第14話
人が歩けば道になる。
この轍を作り上げた彼もまた、舗装された道に己の意思を刻んだ一人だった。
愚鈍な轍鮒に過ぎないとしても。
その意思を私は敬いたい。
ただ、私が私を守る為に。人と胸を張れる為に。
1
「あれ、居ない」
お開きとなった晩餐会から席を立って、入口の門へと戻ってきた。そんな僕だけれど、今、ベイスさんの姿が見えなくて、戸惑っている。いつまでかかるか分からなかったのだから、まあ当然のことではあるけども。
屋敷を出たのは、確か夜の九時前だった。六時過ぎに始まったわけだから、どうやら二時間以上も話し込んでいたらしい。外は相変わらずの静けさを纏っている。蝉さえも出迎えてはくれなかった。
「仕方ない。帰るか」
待っていたって仕方ない。本当、どこに行っちゃったんだか。どこって多分、帰ったんだろうけどさ。
…結局、僕一人だけだったな。中まで一緒に来てくれると思っていたわけじゃないけど、でも、こうも任されるとは予想してなかった。放り出された気分のまま帰らなくちゃいけないのが、どうも腑に落ちない。こんなんなら初めからついてくれなくたってよかったのに、と。
夜の空気を吸い込んで、吐いて。寂しく帰る。いや、寂しくはないんだけど、頭の中で文句が溢れていて、気分が悪い。僕は正しいんだと思い込みたいんだろうか。
何に対してか? 勿論、身勝手なベイスさんに対してだろう。けど、あの集まりについても。やはり僕こそが怜奈さんの意思を継いでいると、そういう優位さだとか、正当性を主張したい気持ちもある。あんな殺人犯や記者、それから、あの会社員、科学者とかいう大人たちなんかより、僕はずっと近いところで彼女を見てきたんだ。だから僕の思いが正しい。僕がよく分かっている。法医学者さんは…まあ繋がり方が違ったけれど。医師の方も、今の彼女を知ってる感じではなかった。家族の人を除けば、きっと僕が最も近しい間柄だった。それは間違いない筈だ。
家族。怜奈さんにも本当の家族がいない。それが僕の心に残っている。僕も両親を知らないから、重なるところがあってそう思いたいんだろうけれど。僕らは特別だから、特別な繋がりで結ばれた人間であることを願っている。血の繋がりを超えた何かに僕らは期待している。期待して、そして幻滅しないよう、近付いたり離れたりしてきたんだと、今振り返ると思う。
この左手は、彼女が残してくれた奇跡だ。拠り所だ。僕は涙ぐんできて、思わず空に視線を上げた。雲に隠れる月が闇に光輝いて。言葉に出来ない感情が湧き起こった。感謝とか、嬉しさとか。それでいて悲しみや後悔、彼女の尊さや憧れ。手が届かないものに焦がれる気持ち。
目を擦る。このまま逃げるのなら、代わりに僕は、やらなくちゃいけないことがある。あの食卓に紛れているという裏切り者を裁かなくてはいけない。なぜあの場の人間と断言できるのか、家族の掴んでいる情報について、僕らはほとんど分かっていない。ただ僕は、関係性を書き換えていった僕だから、あの数少ない者たちにしか彼女の思い出が遺されていないことを知っている。
だから、裏切り者がいるとすれば、それは僕ら関係者の中にしか居ない。それを見つけるのも僕らの役目だ。お互いに疑って、暴いて、仇をとる。そして彼女を自分のものにする。
僕は。僕も、疑われているんだろうか。死に目に会ったのは僕だ。こういうのは、最後に会った人物が怪しまれる。ただ僕には、アリバイがある。今は席を外しているけど。
本当、どこ行ったんだ。あの人は。
「こっちを向け」
僕の思考をはねのけて、どこからか、不意に声がする。僕は立ち止まる。そして、今さっきの声を思い起こして、ああ彼の声ではなかったなと。
「こっちを向け」
また声がした。そして無音が続く。…かと思うと、驚いて何もできなくなった。体が反応しなかった。
「えっ…」
気付けば首筋に冷たいものが触れていた。違う。鋭いものだ。首筋がジンジンとして、やんわり痛くなってきた。ただ、そんな痛みよりもゾクゾクが止まらなくって、息が苦しい。この驚きと恐怖に。
背中に大人がいる。後ろから左の義手を掴まれている。そして右側の首筋にナイフを当てられている。声を出せば直ぐに切られそう。下手に動けない状態。
あの声は男だった。さっき聞いた声だ。確か…
「こっちを向け」
「…お前は嫌いだ」
言われるまま、ゆっくりと左に振り返る。あの模倣犯の顔がすぐ近くにある。僕を睨んでいる。何なんだ? 僕に何だっていうんだ。何をしたって。
「…放せよ」
「いや、そのままだ」
嫌悪と抵抗をぶつけるように、その目を睨み返す。
黒い瞳が僕を見ている。まばたきもしない怖い鏡が、僕の顔を写している。
クソッ、動けない。何でこんな目に遭わなきゃいけないんだ。僕は殺されるのか。疑われてるから。それとも、ただ誘拐されるのか。今回のこととは関係なしに。ただの愉快犯か。
「…」
無音の夜道。動かない人影の塊。ただ胸の動悸だけが力強く打ち続ける。
「その顔、やっぱりだ。やっぱりお前は生きてちゃいけない」
「お前も生きてちゃいけない人間だろう」
僕もお前を殺したい。この手で殺ってしまいたい。体の自由が利くなら、返り討ちにしてやれるのに。
「お前が裏切り者か」
「違う!」
「お前が殺したのか」
「…そんなわけないでしょ」
