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現実歪曲空間と、小さなデザイナーの約束

「うう……だからアタシはカートランドとオートベックスのシフトがあるんだってば! これ以上部活なんかやってたら、ガソリン代も稼げないし、何より走る時間が減っちゃうじゃん!」静大浜松キャンパスの片隅、オイル臭いプレハブ部室。私にズルズルと引きずられてきた律子りつこちゃんは、ピンクのコタツに入りながら不満をぶちまけていた。そんな律子ちゃんの前に、つむぎ先輩が極上の笑顔で、温かい紅茶と『治一郎のバウムクーヘン』をスッと差し出した。「まあまあ、律子さん。落ち着いてちょうだい。あなたの言う『走る時間が減る』という損失、我がチームのリソースを使えば、むしろ何倍もの利益プラスになって返ってくるわ」「は? 利益?」律子ちゃんがバウムクーヘンを口に放り込みながら眉をひそめる。紬先輩の目がキランと光った。プレハブ内の空気が一瞬で張り詰め、彼女の独壇場――『現実歪曲空間』が展開される。「考えてみて? あなたがレンタルカート場で走らせているのは、誰が作ったか分からない、既製の工業製品よ。どんなにあなたが素晴らしいドライビングテクニックを持っていても、そのマシンの限界以上の走りは絶対にできないわ。そうでしょう?」「それは……まぁ、そうだけど」「便利だけど、退屈だわ。でも、このチームは違う。由良(唯香)があなたのために世界一の空力をデザインし、鈴木修(凛)が1円1グラムまで削ぎ落とした軽量エンジンを組み、林みのる(沙織)があなたの足の裏の感覚に合わせてサスペンションをミリ単位でアジャストする。つまり――」紬先輩はコタツから立ち上がり、窓の外のむき出しのマシンを美しく指さした。「あなたは、自分の肉体の一部として機能する『世界にたった一台の専用機』を、タダで手に入れることができるのよ。カート場で何百時間走るよりも、自分のためだけに最適化されたフォーミュラカーを限界まで攻める方が、ドライバーとして圧倒的に成長できると思わない?」「うっ……!」理路整然とした紬先輩の言葉に、律子ちゃんは反論を詰まらせた。確かに、エンジニアを従えて自分専用のレーシングカーを作るなんて、プロのF1チームでもなければ不可能な贅沢だ。「さらに付け加えるなら」メガネのまとめ役、沙織さおり先輩が手元の資料をめくりながら冷静にトドメを刺した。「この学生フォーミュラ活動は、工学部の『ものづくり実践演習』の単位として正式に認定されています。つまり、部活に出るだけで留年危機にあるあなたの成績に、合法的に加点されるということです」「単位に加点ーーーっ!!? それ、早く言ってよ!!」留年を恐れる律子ちゃんの目の色が一瞬で変わった。完全に紬先輩と沙織先輩の計算通りのリアクションだった。「あはは、よかったね律子ちゃん!」私はコタツの横で嬉しそうに笑った。私の手には、浜名湖カートランドから帰ってきてからずっと握りしめていた、真っ白な画用紙がある。「律子ちゃん、これ見て!」私は、画用紙に描かれた鮮やかな色鉛筆のスケッチを律子ちゃんの前に広げた。そこに描かれていたのは、あの無骨な鉄パイプの骨組みを覆う、まるで生き物のように滑らかで、未来的な流線型のボディカウルだった。フロントから入った風が流れるようにリアへ抜け、車体を地面にギュッと押し付けるような完璧な形状。車の知識がゼロのはずの私が、直感だけで描き上げた『風のドレス』だった。「これ……アタシたちの車……?」律子ちゃんの目が釘付けになる。長年レースの世界にいる彼女だからこそ分かった。このカウルは、ただ可愛いだけじゃない。もの凄く速い。「うん! 私ね、さっき浜名湖で律子ちゃんの走りを生で見て、心臓のバクバクが止まらなかったの。あんなに格好よくて、もの凄いスピードで走る律子ちゃんが、世界で一番安全に、世界で一番風を味方にして走れるお洋服を、私が絶対に作るから!」私は真っ直ぐに律子ちゃんの目を覗き込み、小さな手をギュッと握りしめた。「だからお願い、律子ちゃん。私の描いたお洋服を着て、あの爆音の向こう側まで、私たちを連れて行って!」「唯香ちゃん……」私の純粋で、どこまでも熱いデザイナーとしての想い。単位の加点や紬先輩の屁理屈ではない。一人のデザイナーが、自分の走りのためだけに命を削って形を作ろうとしてくれている。その事実が、律子ちゃんのドライバーとしての魂に完全に火をつけた。律子ちゃんはふっといつものワイルドな笑顔に戻ると、ヘアバンドをグッと直した。「……ハッ、参ったな。こんな格好いいデザイン見せられたら、ドライバーとして乗らないわけにはいかないじゃん」律子ちゃんは私の手を力強く握り返した。「いいよ、アタシがこのマシンのチーフドライバーを引き受けてあげる! その代わり唯香ちゃん、アタシの横Gに耐えられるような、最高に狂ったカウルを仕上げてよね!」「はいっ!!」プレハブのコタツを囲み、私たちが交わした熱い約束。これでついに、マシンの形を決めるデザイナーと、その限界を引き出すドライバーという、最強の二枚看板が揃ったのだった。

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