ピットの皇帝は、タイヤの声を聴く
「ほらそこの白ツナギ! 手を休めるな! 次のステップワゴンのタイヤ、ローテーション(前後入れ替え)だ!」「ひゃ、ひゃいっ! ただいま行きますっ!」オートベックス浜松城北店のピット。私、浜名唯香は、油とゴムの匂いが立ち込めるリフトの前で、慣れない手つきでホイールナットをハブボルトに合わせようと悪戦苦闘していた。もちろん、紬先輩の超権力――いわゆるコネによって、時給1200円、社割5割引きという破格の条件でねじ込まれた結果である。「うう、重いよぅ……。車って、下から見るとこんなに鉄パイプやネジだらけなんだなぁ……」下から見上げるミニバンの下回り。私はバイトを始めて数日、車体構造の複雑さに圧倒されていた。けれど、サスペンションのアームの絶妙な湾曲や、空気を逃がすためのアンダーカバーの形状を見ていると、なぜか「あ、ここをもう少し丸くしたら、もっと綺麗に風が後ろに流れるのに……」と、脳の奥で勝手に線が引かれていく。そんな私の、自分でも気づいていない『空力デザイナー』としての片鱗が疼き始めた、その時だった。――キキィイイッ!!!ピットの入り口に、1台の年季の入った軽自動車――スズキ・アルトワークスが、激しいスキール音を響かせて滑り込んできた。運転席から飛び出してきたのは、前髪をヘアバンドで上げ、ツナギの袖を腰で結んだボーイッシュな少女。「おーい! 店長! ちょっとフロントの減衰力とトーイン調整させて! あと、左フロントのハブベアリング、0.05ミリくらいガタついてるから部品発注しといて!」ピットのチーフ整備士のおじちゃんが、その少女の顔を見るなり苦笑いした。「またお前か、律子。お前の感覚はプロのテスターより正確だから助かるけど、うちのピットを自分のガレージ代わりに使うなよ」「いいじゃんケチケチすんなって! ほら、まるたやのロールケーキ差し入れするからさ!」ガハハと豪快に笑う彼女――舘山寺律子ちゃん。私はポカンと口を開けて、その光景を見ていた。(あ、あの人……部室のコタツの上に置いてあった写真に写ってた、自動車部が『喉から手が出るほど欲しい絶対的エース候補(※ただし入部拒否中)』のドライバーさんだ……!)律子ちゃんは私の視線に気づくと、人懐っこい笑顔で近寄ってきた。「ん? あ、君が紬の口利きで入ったっていう、新入生の唯香ちゃん? よろしくねー、アタシが律子!」「は、はい! よろしくお願いします律子先輩! あの……さっき言てった『はぶべありんぐのガタ』って、乗ってて分かるものなんですか……?」「ん? 分かる分かる!」律子ちゃんはアルトのボンネットに腰掛け、悪戯っぽく笑った。「あのね、ステアリングを左に15度くらい切って、時速40キロから50キロに加速する瞬間にさ。左足の裏から『……ザリッ、ザリッ……』って、砂を踏むような、ほんの潰かな振動が伝ってくるんだよね。あ、これベアリングの球が摩耗して、ほんの少し軸が踊ってるなーって」「足の裏、ですか……?」「そう! 体全体がセンサーなの! タイヤが今、路面をどれくらいの強さで踏んづけてるか、サスペンションがどれくらい縮んでるか……ヘルメットを被ってコックピットに収まると、マシンの骨組みが自分の骨と繋がったみたいに、全部頭の中に数字と映像で入ってくるんだよねー」私はゾクッと鳥肌が立つのを感じた。(この人……普段はこんなに陽気でお喋りなのに……車に乗ると、人間じゃなくて『精密機械』みたいになるんだ……!)その時、まとめ役の沙織先輩から「律子がオートベックスに来たぞ」とでも連絡が入ったのか、プレハブ部室から凛先輩と沙織先輩が息を切らせてピットにやってきた。「律子ーーーっ!! サスペンションのアーム、沙織先輩が新しいレバー比で図面引き直したわよ! これなら200円安く作れるから、お願いだから今度こそアタシたちのフォーミュラカーに乗ってよ!」「嫌だってば凛! アタシはカートランドとここのバイトで忙しいの! これ以上部活なんかやってたら走る時間が減っちゃうじゃん!」相変わらず勧誘をバッサリ断る律子ちゃん。けれど、沙織先輩が引き直した図面を律子ちゃんの前にスッと差し出すと、律子ちゃんの目が、瞬時にレーサーのそれに切り替わった。「……ん? でもさ、沙織先輩。この新しいサスの数値、アタシのアルトで簡易テストしてあげてもいいよ。データの流用くらいなら付き合うからさ。凛、減衰力ダイヤルを右に3クリック、フロントの車高を2ミリ下げて。唯香ちゃんは、空気抵抗を減らすためにフロントバンパーの隙間をガムテープで塞ぐの手伝って!」「ひゃいっ!」入部を拒否しているはずなのに、マシンのセッティング話になると一瞬でシンクロしてしまう先輩たち。これまでは「油臭い部活」だと思っていたけれど、こうしてプロの現場で、それぞれの天才たちが「1ミリの歪み」「1円のコスト」「0.01秒の速さ」を求めて交錯していく姿を見て、私の胸の鼓動は激しく高鳴っていた。(凄い……! この人たち、本気なんだ。本気で、世界一の車を作ろうとしてるんだ……!)「よし、テストセットアップ完了! ありがとね、唯香ちゃん!」律子ちゃんはヘルメットを小脇に抱え、アルトのシートに滑り込んだ。「アタシは部活には入らないけどさ、今度、部室の『骨っぽいやつ』が動くようになったら、アタシがテストで横に乗せてあげる。時速100キロの景色、すっごく面白いよ!」ウィンクして爆音と共にピットを去っていく律子ちゃんを見送りながら、私は自分の作業ツナギの袖をギュッと握りしめた。早く、あの凄い人が「アタシがこの車の本物のドライバーになる!」って言ってくれるような、世界一格好よくて、世界一風を切る「お洋服」を完成させたい。知識ゼロの私の心に、エンジニアとしての本気の火が、静かに灯った瞬間だった。




