武威
禎兆九年(1589年) 六月上旬 イスパニア領呂宋島 ルソン総督府 ファン・コーボ
「君が無事に戻った事が嬉しいよ。コーボ神父」
「有り難うございます」
本当に喜んでいるのだろうか? サンティアゴ・デ・ベラ総督の顔は憔悴が酷いと思った。目の下が窪んでいる。
「捕虜が戻ったと聞いた。相国との交渉は上手く行ったのだね?」
「はい、相国はこちらの対応に満足しています。長崎の件は終わりだと言っておりました」
総督が大きく息を吐いた。そして席を立ち上がると私に近寄って肩を叩いた。
「よくやってくれた。捕虜が戻った事、相国が満足した事、どちらも上首尾だ。君を日本に送ったのは正解だったよ」
「有り難うございます」
ホッとしたのは私も同じだ。交渉が拗れれば総督は私に責任を押し付けて切り捨てたかもしれない。なんとかそれを切り抜ける事が出来た。
「久し振りに良い報せを聞いた。君には感謝しかない」
「畏れ入ります。お顔の色が優れませぬが何か問題が?」
問い掛けると総督が頷いた。
「倭寇が猛威を振るっている。マニラの海に集まっているんだ。君が日本に行く前からそういう傾向に有ったがそれが酷くなっている」
やはりと思った。明の悪政が影響している。相国の言葉を思い出した。総督が応接用の椅子に座った。私にも座るように勧める。正面から向き合う形で座る事になった。
「長崎で負けた事で我々は兵と船を失った。そのせいで連中は勢いづいている。一番拙いのは我々を怖れなくなった事だ。倭寇を追い払うために船を出しても相手の方が多勢で手が出せない事も少なくない。同数でも怖れずに向かってくる。そのせいで勝っても損害が馬鹿にならないんだ。戦力を徐々に磨り減らしているようなものだ。だが倭寇は少しも減らない、増える一方だ」
「……」
「明の商船が随分と襲われた。そのせいだろう、今年はマニラに来る船が例年より少ない。明の商船は倭寇がマニラに行く船を狙っていると怖れている」
「なんと!」
総督が溜息を吐いた。
「多分、戻りも襲われただろうな」
「ええ、そうでしょう」
明の銀不足が深刻化する……。来年はどうなる? 今年以上に船が来なくなれば……。明だけじゃ無い、イスパニアにとっても厳しくなる。倭寇問題は早急に解決しなければならない。相国は力を貸しても良いと言っていた……。
「ガレオン船の船長も明の商船が少ない事に驚いている。私が兵力の増強が必要だと言うと頷いていたよ。相当に危機感を抱いている」
ガレオン船の船長がアカプルコでそれを大声で言ってくれれば総督の増援要請も無視はされないと思うが……。
「銀は余っているのですね?」
「ああ、ガレオン船は七月になる前にアカプルコに向かう。その前に取引が終われば良いのだが……」
総督の表情が暗い。厳しいのだと思った。
「船長と話したんだが場合によってはガレオン船は日本に行く事になるかもしれない」
「!」
息を呑んだ。総督は暗い顔をしている。
「マニラを敬遠した明の商船は日本に行ったと考えているのですね?」
訊ねると総督が私をジッと見た。
「そうだ。君もそう思うだろう?」
「はい」
日本には銀が有る。明の商人はそちらに向かうだろう。そして日本には強力な海軍が有る。倭寇も日本の近海で暴れる事はしない。拙いな、このままではマニラ、いやイスパニアは日本に負ける。その事を言うと総督も大きく頷いた。
「君の言う通りだよ。海を穏やかにしなければ商人は逃げてしまう。捕虜が戻ってきたのは本当に有り難い。それに日本との関係も改善出来た事は朗報だ。我々は倭寇対策に集中出来る。船は二隻が建造中でね。もうすぐ完成する。新しく兵を徴してもいるから確実に戦力は上がりつつある」
声に力は有るが総督の顔は緩まない。状況を厳しく見ている。それほどまでに倭寇は脅威なのだと思った。
「だが現時点では力不足だ。我々はマニラの海を守れない。であれば望ましい事では無いが日本を頼らざるを得ないのも事実だ」
「そうですね」
戦力が回復するまでイスパニアは日本を頼らざるを得ない。総督が日本との関係を改善した事を喜んだのはそれも有ったのだ。
「琉球の事だが相国は何か言っていたかね?」