怒りが込み上げる。僕が裏切り者? 僕が怜奈さんを殺しただって? 僕がどれだけ彼女を大切にしていたか知らないくせに。決めてかかって。ふざけるな。ふざけるな。
「お前なんかが彼女の何を知っている! 怜奈さんは殺人鬼じゃないんだ。お前とは大違いだ。お前なんかに、お前なんかに怜奈さんを知った風にいられると、すごい腹が立つ」
「ケッ。人の気も知らねぇ赤ん坊がよぉ。…けどまぁ、お前はもう終わりだ。これまでの自分をよぉく思い返して懺悔するんだな」
懺悔って何だよ。
「放せ、模倣犯。僕はまだ、裏切り者を裁かなくちゃいけないんだ。僕じゃない。僕じゃ」
腕を振ってもがく。首筋の刃が当たって痛い。けど深くは刺さっていない。まだ死なない範囲だ。
「それともお前か! お前が彼女を殺したのか!」
「おい暴れるな」
締め付けが強くなる。息苦しくて、刃物を持つ手を右手で押さえて抵抗する。力比べ。腕が震えるたび首をガタガタと傷つけていく。何とか体全体を左右に回転させたり、揺さぶって、傷口が広がっていくのを我慢する。
義手が外れた。思わず前にのけぞり、相手に背を向けないよう、ひねって尻餅をつく。すぐ目の前で大人は僕を見下している。
どうする。この体勢じゃ動けないぞ。立つまでにこっちが殺られる。
「どうして! どうして僕なの!」
喚く。叫ぶ。もうそれしかないと思った。
「お前が殺したからだ」
「わけ分からないよ!」
殺られる。このままじゃ本当にまずい。必死に後退りして、みっともなくても、僕は。
いよいよ、あの腕が振り下ろされる。僕は身構えて、その時、黒い棒が男の胴体から勢いよく突き出してきた。赤い液体が撒かれる。僕の顔に。胴体に。残りは地面のアスファルトの上へ。いつもの血溜まりができていく。
殺人鬼の視線が上へ外れ、宙を舞う。僕はボーッとしていた。我に返ったのは、男が口からも血を吹き出した時だ。
そのまま地べたへ倒れる。うつ伏せに丸まって、血の池を広げていく。そして、今の今までこの虫の息の男が立っていた場所に、別の男がまた立っていた。同じような表情で僕を見下している。
「…ベイスさん」
男は何も言わなかった。足元の笛がヒューヒューと奏でるだけだった。
2
信じられるものが欲しかった。
普通の家庭が羨ましかった。宗教二世の自分には、周りの人間がよっぽど自由に感じられた。あの顔が。満足そうな表情が、いつも胸にかすめた。
友人がいなかったわけではない。けれど、思春期の不平不満を聞く頃には、どの口が言うのかと、そう壁を作っていたのを覚えている。
毒親の居ない家庭だ。おかしな信仰に走ることもなく、身の危機を覚えるわけでもない。生活が崩壊することなど、何ら心配もしていなかった。俺の抱えている問題の何一つも持ち合わせていないくせに、ただ文句を吐いては、構ってほしそうにしていた。あの楽観的な人間が、自分は嫌いだった。満足した人間が嫌いだった。同い年で、同じ地域の家庭で、なぜこんな不公平を味わわなければならないのか。怯えるように、負け犬の暮らしをしていかなければいけないのか。惨めに生きていくのは嫌だった。
それでも。そんな俺だろうと、人様を大切にした。友人も、教師も、地域社会のありとあらゆる人間を。せめてでも善い人間になろうと思ったからだ。善きことをし、いつか自分を幸せ者だと認めてやりたかった。
だけれども、しかしそれ以上に、俺は悪人が嫌いで嫌いで仕方なかった。抑えようにも憎悪の気持ちが込み上げ、膨れ続けた。殺してやりたいと思い続けた。社会から消してやりたかった。物心ついた頃からの性だ。人を食い物にする奴らを許せなかった。金を搾り取るだけならばまだしも、破滅へと引きずり込んで、人の不幸を笑う奴等の集まりが。そう、うちはそういう家庭だった。世の中の狂いっぷりに、俺はただ憎悪を向けるしかなかった。
ただ信じられるものが欲しかった。同情してくれる仲間でなくとも。肯定などされなくても。独りでもよかったのだ。この世の不条理に、何か筋の通ったものさえ見つけられれば。
悪人が裁かれないのはおかしい。悪人を裁かない社会もまたおかしい。負け犬はどうしたらいいのか。生まれながらの負け犬はどうしたらよかった。
俺のような被害者を、社会は見向きもしなかった。決して知らなかったわけではない。気付いていなかったわけではない。それに、手をさしのべられなかったというわけでもなかったのだ。ただの無関心。ただの億劫。怠慢。或いは侮蔑。時には見世物に。嘲笑の的に。有象無象の人混みが、臭いものに蓋をしていく。そうやって、この社会を黙認したまま、屍を高く積み上げていった。これからもそれは変わらない。
言い訳は嫌いだ。仕方ない、仕方ないと自分を肯定したいだけの子ども。できなかったことを、いや、しなかっただけのことを、有耶無耶にしたいだけで。そういう幼い社会が、まるで成長しないまま大人ぶる。難しそうに歯切れ悪いことを言っては、皆自分が正しいと思いたい。被害者を前にしてなお、正義我に有りと。
ふざけるな。
殺されていい人間がいる筈だ。世の中には救われていい人間がいる筈だ。俺は違うのか。俺は救われちゃいけないのか。足掻いちゃいけないのか。
ふざけるな。
何が人殺しだ。ただ歯向かっただけじゃないか。誰か何とかしてくれたか。しなかったから助からなかったんじゃないか。
ふざけるな。
責められる筋合いはない。いったい誰が俺を裁く。どの顔で。たとえ神様だろうと、そんな権利はない。見ていただけの者たちに、そんなもの認めない。
