第3話 1
「そういえばなんだこの部屋は! ひ、広い! 広すぎる! それにホテルのスイートみたいではないか! わぁ! 海テレビがあんな近くに! 東京タワーもレインボーブリッジもばっちり見えるではないか」
一通り“あの小鳥”と再会の愛撫を済ませた後、ハイコははしゃいだ子供のように言った。
どうしてこんなことになったのか。今日会ったばかりの担任を自宅に上がらせているなんて。……ありえない。自分はどうかしてしまったのか? 一人になりたいと思っていた自分はどこへ行ってしまったのだろう。
ハルカはほとんど使っていないキッチンでウーロン茶を注ぎながら一人悶々としていた。そしてため息をついてからウーロン茶をトレーに乗せ、リビングの窓に張り付く子供のような担任──ハイコの元へと運ぶ。
「……どうぞ」
無愛想に言った。別に怒っている訳ではない。
「おぉっ! かたじけない」
ぱぁっと表情を明るくしたハイコがさっそく飲み始めた。
ゴクゴクと──腰に手を当ててどこまで飲むのかと思ったら──
「はぁーっ! 生き返るーっ」
全部飲んだ。
客人をもてなすことに慣れていないハルカは少し考えた後キッチンに戻り、冷蔵庫からウーロン茶のペットボトルを持って来てテーブルに置いた。……いくらでも飲めと。
「ハイコォ。おまえ少しは遠慮しろよなー。ハルカ怒ってるぞー?」
空色の小鳥がハルカの左肩にちょこんととまり、その舌足らずな声でハイコを脅すように言った。
「……別に」
ぼそっと言ったハルカは静かにソファーに座る。
「だっ、だって愛しのエリザベスに逢えて気が抜けたら──……」
もじもじと言い訳らしきことを言うハイコを完全無視した様子の小鳥が、テーブルに舞い降りてハルカを見ながら、
「あっ、あのさ、オレのこと助けてくれてありがとなっ! あのまま道に落ちてたらオレ車に轢かれて唐揚げにされてたよ~」
「……別に」
道で死んでる鳥を唐揚げにしようと思う人はいない──。ハルカはさりげなくグロテスクなことを言う小鳥に突っ込みを入れることなく、ただこっそりと真顔で考えていた。
この小鳥も性格が“ハイコ属性”なのかと思うとがっかりした。……人間以外のしゃべる動物になんて滅多に会えない──というか普通は一生に一度も会えないから。自分と“波長”の合う存在を、ハルカは自身でも気付かないうちに常に探していたのかもしれない。
「おぉっ! ハルカはクールだクールだぁ! かぁーっこいーっ! 誰かさんとは大違いだなっ」
小鳥は何度も何度も宙返りし、八の字飛びをしたりした。
玄関を開けるなり勢いよく飛び出して来たので、もうすっかり元気になっているようだった。そして声や口調は相変わらず幼い男の子そのものだった。“鳥がしゃべっている”という感じはまったくしない。目を閉じるとそこに人がいるようだった。
「誰かさんとは誰のことかな~愛しのエリザベス? “あれ”をやっちゃうぞ~う?」
いたずらっぽくにやりと笑ったハイコは小鳥をひょいと捕まえて、「あ~ん」と口を開けた。
「ギャーッ! イヤーッ! “暗いの狭いの”やだぁっ!」
必死にもがく小鳥。
(……まさか)
嫌な予感がした。ハルカは思い出していた。とある蜘蛛好きの男が、飼っているピンポン球くらいのタランチュラを“愛情表現だ”といって自らの口に入れる様子が流れるテレビ番組を。
「助けてハルカァッ!」
「えっ?」
急に名前を呼ばれたのでびっくりしたハルカだったが、妙な使命感が湧いて来た。
(助けないと……!)
