後編
力を自覚し、慣れること。
レグルスがリラに教えたのはそこからだった。氣の巡りをさせて体に馴染ませる。体から零れそうになったら外へ出す。それだけ。
神官たちは、それを意図してやっているのだそうだ。祝福するときは、氣を聖水と一緒に相手へおくる。傷を癒すときも、祈るときも、そうして力を使う。
リラがこの邸に来てから五日を数え終えた日。
そのころにはすっかり家具も揃って、庭の手入れもされ、邸の荒れている場所はなくなっている。リラも簡単な料理と洗濯をしながら、あの窓辺で氣を巡らせながら空を見上げていた。
「……なんの音だろう」
バサバサバサ、と大きな音がしてリラは思わず首をかしげる。
窓を開けて身を乗り出すと、白い羽根がふわりと舞っているのが見えた。すると、鳥の羽ばたいた音だろうか。
迷ったリラは、居間の扉と窓とを見比べたけれど、扉へと足を踏み出すことにした。
廊下から玄関へ向かい、そっと外へ出てぐるりと邸の壁を伝う。白い羽根が風にあおられてリラの髪をなでた。
居間の窓から少し離れたところに、白い鳥がいた。
地面に倒れるようにして、変な向きに羽根を広げようともがいているように見える。リラは慌てて駆け寄った。
「怪我をしているようですね」
リラが近づくと警戒して飛ぼう飛ぼうとさらにもがき、白い羽根がいくつも抜けていく。助けたいのに、これでは酷くしてしまう。
おろおろしたリラの後ろから聞き慣れた声がして、リラはほっと胸をなでおろした。
「レグルス」
「翼が折れてしまったのかもしれない。可哀相だけれど、捕まえさせてもらおうか」
苦笑したレグルスは、リラの頭を軽くなでてから鳥のもとへとしゃがみ込む。
鳩ほどの大きさの鳥にためらいもなくひょいと手を伸べ、羽根を動かせないよう押さえながら抱き上げた。居間へ戻ろうと言われ、リラもそれに続いた。
窓辺にタオルを重ねてから、その鳥を下したレグルスはまだ手を離さない。
「リラ、やってみませんか?」
一歩下がったところで鳥を見るしかできなかったリラへ、やさしく尋ねる声。
言われた言葉を察するまでに、瞬きが二回。
傷を癒すのだと気づいてリラは戸惑いの視線をレグルスへ向けた。
「氣が整っていると、自分でわかっているでしょう? あとは、リラが彼を癒したいかそうでないかなんだけれど」
「……やってみます」
必死にレグルスの腕の中でもがく鳥は、警戒と痛みとで高い声を上げている。
レグルスがリラに力があると言った。
使い方も覚えているところ。
そしてリラは、その鳥の痛みを取り除いてあげたかった。
決意をして唇を噛むと、レグルスが苦笑を浮かべながら隣へ促した。レグルスの手と白い羽との間に、リラはそっと自分の手を差し込む。
「自分の中の氣を、ほんの少しずつ与えてごらん」
鳥が暴れようとするのを、レグルスがぐっと押さえる。
はからずともレグルスに手を包まれる形になって、彼のあたたかさに肩の強張りが解けていくのを感じた。
目を閉じて、リラは手のひらに集中する。
ふわりと氣が動くのを、きちんと意識して、手のひらからやわらかな羽根の持ち主へと注いでいく。
治りますように。その痛みが、消えていきますように。
祈る思いが届くと願って。
「リラ。目を開けて」
明るい日差しがまぶしくてまたたくと、自分の手の中で大人しくなっている鳥と目が合った。
真っ白な体なのに、目の周りが青い。短めの嘴は先が黄色で、ふっくらした頭をかしげてリラを見つめている。
レグルスがリラの手をゆっくりと外した。鳥はそこにちょこんと佇んだまま。
「ほら、綺麗に治ったよ」
くりっと頭を動かして、羽根の下に嘴を差し込む白い鳥。
体を覆うように纏っていた光が、ふわりと空に溶けていくとくすぐったそうに羽根を動かした。リラは思わず、自分の手をまじまじと眺めてしまう。
レグルスを振り返ると、彼はあの空色の瞳でやわらかくほほえんだ。
白い鳥を外へ戻そうと、窓を開けたのだけれど。
彼はリラを見上げては首をかしげるばかりで、ちょんちょんと窓の縁を動いてはピイピイと囀った。懐かれたねえと笑うレグルスに同意するかのように、パッと羽ばたくとリラの肩へとその身を移す。
出ていく気がないのだろうと、ひとまず邸にいさせることになった。
その次の日から、レグルスが邸をあけることになるらしく、彼はちょうどよかったと困ったように笑う。リラがひとりだけで邸に残らなければならないことが気がかりだったようだ。