信じられるものはない。法律も道徳もそこで傍観しているだけで、身を守ってはくれなかった。人の眼差しにも飽きた。顔を見ると、そいつの人柄、性格が分かるようになって、より一層嫌いになった。それが人の本性だ。同情も侮蔑も快感も嫌悪も。俺に向けられるそれら感情は、惨めさを、憎悪の気分を味わせる。どちらに転んでも不快この上ない。人間などそういう生き物なのだと。綺麗なものはない。世の中に秩序があるという盲信が、或いは錯覚が、余計な苦しみを生んでいるだけだと気付いた。
誰かが壊さなければいけない。変えなければ。そう思った。
俺は立ち上がった人間だ。けれど俺は、せめてもの反撃に出たにすぎない。とても世の中を変えることはできない非力な存在だと分かっている。
しかしそれでもいいんだ。それでも誰かが自由になれる。俺のような負け犬が、犠牲になってきた人間が、望みを持って明日に食い繋げる。生きていい人間がいることを。生きることを願っていいことを。反撃の中で、俺はやっと、誰かの希望になれる気がする。
去年の秋に、東雲怜奈という人物を知った。最初は遠目に顔を見ただけだった。それでもう、俺が心打たれたのは事実だ。
数週間後には現場を目撃した。俺だけが目撃者だった。運命ならそれでもいい。やっとこの手で助けられる人間が現れた。嬉しかったんだ。それから、共感とか、同情とか、そういう気持ちが込み上げてきた。
特別じゃない。何一つ自分と変わらない平凡な境遇だ。平凡で非力の人間だ。それでも、俺には分からない何か大きなものを背負って生きているようだった。暗い影を落としたような顔をする。それでも人には何故か明るく振る舞おうとする。
白状すれば、憧れを抱いていただろう。鬱陶しく辛さ、妬みを吐くこの世の中で、俺のような人間でも、前を向いて生きていこうとする者がいる。俺の掲げていた夢に近いものだ。俺が為すべきことはこれなんだ。
ある日俺は、模倣犯第一号として社会に名乗りをあげた。決して愉快犯ではない。ただ社会を善くするため、弱者の権利と自由を得るための、ささやかな抵抗だった。思えばこの時から心に秘めていたのだろう。あの心だけは真に信じられるものだろうと。
信じてみたかったんだ。それでやっと、この心が救われると思った。
3
「さて、単刀直入に訊くが」
男に向かって刑事さんが切り出す。僕はその対面を、隣の部屋から見ている。透明な壁で遮られた向こうから。あの憎たらしい模倣犯を。
「お前はなぜ、この少年を狙った? まずはそれに答えてもらいたい」
あれから数日。僕を狙った男は瀕死の状態で病院に運ばれ、それから拘置所へと送られた。不思議なのは、この男が病院にほとんど留められていなかったということだ。傷の治りが異様に早かった。そもそも、治るような傷ではなかったんだ。刑事さんはそう言っていた。この男、山上とかいう青年は、能力のある人間ではないと。名前なんてどうでもいいんだけど。
僕にとって重要なことは二つ。僕を襲ったこの殺人鬼がまだ生きていて、今も目の前にいるということ。刑事さんはこれを機に色々と情報を得たいそうだ。僕もこの男には訊きたいことが山ほどある。怜奈さんとの関わりについて。僕を狙ったわけ。他の模倣犯のこと。他の関係者のこと。そして、遺体。
僕にとって今一番大事なことは、彼女を何者とも分からない人たちに取られないようにすることだった。そのために僕は、今こうして刑事さんと居る。彼女の回収こそが、このどうしようもない殺人鬼をまだ生かしている理由でもある。
「あの者たちのように、遺体を集めることがお前の目的なら、まず少年を狙うというのは分かる。弱い者を優先して狙うのは当たり前のことだ」
「…」
男は静かに聞いていた。ただつまらなそうに、そっぽを向いて。けれどとても落ち着きがあった。
「だが、お前は違うだろう。お前は盲信とも快楽主義とも程遠い。いたって冷静で、計画的で、確信犯めいたところがある。お前の犯行には自分の理念とか拘りがあるはずだ。そんなお前が、他を差し置いてまずこの子を狙ったわけが分からない。どうにも納得できない」
「…」
「どうなんだ」
少し強めに、刑事さんは言った。どうなんだ。そこでようやく、男はこっちを向いて、言い放った。
「…あんた、悩んでる面してんだな」
そしてまた、ふてくされた様子に戻る。対して、向かい合う男は苛立ちを募らせていった。だんだんと早口に。何か、馬鹿らしくて聞いていられなくなってくる。だって、僕はずっと蚊帳の外だから。
「お前の行動原理は何だ」
そんなのはどうでもいいじゃないか。刑事さん。みんながみんな、理由なんて持ってるわけじゃない。
「あんたと一緒さ。この社会を善くしたいのさ」
「それがこの子にどう関係する」
「殺人鬼はいなくなればいい」
ここで少し、静かな間。刑事さんが止まったからだ。言葉の理解に少し時間がかかったからだ。いや、理解というよりも、受け入れるのにかかったんだ。
「…気は確かか?」
「さあな。ただ、殺人鬼はいなくなればいい。人を食い物にする新興宗教も。それによって支えられた政治家も。揶揄するだけの報道も。黙認する視聴者。有権者。一般人。ああ、俺の望みは尽きねぇな。 いくら言葉を換えようが、雑草のように生まれ変わっては生えてきやがる。いくら俺がわめこうが構いやしねぇ」