「琉球王が自分を愚弄したので滅ぼす事に決めたと言っていました。代替わりの事も知っています。顔が変わっただけで自分を愚弄する態度は変わらないと」
総督が小さく二度頷いた。そして私を見た。
「戦の状況は如何なのかな? 商人がマニラを避けているので情報が入らないんだ」
「私にも良く分かりません。ですが琉球が日本の兵を討ち払えるとは思えません」
日本人はずっと国内で戦っていたのだ。このアジアでもっとも戦慣れしている民族だろう。琉球が勝てるとは思えない。
「相国は明については何か言っていたかね?」
「相国は明について相当詳しく調べています」
総督の視線が厳しくなった。
「どういう事かな?」
声が低い。
「琉球を滅ぼしても戦争にはならないと見ています」
「……根拠が有るのだね?」
「はい。明の皇帝は愚かです」
総督が顎に力を入れた。
「皇帝の評判が芳しくない事は私も知っている。しかし琉球は明に服属していたのだ。それを滅ぼされて黙っているとは思えない」
そう、普通ならそう思う。
「皇帝は朝鮮に使者を送ったそうです。銀を貢納せよと」
「銀を?」
総督が眉を寄せた。
「遊ぶための銀です。銭のかかる戦争などしたがらないだろうと相国は笑っていました」
「馬鹿な」
「私も馬鹿なと思いました。信じられずにいると相国に笑われました。イスパニアは明に関心が有ると思ったが皇帝の事は知らないようだと」
総督の顔が強張っている。我々は明の富を自分達のものにしたいと考えていた。そのために日本を利用しようと考えていた。相国はそれに気付いていたのかもしれない。その事を言うと総督が”そのようだね”と同意した。今更では有るが容易な相手ではないと思ったのだろう。
「マニラにガレオン船が銀を運んで来た事も知っています。明の商人が絹、陶磁器と交換する事も。商人が銀を明に運べば皇帝は銀を搾り取るだろうと言っていました。明の事だけでは有りません。我等の事も良く知っています。総督が本国に兵の増強を求めた事も相国は知っていました」
総督がまた”馬鹿な”と呟く。さっきよりもずっと声が弱いと思った。
「コーボ神父。相国は私が本国に兵の増強を求めた事を知っていた。それなのに捕虜を返した。君はこれを如何思う? 相国は我々に敵意は無い、そう思うかね?」
「……油断は出来ません」
「……」
「相国は私に倭寇対策で協力しても良いと言っていました。魅力的な案です。日本が協力してくれれば倭寇を追い払う事は難しくないでしょう。しかし日本の協力で倭寇を追い払えばこのフィリピンで日本の影響力が強くなります」
総督が大きく頷いた。
「そうだね、ガレオン船の件は我慢できるがそれは歓迎出来ない。倭寇は独力で打ち払わなければ……。この地域にイスパニアの力を示さなければ侮られるだけだろう」
その通りだ。日本は琉球を征服するのだ。日本に比べればイスパニアは弱いと思われかねない。
「話を戻しますが相国は明との間で戦は起きないと見ています。しかしイスパニアと日本の間で戦が起きれば明が如何動くか分からないと思ったのかもしれません。我々との関係を改善すれば攻め取った琉球も安定させやすい。そんな事を考えたのではないかと思います」
総督が頷いた。そして私を見た。
「或いは我々が明を唆すと思ったか……。明の皇帝が内に閉じこもり遊びに耽るようなら相国はフィリピンを攻めようとするかもしれないね」
「私もそれを考えました。我々に好意的な対応をするのもそれを見極める時間を稼ごうとしているのかもしれません」
総督が視線を伏せた。何かを考えている。そして息を吐いて私を見た。
「君は対日本で明が頼りになると思うかね?」
首を横に振った。
「琉球を見殺しにするようなら頼りにはなりません。ただ利用は出来るかもしれません」
総督が”フン”と笑った。
「日本には銀が有ると教えるのだね?」
「ええ、そうです」
総督も私と同じ事を考えたのだと思った。日本と明が銀を巡って関係が悪化するならその分だけフィリピンは安全になる。総督がニヤリと笑った。
「我々は表に出ない方が良い。そうだろう?」
「ええ、そう思います」
「ポルトガルの協力が必要だね。イエズス会の協力が」
「はい、彼らも嫌とは言わない筈です。日本と明が争うようならそこで利権を拡大出来るでしょう」