朝、食事を済ませたところで、リラはレグルスを見送る。
誰かを見送るなんてことは初めてで、手を振る彼が見えなくなると、なんとも言えない気持ちが残った。
邸の門からは出ないこと、夕方までには戻ること、昼食をしっかりとること。
昨日の晩から、そわそわしたレグルスはそれを何度かリラに言い含めた。そんなに心配をしなくても大丈夫なのに。リラはいつもの落ち着きをどこかへやってしまったみたいなレグルスを思い出して、くすりと笑った。
片づけをして、洗濯をして、窓辺でまた氣を巡らせる。
アビレオと名付けた白い鳥に手のひらをあててやると、薄っすら光が彼を覆って、きらきらと舞っていった。
昼を過ぎて、ひと息ついていたとき。
開けていた窓からアビレオが羽ばたいた。驚いて窓へ駆けたリラには、空に吸い込まれて小さくなっている白い姿が映るだけ。
怪我も治っているから、帰ってしまったのだろうか。
それなら喜ばしいことなのだけれど、リラは胸がぎゅっとなって空から目が離せなかった。レグルスに、なんて言おう。彼も悲しむだろうか。せっかく邸に迎え入れてくれたばかりなのに。
誰もいない部屋は、なんだかとても広かった。
それほど大きな家ではなく、家具も揃えられ、初めのころの閑散とした空気なんてなくなっているのに、心細く思うのはなぜだろう。
思いながら、リラは自分のこの胸の痛みがさみしさや悲しさだということに、ようやく気づいた。
「アビー」
ぐっと唇を噛みしめていたリラは、耳慣れた羽音が窓辺に降り立つのに気付いて、大きく目を見開く。
白い姿がちょこんと舞い降りて、リラへ向かって羽ばたいた。
思わず受け止めようとした手の中に、落とされたのは小さな箱。得意げにピイと鳴いたアビレオは、定位置だと言いたげにリラの肩へおさまった。
リラは手の箱を驚いて見つめた。
紙でできたそれは、片手にのる大きさ。開けてみると、クッキーが入っていた。
アビーが、どこからか取ってきたのだろうか。それとも。
リラにはやさしく笑う青い瞳が思い浮かんでいた。リラがひとりでいることを、心配してくれていた声色が聞こえた気がして。リラはあたたかな窓辺で日差しに目を細める。
「うまく運べたようだね」
夕焼けに空が染まると、玄関が開く音がしてリラは廊下へと急いだ。
肩に乗ったアビレオに目をとめたレグルスへ、リラは手にした小箱をおずおずと差し出す。すると彼は、にっこり笑ってリラにうなずいた。
「食べてよかったのに。クッキーは好きではなかった?」
居間へうながしながらの言葉に、リラは慌てて首を振る。
「レグルスも、一緒にと思って」
ひとりで食べるよりも、レグルスと向かい合って食べるほうがおいしい気がしたのだ。
送ってくれたのが彼にしても、そうでなかったとしても、リラはうれしかったから、それを彼と分けたかった。
小さな声だったはずなのに、レグルスにはしっかりと届いた。
彼は驚いたようにわずかに目を見開くと、ぐっと眉を寄せてからリラの手を取った。
「……ありがとう」
困らせてしまったかとヒヤリとしたリラに反して、レグルスはリラを見下ろしてほほえむ。かすれたような声が礼を述べ、青い瞳がまっすぐとリラを見つめていることに、今度はリラが息をのんだ。
どうして彼がそんな顔をするのか、わからない。
けれども、リラに席を勧めて紅茶を淹れ始めたレグルスは、機嫌を損ねた様子もなかった。耳を澄ませると鼻歌が聞こえてきて、リラはほっとする。
そうして口にしたクッキーは、甘くて、さくさくして、とてもとてもおいしかった。
旦那様に宛てた手紙を書きながら、リラはため息をこぼした。
この邸に来て、穏やかな日々を送って、リラに望むものなどなにもないはずなのに。
その日あったことを書く手が重い。
婚約者であるはずの旦那様とは、未だに会えていなかった。
数日に一度、あの手紙のやり取りは続いている。朝起きると、丁寧で紳士的な言葉たちがリラを迎えてくれる。けれども、それだけ。
それでもよかった。リラは旦那様に対して感謝の気持ちはあっても、不満なんてあるはずがない。
ひとりになった邸で、リラのため息が溶けていく。
アビレオとだけになるこの時間、リラは気づけばレグルスのことばかり考えていた。いつでも真摯にリラに向き合い、やさしくほほえむレグルス。