「その様子じゃあ、お前はただ人を殺したいだけに聞こえるな」
そこで初めて、冷ややかな声を出した。
「他に何が出来る? 公安のお前にも出来やしねぇのに。それに俺は、お前がやろうと思ってもやらないことを、代わりにやってあげてるんだぜ」
「俺がいつ殺してほしいと頼んだよ」
「ハァン。おめぇさんは、そう悩んで、くよくよして、結局いつになっても決断できねぇ。外に理由を探しゃあ自分ができないことを正当化する。これまで何人の犯罪者を野放しにしてきたか、俺は知らないね。自分の判断が正しいと思えず、だが現実からも目を反らして。そのうち誰かに裁定してもらおうっていう弱っちい男さ」
「それはどの人間も同じことだ。何が正しいか分かることばかりではない。それに、だからって、殺すことで解決がされるとは思わない。事実が明るみに出て、社会にそれが証明されてやっと報われるんだ。お前は違うのか? 何一つ証明せず、独断と強行で犯行におよんで、それでもまだ、お前は正しいことをしたという自負があるのか?」
「ああ。俺にはあるさ。俺には、そいつがいいやつか悪いやつかの区別ができる。別に俺だって、わざわざ捕まえられるような奴を手にかけはしない。俺のやり方は、次善の策さ。俺がやりゃ、少なくとも被害が広がることはないからな。証拠証拠と足止め食らって、結局野に返すだけのあんたらと違ってな」
「…分かった。もういい」
これ以上は埒があかない。売り言葉に買い言葉だと言って、僕らは席を立った。初めての面会は、これで終わった。
結局のところ、僕が居る意味は全くもってなかったのである。警察の人は、被害者の心のケアとか言って、あまり関わらせたくないようだった。僕が何かを訊き出したり、顔を会わせることもなく。だから、遺体の場所も裏切り者の情報も、全くもって得られなかった。
それでも僕は、この後も被害者として、取り調べとやらを何度も受けなければならなかった。それはそれは、とても退屈で嫌な日々だった。
接点はない。あんな男は知らない。急に襲ってきたんだ。
あそこには夕食に招かれて行ったんだ。遅くなったけど、ちゃんと大人もついていたよ。
そんな聞き取りの繰り返し。繰り返しの連続だ。僕の人生は。何も変えられず、何も助けられないで、一体僕はどうしたらいいんだろう。
どうしたら怜奈さんの殺されない世界を作れるだろうか。
そうして何度目かの帰り。刑事さんは僕を呼び止めて話をした。確か薄暗い道中のことだった。今にも泣きそうな、そんな空で。
この空を見ると、いつもあの日のことを思い出す。
「なあ、維歩くん。君にとって、東雲さんはどういう人だった?」
「どうって…。そりゃぁ、大切な人だったよ」
「…そうか。大切な人か」
急にどうしたのさ、と喉まで出かかって、引っ込めた。とても訊きづらかった。何だか思い詰めている様子で。
「例の男がね、自供を始めたんだ。少し前からのことなんだが。それでだんだんと、奴の身の上や行動原理が分かってきてね」
ため息を吐いて、胸ポケットを漁る。そこから箱を取り出して、中の細長い紙巻を口に運んだところで止まった。
僕を見る目。視線が合った。少し悪そうな顔をして、それから、また箱にしまう。箱は胸の中へと。
「なあ、維歩くん。彼の標的になった半数ほどは、確かに凶悪な人間だった。それこそ、法の手の届かない極悪人どもさ。だが、そのもう半分はというと、さしてそういった兆候もない、まあどこにでもいる一般人でね。なぜ襲われたのかが、どうも分からない。彼が狂っていると言えばそれまでなんだが。…なあ、君が襲われた理由は、一体何だと思う?」
「さあ。分からないね。でも、あの殺人鬼は裏切り者を探してたよ。僕が彼女を殺したと思っていた」
とんでも迷惑な話だ。何で僕が疑われなくちゃいけないんだ。殺人鬼に殺人呼ばわりされるなんて。
…でも、それもこれも、僕らの中に裏切り者がいるせいなのか。あの殺人鬼も怒り狂うほどの。
「そうか。だが…あ、いや、分かった。…ありがとう」
淀んだ空を見上げて。答えが出ないまま、ただ待つだけの日々。僕もまた裏切り者を探している。知りたいところだけど、けれど、誰もまだ見つけ出せていないようだ。刑事さんも。遺族のみんなも。何もかも、止まって動かないまま。
「奴にも、復讐の気持ちはあるんだな。他の者だって、ともに同じ人を思っているというのに。やれ遺体だ、裏切りだ、と。…なぜこんなにも離れていくのか」
「それは、殺人鬼と刑事さんとじゃ、違うからね。考えることも、大事に思うことも。そもそも、人はみんな違うものを見て育つんだ。これは、知り合いのひねくれさんの言葉だけど」
「彼女、君にとっては、大切な人か」
「そうだよ。僕を変えてくれた恩人さ。僕に、誰かを守る勇気と心をくれた」
「あの男も、東雲さんを守りたいと言っていた。東雲さんが例の機関に狙われ、時には君と一緒に、あれをやっつけていたのは知っている。山上はその模倣犯の一人だった。彼の境遇からすれば、彼女が自身と重なったのだろうな。だが、あいつの行ってきたことは、きっと彼女の思いではない。…虚しいことだな」
「僕はあの殺人鬼に同情はしないよ。あいつがいなくても、怜奈さんが悲しむわけないじゃないか」
「そうか。…無理もないか」
「何なのさ。刑事さんは、あいつの肩を持ちたいの?」
「いや、ただ…」
「ただ何なのさ」