「我々もね」
出来れば双方疲弊して欲しいものだ。その方が付け込む隙が出来るからな。
禎兆九年(1589年) 六月上旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 朽木小夜
「小夜! 小夜!」
ドンドンという足音と共に大殿が私を呼ぶ声が聞こえた。足音は部屋に近付いてくる。一体どうしたのだろう。訝しんでいると大殿が姿を見せた。
「おお、此処に居たか」
「はい、此処は私の部屋ですから。どうなさったのです?」
大殿が笑い声を上げ私の傍に座った。
「小夜、琉球が降伏したぞ」
「まあ!」
思わず声が出た。大殿がそんな私を見てまた笑い声を上げた。
「思いの他に早かった。六月になる前に降伏したそうだ。先程報せが入った。そなたに教えようと思ってな」
「あの、御味方の損害は……」
大殿が”案ずるな”と言った。
「琉球はこちらが攻めてくるとは思っていなかったようだ。殆ど戦支度はしていなかったらしい。まともな戦にはならなかったと又兵衛からの報告に有った。味方の損害は極めて軽微だとな」
「そうですか」
ホッとした。三郎右衛門、四郎右衛門殿も無事だろう。
「尤も琉球側にも大きな損害はないらしい。敵わないと見て早々に降伏したようだ」
「まあ……、では琉球王は?」
問い掛けると大殿が”降伏した”と答えた。
「早い段階で降伏した。琉球の抵抗が小さかったのはそれが理由として有るだろう。琉球王が最後まで戦えと兵に命じていればもっと損害は大きかったと思う。日本が勝ったとは思うがな」
「……琉球王は口惜しかったでしょうね」
大殿が”そうだな”と頷いた。
「何故戦わなかったのでしょう?」
「琉球は島だからな。領地は狭いし逃げ場も無い。無理をしても損害が増えるだけで意味は無いと思ったのかもしれぬ」
「……」
「だとすれば善良な男なのだろうな」
大殿がちょっと考える風情になった。もしかすると琉球を攻めた事を後悔しているのだろうか?
「お気が咎めますか?」
思い切って問うと大殿が”いいや”と首を横に振った。
「残念だが善良なだけで生きていけるほどこの世の中は甘くない。日本は戦国の世が終わったが海の外は戦国乱世の時代なのだ。喰わなければ喰われる。喰う事を躊躇ってはならぬ。生き残るためにはな」
自らに言い聞かせるような口調だった。その通りだ。生き残るには躊躇ってはならない。それを守ったから朽木は生き残った。天下を獲った……。
「小夜、これから忙しくなるぞ」
「……」
「琉球王をこちらに迎えなければならんし大樹も戻ってくる。いろいろとやらねばならん。明、朝鮮、イスパニア、ポルトガルの動きにも注意が必要だ」
「はい」
大殿がニヤリと笑った。
「だが先ずは雪乃に報せなければな。四郎右衛門が戻ってくると喜ぶ筈だ」
「あの、三郎右衛門は」
大殿が私を見て”ふん”と笑った。
「勿論戻ってくる。楽しみにしているのだな」
大殿が”どれ”と声をかけて立ち上がった。そして部屋を出て行く。三郎右衛門が戻って来るのだと嬉しくなった。
禎兆九年(1589年) 六月上旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 朽木綾
「姉上、琉球平定お目出度うございます。院も帝も大層お喜びにございます」
妹の目々典侍が笑顔で祝ってくれた。息子が琉球を平定した。目出度い事なのだと思った。無理に笑顔を作ると顔が強張るような痛みを感じた。
「畏れ多い事です」
そう答えるのがやっとだった。この城でも皆が琉球平定を喜んでいる。喜べずにいるのは私だけだ。
「日本が海の向こうに領地を持つなど古の任那以来の事にございます。これほどの勲しは有りますまい。公家の方々も皆様お喜びにございます」
「重ねて畏れ多い事だと思います」
素直に喜べない私は悪い母親なのだろう。それでも海の外にまで戦をする必要が有るのかと思ってしまうのだ。そして日本を統一したにも関わらず戦を続ける息子に強い違和感を抱かざるを得ない。息子は平穏を拒絶しているのだろうか? だとすれば息子が天下人というのは危険では無いのだろうか?
