほんの少し首を傾げた。考えるように庭を見つめ――思いついたのか、アリスに視線を戻した。
「それなら、三月兎たちに言伝を頼もうか」帽子屋はカップを掲げて言った。「この紅茶を飲み終えたら、私にもしなければならないことがある。用がある場合は邸内にいると伝えてくれ」
「――あの人たちは、厨房にいるのよね?」
自分から言い出したことなのに、アリスは尻込みした。
厨房へ行くには帽子屋邸に入らなければならない。今まで何度か帽子屋邸の内部については耳にしていたが、はっきりしたことはわかっていないが、チェシャ猫は“すごい”と評し、グリフォンは入りたがらないほどだった。外観も評判も不気味な邸の中身が明るくてまともとはとても思えなかった。
「大丈夫だよ」チェシャ猫が空にしたグラスをテーブルに置きながら言った。「あいつらがいる第二厨房だけは普通さ。三月兎専用みたいになってるから変なものは何もないよ。裏の扉を使えば、邸の中に入らないで直接行けるし」
その言葉に、アリスはほっとしたが帽子屋は無表情に淡々と抗議した。
「邸内のどこにも、変と言われるようなものは何もない」
「確かに、“変”っていう表現じゃ大人しいかもね。例えば――」
「チェシャ猫、もういいわ」
アリスはチェシャ猫の言葉を遮った。是が非でも聞きたい話ではない。むしろその逆だ。
「第二厨房ね。わかったわ、すぐに伝えてくる」
「よろしく頼む」
アリスは早速椅子から立ち上がった。するとチェシャ猫も腰を上げてアリスの後に続いた。アリスは訝しげにチェシャ猫の顔を見た。
「ついて来なくてもいいのよ。すぐに済むんだから」
「帽子屋と一緒にいるよりは、あんたと一緒にいるよ」
当然だよね?
チェシャ猫が笑い、アリスは肩をすくめて溜め息を吐いた。