「…この手は、人を救うと同時に、方や人を殺している。選択の連続の中で、何かを掴んだと思ったら、別の何かを知らずのうちに手放しているものだ。山上も私も東雲さんも、そういった重みに苛まれ、やがては潰れていくのだろう。いや、もう残っているのは、私一人だったな」
この両手に握っているもの。握れなかったもの。人それぞれにある生き方が、この小さな手のひらには刻まれている。
「僕だって、何かを得るためには、何かを犠牲にしなければならないことくらい分かってる。でも、それを言い訳にしようとは思わない。だからって人を殺していいことにはならないよ」
「そうか。どうやら君も、彼女から大切な何かを受けとったらしい。…それなら、一つだけ言わせてくれないか」
「何?」
「いや、君が見てきたものが、東雲怜奈の全てではない。どうか忘れないでいてほしい」
「分かってるさ。僕がまだ彼女の多くを知らないのは。僕は、もっと怜奈さんのことが知りたい。僕に見せる顔じゃなくて、本当の彼女を僕は知りたかったんだ。怜奈さんが何を抱えて、何を思っていたのか。僕に何を隠していたのか。何を叶えようとしていたのか。…そう。僕はまだ、叶えられていないんだ」
助けたい。助けたという証拠がほしい。この気持ちは、どうしたら叶うだろうか。彼女の意思は、一体何だったのだろう。
分からない。ただ怒りをぶつけるように、最近は彼女を売った人間を探している。きっとただ僕のために。僕がやりたいだけなんだ。
「そうか。なら、彼のところに行くといいかもな」
ポケットから手帳とペンを取り出して、書き付ける。それを慣れたように破りとって、僕へ手渡す。
そこにはある名前と住所が書かれている。正確には住所ではなく勤務地だが、僕に分かることではなかった。
「これは?」
「あの町医者の居所さ。東雲さんとは長い付き合いだそうだから、きっと君の知らない一面についても知っているだろう。まあ一人じゃ訊きにも行きづらいだろうから、私の方で誰か頼んでみるよ」
「…ありがとう」
気恥ずかしさとためらいに、控えめな感謝をする。
「それじゃあ、また」
「うん…」
僕らは別れた。この先も、刑事さんとは何度か会うことになる。そう、しばらくのお別れだ。
僕は知るわけもなかった。この日の会話の中に、一つ嘘をつかれていたことを。何かを隠す刑事さんの顔に、ついに気付くことはなかった。
頭の中と言う人もいる。けれど、心は常に胸の中にある。しまいこんだ暗闇の中に、何かを守りたいという二人のそれぞれの思いがあった。僕にとっては、おそらく知らないでいる方がいいことだった。
なぜ殺人鬼は模倣犯として名乗りをあげたのか。そして、刑事さんと怜奈さんとの関係について。不都合な真実に蓋をされているとも知らずに、僕はただ、今も怜奈さんを信じている。
山上とかいう男が息をひきとったのは、それから数日のことだった。彼はどうやら、飲まず食わずのうちに衰弱死を選んだらしい。どうせなら、模倣犯らしく轢き殺されればよかったのに。
4
決して善い人間などいない。誰しも心の内には、良心と同じくらい、いやそれ以上に、猜疑心だとか優越感だとかを抱え込むものだ。その二面を知らずして、相手を知ることはできない。
いかにも刑事さんが言いそうなことだ。待ち合わせの場所に彼の姿はなかったけれど、代わりにその言伝てを携えた、ある人が僕を待っていた。
僕はその人が正直苦手だ。口数が少なくて、地味で、とにかくよく分からない。不気味とまではいかないけれど、何だか関わりたくないなと思わせる空気があって。
そう。以前の僕にそっくりなんだと。
ともあれ、この同居人A、もとい遺族の方と待ち合わせて、ある診療所を訪ねた。理由はもちろん、彼女のことを訊きにだ。今日は天気もいい。空高く上がった太陽の元気さといったら、もう、弾けそうなくらいで。
事前の連絡はしてあった。受付は大人に任せて、その間、僕は椅子に座って周りを眺めていた。お年寄りから子どもまで、白い部屋にマスクを着けて、退屈そうにじっと座っている姿を。面白いわけじゃない。ただ日常の中に溶け込んでみたかったんだ。
落ち着くほども待たずに、僕らは案内された。普通の診察室だった。風邪ひいた子どもと付き添いを相手にしているみたいに、一度会った顔がそこにある。
「普通に仕事中みたいだな。悪かったかな」
遺族の方が話す。この人は、話す時は話すのに、何だか関わりづらいのがね。
「いえ、今から休憩ですよ。まあこんな町医者、休みながら働いているようなものですので、どうぞお気になさらず」
忙しそうな様子も見せず、僕らに対応するお医者さん。
「じゃあ、さっそく」
「どうぞ」
「聞いているとは思うけれど、僕らは彼女のことを訊きに来た。あなたは彼女が子どもの頃からの顔見知りだそうだね」
「いやはや、顔見知りというよりか、何度か診察したぐらいの間柄ですよ。そう特別なものじゃあない。ただ、彼女の場合は国連のお偉いさんも関係してきますので、ちゃんと診察しましたよと、そういう記録とか書類とかをやらなくちゃならなかったがね。それぐらいで、後はまあ、普通の医師と患者ですよ」
「国連のお偉方は何を訊いてきた」
「国連と言いましても、実際は下部組織の難民調査とか管轄してるところですからね。発育状況、身体的特徴、あと、精神的危険性。そういった項目をシートに書き込んで報告するだけで。なに、それで彼女が目をつけられるようなこともありませんでしたよ」