「天下統一の直後に琉球を平定する。真に見事な……。日本を甘く見る異国に対してこれ以上は無い強烈な警告になったでしょう。相国こそ真の武家の棟梁だと皆が称賛しておりますよ、姉上」
真の武家の棟梁……。
「朝廷では異国の事を危険視しているのですか?」
妹が”勿論にございます”と答えた。妹の顔から笑みが消えている。
「イスパニアが長崎に攻めてきましたし伴天連は信徒を唆して兵を挙げました。異国が日本を攻めるのは元寇以来の事です」
「ええ、そうですね。でも規模はずっと小さい」
妹が首を横に振った。
「油断は出来ませぬ。元寇の時は元に与する日本人は居ませんでした。しかし切支丹は伴天連に従ってイスパニアに協力したのです。あの者達は国を裏切ったのです。許せる事ではありませぬ」
妹が強い口調で言い切った。そうなのかと意外に思った。私はあっという間に鎮圧したから大した事は無いと思っていた。でも朝廷はあの件を重視している……。
「朝廷では異国の教えは邪教であり伴天連達を国外に追放しその教えを禁ずるべきだという声も少なく有りませぬ。相国はあまり気にしていないようですが……」
「私も異国の教えの事は気になっていました」
息子は伴天連達に領内での布教を許した。交易のためだと言っていた。だがその事が一向一揆との軋轢を大きなものにしたのではないだろうか? そして息子は一向一揆を根絶した。何万人も死んだ。
「対馬の事もございますしね」
「対馬?」
何の事だろう? 訝しんでいると妹が”ええ”と頷いた。
「対馬の宗氏は朝鮮に服属していました。一つ間違えば対馬は朝鮮の領土になっていたでしょう。幸い相国が宗氏を対馬から九州へと移し対馬を朽木の直轄領にしましたから最悪の事態は免れました。ですが朝鮮はその事に大分不満を持っているようです。相国は朝鮮との関係を改善しようとしているようですが上手くいっておりませぬ」
息子が宗氏を移したというのは聞いていた。でもそんな大きな問題なのだとは知らなかった……。その事を言うと妹が首を横に振った。
「長い戦乱で世の中は乱れました。足利の幕府は有りましたが形だけで日本を治めているとは言えなかった。日本という国は支配者が居なかったのです。皆が好き勝手に動きました。宗氏が朝鮮に服属したのもそういう事なのでしょう」
「かもしれませぬ」
「朝廷では宗氏を許せぬ。滅ぼすべきだという意見も有ったと聞きます。相国は対馬から移せば十分と判断したようですが……」
滅ぼす? 言われてみればその通りだ。誰の意見だろう? 院? それとも帝? だが息子はそれを受け入れなかった。
「朝鮮が対馬に攻めて来るという事が有ると思いますか?」
問い掛けると妹が”分かりませぬ”と首を横に振った。
「だからこそ琉球を制したのは大きいと思います。朝鮮も日本の武威を怖れましょう。簡単には日本に攻め込めませぬ。日本を無視する事も出来なくなる筈です。そして琉球の南には呂宋のイスパニアが有るのです。イスパニアも日本を怖れるでしょう」
孫の三郎右衛門は日本は海の外に武を振るわなければならないと言っていた。日本を怖れさせなければならないと。それはこの事だったのだろうか?