惹かれてしまうことを、リラにはどうすることもできなかった。
きっと時間をおかずして、この気持ちは育ってしまう。それなのにリラは、旦那様と結婚をするはずだ。そのそばに、レグルスが控えるのだろうか。そこで自分は平常でいられるのだろうか。
感情を抑えつけることはよくないと、レグルスはリラに言い含めていた。この思いを持て余したら、またリラは、せっかくの神力をあの気持ち悪いものに戻してしまうかもしれない。導いてくれたレグルスを、裏切ってしまうかもしれない。
そうはなりたくなかった。
だからリラは、このままではいけないと思う。
もしも。もしもだけれど。
旦那様がリラとの結婚に興味がないのなら。この婚約をなくすことはできないだろうか。レグルスと結ばれるだなんて厚かましいことは願わないにしても、そのすぐ横で違う男性と暮らすことは避けたかった。
そうすれば、リラは心を乱さずにいられるはずだから。
「……レグルス、あの、お願いがあるのだけれど」
決心がついたのは、二日経ってからの朝だった。
食事の席では言い出せず、レグルスを見送るときに、ようやくリラは重たい口を開く。するとレグルスは驚いてからすぐににっこりと笑った。
「なんでも言って。リラからそんなことを言われたら、なんでも叶えてあげたくなる」
明るい声に、リラは背を押されて言葉を続けた。
「あの、あのね。……だ、旦那様にお会いしたいの」
はっとレグルスが小さく息を飲んだ。
浮かんでいたはずの笑みが、張り付いて固まった、そんな顔で彼はリラを見つめている。
「……それは」
予想外だったのだろう。呆然と動きをとめたレグルスに、リラは服の裾を掴んで言葉を並べた。
「一度もお会いしていないから、会ったら迷惑なのはわかっています。でも、どうしても、お会いしてお願いしたいことがあって」
「すまない……それは、今は」
口ごもるレグルスの表情は硬い。
こんな顔は初めて見る。だからリラは、自分がまずいことを言ってしまったのだと後悔した。やはり、言うべきではなかったのだ。
今まで、レグルスたちのやさしさに胡坐をかいてしまっていた。そんなことをできる身でないのだと、一瞬でも忘れてしまうほど気が緩んでいただなんて。
慌てて首を振って、ぎゅっと手を握る。
「ご、ごめんなさい。あなたを困らせるつもりはなくて……わかったわ、それならお手紙を書いてみるから、できたら渡してもらってもいいですか? そ、それとも、あの、それも控えたほうがいいかしら」
呆れられてしまっただろうか。
慎ましやかに暮らすことに飽き足らず会いたいだなんて。レグルスでなくても驚くし、顔をしかめるはずだ。
胸に秘めた浅ましい願いまで、見透かされたらどうしよう。
レグルスには、レグルスだけには、知られたくない。
裾にしわを作る手に力を込めたリラへ、レグルスはぐっと言葉を詰まらせてから苦しげに吐き出した。
「会ったこともない主人に、いったいなにを望むんだ。……私ではいけない?」
空色の瞳に翳りを落として、レグルスは首を振る。
「いや、忘れてくれ。あなたのためになるなら、主人も快く受け入れるでしょう。もし書きあがったら、アビーに持たせて」
早口にそう言うと、返事を待たずにレグルスは出て行った。
バタンと閉まる扉の音。
なにを言われたのか、うまく飲み込めないでいるリラはひとり残され立ち尽くす。
硬く強張った声も、暗く沈んだ瞳も、素っ気ない態度も相手がレグルスだったことが、リラの心を凍りつかせてその場から動けない。
ピイと鳴いたアビーの声が、慰めるように響いた。
じわりと浮かんでは零れようとする涙をこらえながら、リラは旦那様への手紙を書いた。
レグルスに嫌われてしまったかもしれない。
あんな彼は初めてで、リラは自分のしたことが酷く醜いことのように思えてきた。レグルスにあんなことをさせてしまったのはリラ。厚かましくて、愚かで、身の程もわきまえていなかったのだから、しかたがないことだ。
一度言葉にしてしまったことは、取り消しがつかない。
それに、こんな自分がここにいることは、ふさわしくないのだとますますリラは思った。だから旦那様への手紙をしたため、婚約をどうぞ解消してくださいとお願いし、アビレオに託すことにした。
白い翼が空に吸い込まれるのを見送っていると、馬車が走る音に気づいた。
どんどん近くなってきたそれは、邸の門の前で停まる。