「その報告の目的は、いわゆる外の人間が脅威となるや否かということだろうか」
「普通に考えればそうでしょうなあ。他に思い付くことは、彼女の能力を調査し、あわよくば取り入れられないかということぐらいでしょうか。彼らも決して関心がなかったわけではないでしょうからね」
「そうか」
会話が一旦途切れた。分かったのは、このお医者さんと怜奈さんの関係性について。関係性というほどのものでもない関わりについてだ。
でも、妙じゃないか。そんな薄い付き合いの人が、改変後も関係性を保っているなんて。だって、十二人だけなんだよ。その人たちだけに、遺体が行き渡ったんだ。
「怜奈さんは、どんな人だっただろうか」
僕は医師に尋ねてみる。二人の視線は僕に向けられた。
「そうですね。怜奈ちゃんは…うん。初めて会った頃はまだ無邪気で可愛げがありましたかな。それからはもう、大人びた子でしたよ」
「何か特別なことは?」
「特別? ああ、小さい頃は黒服と来られてましたね。周りからもじろじろ見られてましたよ」
「うーん。もっとこう、ひととなりというか、プライベートな部分はどうかな」
「そうですねぇ。知っての通り、彼女は傷も治るし、病気にもならない体で、まあ診察なんて名ばかりでしてね。そういうこともしないといけないものだから、時間つぶしにちょっと、悩み相談のようなこともしてましたね」
…何だかね。どうしてもっと早く言い出さないんだか。こっちが訊けば訊くほど、情報が小出しに出てくる。
「まったく、柄にもないのにねぇ。いやはや、困ったものでした」
「怜奈さんはどういう悩みを抱えていたのかな」
「ああ、怜奈ちゃんは学校の悩みなんかが多かったですね。そりゃ子どものうちから仕事もしてたし、なかなか友達と、いやそれよりも学校の生活に慣れるのに苦労していたみたいですよ。よくある悩みかもしれませんが、事情も分かっている手前、どう言ってあげればいいのかと気をもんだものです」
「結局彼女はどうしたんだろうか」
「さあ。大抵の悩みは時間が解決しますからね。彼女も社交的な人でしたから、両立さえできれば、後はなるようになったでしょう」
「もっと本質的な話は?」
「そういったものはなかったと思います」
「本当に?」
「ええ」
「例えば、七年前くらいに調子が悪そうだったとか」
「そういう細かいことまでは。でも、私に明るい顔を見せたのは、本当に小さい頃だけだったかもしれませんね。一応学校を卒業するまで見てきたつもりですけど、まあ健康そのもので、ちょっと悩んでるといった風でしたな」
「あなたは相談相手として頼られていたのかもな」
相談。誰にでもあることだ。誰にでもある悩みと、ありきたりな答え。その時間は意味のあるものだったろうか。この会話は、それほど大切なものだろうか。
僕は忘れていた。怜奈さんにはほとんど「家族」というものがなかったことを。ここに居る同居人すら、七年前からの付き合いだというのに、その前の幼かった頃のことなど、とても想像できていなかったのだ。
「彼女、仕事のことは何か話していましたか?」
「ああ、霊媒師だそうだね。神社だとか宗教だとかに詳しいようでしたよ。私は全然分からないものだから、聞いたのに覚えられなくてね。そうだ、死んだ人が見えるっていうのは驚きましたよ。見えるだけじゃなくて、聞こえるし、何なら話せると言っていたかな」
「その幽霊とはどのような話をしていたと?」
「話というより、ただ慰めていたと。私のように治療はできないから、せめてと話していましたかな。これも幼い頃は楽しいようでしたけど、仕事と自覚をもってからは辛そうにしておりましたな」
「何か探しているという話は?」
「探す? いえ、存じ上げません。それも幽霊の話で?」
「いや、聞いてないならそれでいい」
僕も、何を探しているかまでは知らない。でも、この同居人は分かっているような口だ。遺族は知っているんだ。怜奈さんの求めていたものが。
今思うと、それは幽霊に関係することだったんだと気付ける。あのオカルト話に何かがあった。幽霊が、何かを知っている。
死んだ人間が、何かを掴んでいる。閉ざした口をこじ開けてまで、何を知ろうとしていたのだろう。
「さて、では今日はこのあたりで宜しいかな」
医師が会話を切り上げ、椅子から立つ。休憩時間を割いてもらっている立場上、文句も言えないし、僕は黙った。燃焼しきれない思いがふつふつとわきあがってくるが、とてもぶつけられはしなかった。
「最後に一つ」
隣の男は呼び止めて、
「何かね?」
「あなたは怜奈さんに何を訊いたんだ?」
医師は「特には」と言って、消えた。診察室に僕たちを残したままである。
「…怪しいな」男は言う。
「そう?」
「ああ。やっぱり公安の人が言うように、何を隠してる可能性が高い」
可能性か。変な言葉だ。
「よし、少し探ろうか」
「ええー、ここを!」
驚きのあまり声が出た。シーっと隣でジェスチャーするけど、これは僕が悪いわけじゃないよね。変なこと言っておいて、一人だけ冷静なんだからずるい。
「君だって、裏切り者は知りたいだろう?」
ふらふらとする背中についていく。会話を繋げながら。だから隠れているわけでもない。呼び止められないか心配だ。
「そもそもの話なんだけど、裏切り者っていうのは一体何をしたから裏切り者なんだろうか」