ハルカが取った行動はシンプルだった。絨毯を思いっ切り引っ張った。ただそれだけ。
「わっ! とっ! なっ!」
絨毯の真上にいたハイコはバランスを崩して尻餅をついた。解放された小鳥が、「わぁーい! ざまぁみろハイコッ!」と言って“当たり前”のようにハルカの元へ飛んでくる。それが嬉しくて、ハルカは思わず右手を持ち上げて“止まり木”を作ろうかと思った。しかしとまってくれなかったらきっと自分の心は酷く傷付く──そう思ったら急に怖くなり、やめてしまった。
「ありがとなっ! ハルカァ」
小鳥はハルカの目の前で一回転し、左肩にとまった。“当たり前”のように。
(か、かわいい……)
その小鳥の無邪気さに、ハルカの心には何か温かいものが芽生えていた。嬉しかった。ほっとした。
しかしハルカは小鳥の方を見ず、撫でることもしないで、ただ小鳥が落ちないように、ぎこちなく背筋をピンと保つだけだった。
「……酷いよエリザベス。もっと私に優しくしてくれてもいいのでは? いったいどれだけ心配したことか……。昨日は眠れなかったのだよ? ずっと君を探していたのだから」
しょんぼりと言うハイコに、
「そっ、そうなのか? それは悪かったよ」
しおらしくなった小鳥はテーブルに舞い降り、ぴょんぴょんとジャンプして縁に寄り、ハイコを見上げた。
「オレがちゃんと“シールド”張ってれば、あんなことには……」
「エリザベスのせいではない!」
テーブルの前に正座したハイコの表情は真剣だった。
「私がいけないのだ……。“ちゃんと飲まない”から……」
「ハイコ……」
沈黙が下りた。お互いに何かの責任を取り合っている。
昨日何があったのだろう。どうして小鳥は苦しそうに飛んでいたのだろう。その前に何故小鳥がそんなにも滑らかにしゃべるのだろう。しかもオスのようなのに何故“エリザベス”なのだろう。
ハルカは事情が飲み込めず、ききたいことがたくさんあったのだが、それをすることをせず、ただ黙って二人の顔を交互に目だけ動かして見つめていた。
教えてくれると言っていたので、きかないでもそのうち分かることだと思った。しかし本当は怖かったのかもしれない。“関係ない”と言われるのが。急に冷たく部外者扱いされるのが。だから“興味ない”というように気配を消してじっとしていた。
「……ハルカ」
静かなハイコの声に名前を呼ばれ、ハルカは緊張しながらも返事をする。
「……なに?」
「資料によると、確か君はダディーと二人暮らしだったね? いつも何時頃お帰りに? さすがにまだ来ないだろう? 今から話すことは誰かに聞かれたらまずいことなんだ」
「……ずっと来ない」
ハルカは目を伏せてぼそっと言った。
「えっ?」
「一緒に住んでない。お父さんは今イギリスか──イタリアかフランス辺りにたぶんいる。もしかしたらアメリカかもしれないけど」
淡々と言った後、ハルカは何かきかれる前に自分から答えた。
「貿易関係の仕事してるらしいから」
ハルカは身構えた。“こういう話し”をすると決まって相手は何かまずいことをきいてしまったみたいに気まずい顔になり、“大変だね”とか“淋しくない?”とかきいてくるから。かわいそうな目で。そういうのは嫌いだった。自分が惨めに思えてくるから。
しかしハイコは違った。かわいそうなものを見る目ではなく、まるで大事なものでも見る時の目だった。穏やかに微笑んでいた。何かを悟ったような。そしていきなりハルカが座るソファーに近付いて来たと思ったら。
「かわいいなぁハルカ嬢は──」
言いながら屈み、ハイコはハルカの背中に腕を回してきた。ハルカの肩に顎を乗せながら、「偉いね。よく頑張ったね。淋しくない訳ないもんね……」と静かに囁いて、背中をそっと撫でてきた。低く、甘い声だった。
ハルカは涙が溢れそうになっていた。
担任の先生に抱きしめられるなんて気持ち悪いはずなのに、そういう涙ではなかった。どうしてそうなったのかは分からない。初めてだった。生まれて初めて、ちゃんと人に優しくされたような──。出来損ないで捻くれ者の自分が、今ここで息をしていることを、存在してしまっていることを、初めて赦されたような──。感じたことのない安らぎだった。
しかしハルカは例によってあまのじゃくなので、涙を流れる前に気力で押し戻し、またもや“初めて”を奪われた──という屈辱を胸に抱き、“人形フェイス”を整えて、だらりとソファーに置いていた両手を持ち上げ、
「……」
無言でハイコの鳩尾辺りを押しやった。
「話すんならさっさと話せば? エリザベス引き取ったんなら早く帰って欲しいんだけど?」
クールには言えたが、「おぉっ! なにやらハルカ嬢が照れていらっしゃる!」というハイコの妙に嬉しそうな台詞から、“人形フェイス”の失敗を悟るハルカ。
「照れてないっ」
ちょうど近くにあったクッションを無造作に掴んだハルカは、「かーわーいーいー」とからかうハイコのへらへら顔目掛けて投げようとした──が、やめた。この場合理不尽ではないが、やっぱり暴力はいけない。
「……あれっ? やめちゃうの?」
顔を腕でガードしていたハイコがきょとんとなって言った。
「投げればよかったのにぃ~。あーあー」
小鳥はがっかりしたようにぶーぶー言った。……さっきから気になっていたが、どうやらこの小鳥はハイコに絶対服従──という訳ではないようだ。
「はぁっ」
大きくため息をついたハルカはそれ以上構うことなくソファーにもたれ掛かる。……何だか疲れた。早く帰れ。とっとと帰れ。