リラは驚いて見つめていたが、降りてきた人影に慌てて玄関へと駆けた。
「久しぶりねえ、リラ」
数か月ぶりに顔を合わせた母親は、侍女をふたり従えて、にっこりとリラへと笑みを浮かべる。
羽根つき帽子をかぶって、揃いの紫色のドレス。手袋をはめた手には閉じた扇子が握られていて、よそ行きのめかした格好だった。
高い猫撫で声がねっとりと玄関ホールに響いて、リラはびくりと肩を揺らす。
「聞くところによると、おまえは貴重な力が使えるようになったそうね」
どうして。
目を見開いたリラに、母親は悠然と笑った。
「今まで散々迷惑をかけたのだから、親への恩を返すのは当然。その力、お母様たちのために使えるわね?」
機嫌よく言葉が真っ赤な唇からすべってくるのを、リラはただただ浴びることしかできない。
「厄介払いができると、あまり考えもせずにここへ送り込んだけれど。他に使い道があるなら、もっと相手を選べるわ。――そういうことだから、一度戻りなさい。おかしいと思ったのよ、あんな気味の悪い儀式のあとでおまえを望むだなんて。価値があるとわかっていて黙っているなんて、神官というのも強かですこと」
鼻で笑ってみせてから、母親はぱさりと開いた扇子を揺らした。
そのときだった。
澄んだ空気とともに、静かな声が響いたのは。
「誰の許しを得て、この邸にいる」
リラの目に映ったのは、綺麗な青。
まばゆい光が現れたかと思うと、鮮やかな青い服が目の前にあった。銀髪を輝かせてから、光はふわりと消えていく。
突然姿を現した男に、母親は後ずさる。けれども、相手が誰だかわかったのだろう。勝気な表情を収めることはしなかった。
それに男は――レグルスは、眉をあげて首をかしげる。
「婚約だが今すぐに引き取ってくれてかまわない、今後関わることもしない、と言ったのはあなたのはずだが?」
相手の家に迎え入れられるのは、結婚してからというのが一般的だ。
婚約をしてすぐ移ったのだから、自分が出ていくことを母親たちが強く望んで婚約者へ押しつけたのだと察した。
普段の穏やかさを少しも感じさせず、レグルスは粛然とした声色を母親へと向ける。
「リラの神力を濁らせていたのは、紛れもなくあなただ。価値を落としていたのも、あなただ」
「なっ……ぶ、無礼な! 先ほどから黙って聞いていれば、一介の神官がなにを偉そうに」
「……権力がお好きなら、神殿にも興味がおありかと思ったが違うようだな」
真っ赤な顔をした母親に、レグルスは少しも表情を崩さない。
「青に銀糸の神官服がなにを意味するか、知らないならしかたがない」
リラはその衣から目が離せなかった。
硬質な床の上に膝をつき、この裾を見つめたことを覚えている。神殿の澄んだ空気、響く鼓動、聖杯のヒビ、冷たい雫。
あの日、この服を纏った司祭の前で、リラの希望はすべて奪われたはずだった。
「し、神官長様。突然いなくならないでください……!」
母親が訝しげに眉を寄せたとき、白い服の男がふたり、息を弾ませたまま駆け込んできた。
バンと勢いよく開いた扉に母親の肩が跳ねる。そして、目の前に立つ男を唖然と振り返った。――しんかんちょう。声にならずに唇だけがその音を紡ぐ。
「自宅の結界をくぐった者がいたとなれば、仕事どころではないだろう」
「言ってくだされば、私たちが動きますから!」
「リラがいるのに他人に任せてなんていられない」
「婚約者様がご心配なのはわかりますが――」
「わかっているなら、話は早いじゃないか。大人しく待っていてくれ」
ぐう、と言い包められた神官は眉をへの字にして押し黙る。してやられたと顔で語るけれど、言われたとおり口をつぐんだ。
ふうと息をはいて、レグルスはリラの母親へ目を戻す。
「神官長を務める者との縁ができただけで、満足しなさい。ただし、だからといってこちらへ介入することは許さない」
呆然とする母親は、その言葉に悔しげに唇を噛んだ。
射るように鋭い視線をリラへ投げつけたが、青い背中がそれをさえぎる。
「婚約も解消しない。リラ、あなたもそれでいいね?」
肩越しに向けられた空色の瞳。
それはリラのよく知ったものだった。
レグルスの声に、リラはうなずき返すだけで精一杯。けれども彼にはそれで十分だったようだ。
「と、いうことだ。来月には式を挙げる」
きっぱりした声に、まだ肩で息をしていた神官から悲鳴が上がった。早すぎますっ! 準備が……! 息も絶え絶えなのに声を張り上げたのでゲホゲホ噎せてしまっている彼らに、レグルスは澄まし顔で取り合わなかった。