「それは前にも爺が言ったように、まず黒服たちに情報を流し、彼女の行動を知らせていたこと。あの日にしろ校舎に出かけた時にしろ、準備された状態で出迎えたわけだ。殺そうとね」
「何で命を狙われているか、そこから僕は分からないんだけど」
「怜奈さんは何も言わなかったのか?」
「幽霊には狙われやすいって言ってたけど。あれも誰かの仕業だったの?」
「そうだろうな。奴らはどうやら、七年前の殺人事件も彼女の仕業だと思い込んでいたようだぞ。あの模倣犯と同じく、奴らも強行におよんだというわけだ」
つまり、怜奈さんを狙う人間がいたというわけだ。いくらやり直したところで、そいつらをどうにかしなきゃ結果は変わらないということか。怜奈さんを殺されないようにするためには。
もちろん、あれが単なる事故だとは思っていなかった。けれど、それよりも前から、ずっと殺されそうになっていたとは思ってもみなかった。
結局、改変の意味はあったのだろうか。怜奈さんが関わる人間を絞り、知らない誰かに殺されないようにしたことなのに。結局、その外の人間が殺しに来るんじゃあどうしようもないじゃないか。
いや、絞った十二人。その中の裏切り者が、怜奈さんを殺しに来る人間と関係があるのなら、意味はあったということか。
「頭の中をいじくって、人を襲わせたという話だろう? あの日の彼女の様子も似ていると思わないか?」
「何かから怯えるように逃げていたけど」
「それ。実際は誰も追っていたわけじゃなかった。何か幻覚とか、幻聴とか、そういう細工を彼女にした奴がいるとしか考えられない」
「そんな大げさなぁ」
「例えば薬物の投与とかな。知らないだろうけど、そういうものを一度摂取してしまえば、人は簡単に狂ってしまうものなのさ。依存性があるから止められないし、次第にエスカレートする。それなら、まあ現実的な話になる」
ある程度一回りはした。もちろん他の人もうろちょろする所だからか、怪しいものなんてなかった。
「診察っていうのは、定期的にやるものだろう。見ようじゃないか。奴が何を隠したがっているのか」
そこでこの男は、いよいよ部外者立ち入り禁止の部屋の前に来た。ドアに手をかけ、
「ちょっ…」
開けてしまったのである。
5
部屋は薄暗かった。壁に貼られた専門的な文章とか画像とかから、あの医者の個人的な研究室であろうことは分かった。論文とかそういうものなんだろうか。日本語以外のものがある。
勉強机みたいなものがある。紙で溢れていた。壁に貼るぐらいだから、机の上も当然散らかっているだろう。床にも散らかっていた。
「あの医師、内科医の筈だぞ」
Aさんが何かの資料を見て呟く。資料と言ったのは、僕がそれが何だか分からないからだ。何か書いてあれば、それは資料だ。
「…何であいつ、解剖学なんて研究しているんだ。外科手術とか、修復細胞とか」
「…何それ?」
「俺にも分からん。そう書いてあるだけだ。だが、そういう論文を何やら漁った形跡がある。海外のを取り寄せてまで。おっと、自分でも何か出そうとしていたようだな。書きかけのやつがある。メモも。実験がどうたらと」
そこで、机の引き出しに手をかけた。驚きは、ここから始まる。
上からまず一段目。怜奈さんの写真があった。まだ僕と同じくらいの、昔の写真。何だか、気持ち悪いなと、怜奈さんの写真を見ながら思ってしまった。何であるのさ。気持ち悪いよね。
「異常だね」
「ああ」
二段目。どうやら、診察の記録のようなものがつまっていた。カルテとかいうものらしいが、知らない。体の状態だとかが書いてあるようだ。
「診断書だが、もちろん診断なんか書いてないな。やはり、能力がらみのことが調べてある。どこまでの修復が可能かとか、期間の計測はできるかとか、メモ書きして、まあ調べようとして挫折した感じだな。彼女の特異基質を研究して、ゆくゆくは自分の名で公表したかったのだろうが。町医者が、名声でも欲しかったのかね」
三段目。二段目と同じく、資料がつまっていた。相変わらず山積みの紙束だ。これだけの間、診断を行っていたという証拠だ。何とも嘘つきだね。
「しかし、投与の記録はなしか。その線は外れのようだな」
「本当に相談だけだったのかね」
最後、四段目。底の深い引き出しを引っ張る。しかし、開かない。鍵をかけられるタイプらしいことを今になって気付いた。一番下だけ、鍵をかけていたのである。
ただ、そんなものは関係ないと言わんばかり、この人は無理矢理に引っ張った。どこにそんな力があるのかというくらいにガシャガシャと。すると引き出しのレーンが外れて、手前に落っこちてきた。ぶっ壊したんだ。もう無茶苦茶だった。
でもそんなことはどうでもいいほどに、中から異様なものが出て来てしまったのである。
絶句。唖然だった。それは、一言で言うならば「指」だった。およそ遺体であったもの。それが機械仕掛けに改造された右手になっていたんだから。
「おい、何だこれはあああ!」
理性を取り戻した男の怒号が飛ぶ。きっとこの建物中に響いただろう。それがどうしたものか。そんなこと言ってる状況じゃないと言わんばかりだ。
正直、僕としては驚きはしたけど、そこまで声を荒げはしなかった。僕の左手も彼女なんだ。そのことをみんな知らなかったのかな。知ったら僕もこのくらい怒られるのかな。
知っているのは、父さんとベイスさんくらいだろうか。あとの人には普通の義手に思われてる?
ドタバタと音がしだして、ああいよいよ見つかったんだなと分かった。押し寄せてくるぞ。そう身構えていた。けれど、扉が開いて入ってきたのは、あの医師一人だけだった。
どうせなら、誰かに聞いてもらえばよかったのに。これが刑事の求めた、社会的に証明がされるということだろう。
「弁明なら聞かないぞ」
男は牽制する。さっきまでの隠し事で、もう何を言っても信用できないぞと。だが、
「…わけを聞いてくれ」
相手は全くもって懲りていないのである。
「これは彼女の右手だったものか?」
「そうです」
医師が認めた。それだけで動揺してしまった。
「何でこうなった」
「多くの人を助けるためですよ。これは外科手術に使う手です。文字通りの手になります。この指を手にはめれば、細分の狂いもなく、正確に、手術を行えるようになる。難易度が大きく下がる。それだけじゃない。時短で多くの人を診れるようにもなる。知識があれば誰でも行えるようにも。この手さえあれば、救える命が増えるんだ」
「あんた、たかだか町医者じゃないか。外科手術なんてしたこともないだろ。だいたい、そんなものを作ったお前の頭はおかしいし、そんなおぞましいものが受け入れられると思っているのもおかしいんだよ。ただのお前の欲求に、人の命を冒涜する権利はない」
「欲求ですか。人を助けたいという医師の願いが、そのように蔑まれるとは。いいですか、これがあれば医療は飛躍的に進歩します。形状記憶合金ですら成し得ない、折れず曲がらず、アレルギー反応もなく、そして腐らない。加えて疎水性と人体への親和性もとれた素材。肉質の弾力が病巣を傷付けず、使用者の手にも馴染む」
何を言っているのかほとんど理解できない。この物を見るに、まるで素手に素手をはめて、傷口をそのまま摘まんだり抉ったりするのだろう。違いと言えば、爪の先あたりが細く伸びて、ピンセットのように変形していることだろうか。抵抗あるなぁ。まったく。
「奇跡だぞ。この機器をはめると、思いがけない揺れから微細な振動までをもかき消してくれる。寸分の狂いもない。まるで意思があるみたいにだ。そう患者を救いたいという意思だ。医師の心の乱れを修正し、患者の脈動にも合わせ優しく触れる。私の研究がついに実ったのも奇跡だが、その理論が実際に実現しているのもまた奇跡。いや、それ以上のことをしてくれる」
「だがこれが使われることはない。倫理的にも、実践的にも。要は器具を作るのに人の肉を使うということだ。そんなのできるわけがない」
「代用ならばいくらでもできる。人工繊維でもイルカの肉でも何でも用いるといい。もっとも、これのように腐敗や劣化、アレルギーに対して完全とは言えないが」
「あんたの本心が分からない。発明家気取りか? まさか本気で世の中に出すことを考えてるわけじゃないよな」
「いけませんか?」
「お前は矛盾している。論文を読み漁って、何とか怜奈さんの体質を公表できないかと考える一方で、あんなにも彼女との関係を隠していたのはお前だぞ。お前は分かってるんだ。自分がおかしいっていうことは。資料もろくに揃えられず、ただ彼女の特別な体質に惹かれて、証明することに固執している。そんな個人の主張が到底世間に受け入れられる筈ないじゃないか。それもこんなもので」
そこで医師は黙ってしまった。ただ、悔しそうに見えた。
「これはもう、お前にはやれない。俺たち家族が今後は預からせてもらう」
「…ああ」
どうしていいか分からない。ただ頷いて、そのまま従った。これまでの研究も、時間も、何のためにあったのか。認めてもらえないのかといったように。
「証明は難しいものだ。この手ならば、きっと誰かが救われることで、彼女の思いが伝わると思った。だが、そうか。人を救うのは、救う形は、手では駄目なのか。これに心があるとは信じ得ぬか」
ふと、コロコロと音がした。床に何か転がったが、散らかった汚い部屋の中でよく見えなかった。そして
「伏せろ!」
男が急に怒鳴った。ややあたふたして、僕は伏せた。医師の方も同じようだったと思う。体が反応するのと同時に何かが破裂し、視界が何も見えなかった。
「何! 爆発!」
音と風と熱。煙。消えるまでじっとして、視界が徐々に戻っていった。大きな破壊の跡があった。煤と傷が見え、資料は吹っ飛び、床は凹んでいた。
そして、あの医師が横たわっていた。抉れたような傷を残して。さっきまで話していたというのに。
「畜生!」
「誰の仕業なの!」
「分かるか!」
白昼堂々、僕らを狙う奴がいる。平然と公共の場を爆破した。それもすぐ近くまで来ていたんだ。
まったく、とんだ疫病神だ。僕って奴は。僕と関わった人間が、最近になって次々と死んでいる。僕に関わった人間が不幸に遭っている。
急いで診療所をあとにし、人気のある表道に出る。さて、これからどうしたらいいのか。手掛かりの途絶えた道に、指針も何もなく。
ああ、怜奈さん。僕は誰から君を守ればいいのだろう。