リラの母親を見すえて、動じることなく言葉を続ける。
「諦めなさい。神殿は神官長の結婚を快く祝福する。今まで散々結婚しろとせっついていたのだから。その婚約者が嫌だと言わない限り、破棄されることもない。そして、あなたが望んだように今後関わることもしない。――話は以上だ。客人がお帰りになる。お見送りを」
「ちょっと――」
ぞんざいに手を振って話をしまいにすると、まだ言い足りないとばかりに口を開いた母親を、ぜえぜえしていた神官たちが表へうながす。侍女が慌ててそれに続いた。
「おまえたちはそのまま戻れ。口の軽い神官の洗い出しもしておくように」
白い神官へそう言葉を足してから、閉まった扉にレグルスはきちんと鍵をかける。
カチリと乾いた音がした。
そしてとても静かになった。
「リラ」
立ったまま、動けないでいるリラの手を、青い服の男は居間へと導く。
大きな窓の前までくると、ようやく彼はリラの前に立って目を合わせた。
「リラ、隠していてすまなかった」
いつもの、リラが知っているレグルスの声。
「初めから、あなたがなにも聞かされていないのも、勘違いをしていることにも気づいていた。けれども、緊張しきって強張っていたあなたには、従僕でいるほうがいいかと思ったんだ。まさか、本当のことを言うのがこんなに難しくなるとは思いもしないで」
わずかに苦笑したレグルスは、なにも言えないリラへ力なく首を振る。
一歩、距離を詰めた彼がそそぐ眼差しに、リラは服の裾を握り直す。今朝と同じように、青い瞳が物言いたげに細められたのを黙って見つめた。
「婚約を、解消したいだなんて言わないで。あなたの可愛らしい文字がそんな言葉を綴っていて、心臓がとまるかと思った」
懐から取り出されたのは、白い封筒。
泣きながら旦那様へ綴って、アビーに託した手紙だった。
ゆっくりと息を吐いた彼は、そっと覗き込むように背をかがめる。リラの顔を窺い見て、躊躇いがちに口を開いた。
「そうしようと思ったことに、レグルスは関係している? リラ、教えて。……お願いだから」
やさしい口調はリラをうながしているのに、どこか懇願するような響きがあるのは気のせいなのだろうか。
わからない。リラには、レグルスの望む言葉がなんなのかも、なにが正解なのかも、ちっともわからなかった。ぐるぐるする頭のまま、それでもリラは唇を動かした。
「……だって」
「うん」
「だって、このままだと、旦那様と結婚することになるから。レグルスといるのが一番心地よいのに、わたしは、旦那様と結婚するから。それは、だめだと思ったの。お手紙をくださる旦那様は素敵な方だろうけど、わたしはレグルスと一緒にいたかったから。きっとまた、神力が神力でなくなってしまって、あなたにも旦那様にも迷惑になってしまうもの」
だから、手紙を書いたのだ。
この関係を終わりにしてほしいのだと、旦那様にしか頼めないことを。
「リラ。私はあなたを幸せにすることしか考えていない」
身を縮こまらせているリラに、レグルスは急くように言葉を重ねた。他のことなど関係ないと、まっすぐリラを見つめて捉えてしまう。
「だから、このままここにいて」
かすれた声に、胸が痛くなった。
ここにいて、いいのか。本当にいいのだろうか。
見上げると青い目は、黙ったままリラの答えを待っていた。
いいのかもしれない。
レグルスがそう言ってくれるのなら、リラは信じるだけだ。
やっとの思いでこくりとうなずいたリラを、レグルスがぎゅっと抱きしめる。
銀糸の刺繍がさされた胸に頬をよせて、リラは吐息をこぼした。思わず体の力が抜けていく。
馬鹿みたいに遠回りしたけれど、リラはもうなんでもよかった。旦那様がレグルスで、レグルスが旦那様で、それならずっとそばにいれる。
始まりがあの成人の儀だとすると、リラは神力が扱えなかったからこそ彼に会えたわけだ。不思議だ。でも、よかった。本当に、よかった。
よかったと思える自分に気づいて、リラはまたたく。あんなに辛かったのに、今はこんなにあたたかい。
やわらかな日差しの中で、レグルスが膝をつく。
神殿で祭壇の前に立つ彼が、今はリラの前に跪くだなんて。言葉を失うリラの手を恭しく取ると、レグルスはしゅるりと青い袖を鳴らしてから、そっとその細い指へ唇を落とした。