第一章 鏡に映らない令嬢
オルフィリア・ディルヴェインが、自分は普通の人間ではないのかもしれないと疑い始めたのは、七歳の誕生日を迎えた日のことだった。
その日、父から贈られたのは、銀細工の美しい手鏡だった。柄には小さな白薔薇が彫り込まれ、縁には細かな真珠が埋め込まれている。亡き母が愛用していた品を、父が職人に頼んで修復させたものだという。
母の形見を手にした少女は嬉しくなり、さっそく鏡を覗き込んだ。
しかし、そこには何も映っていなかった。
正確には、鏡そのものは正常だった。背後の天蓋付き寝台も、窓辺に飾られた花瓶も、壁に掛けられた絵画も映っている。ただ、その前に立つ少女の姿だけが、綺麗に抜け落ちていたのである。
「……お父様?」
幼いオルフィリアは、不思議そうに父を振り返った。
「この鏡、壊れているみたいです。私だけ、どこにもいないの」
父は最初、娘の冗談だと思ったらしい。苦笑しながら手鏡を受け取り、自分の顔を映してみせた。ところが、再び娘へ鏡を向けた瞬間、その表情から笑みが消えた。
父は何度も鏡の角度を変えた。窓際へ移動し、燭台の明かりを近づけ、最後には少女を鏡台の前へ立たせた。しかし結果は変わらなかった。
鏡の中には、少女が着ているはずの青いドレスすら存在しなかった。
「……このことは、誰にも話してはいけない」
父はそう言った。娘の肩を掴む手が痛いほど強く、幼いオルフィリアは泣きそうになった。
「どうしてですか? 私、何か悪いことをしたの?」
「違う。お前は何も悪くない。ただ、これは……人に知られてはいけないことなんだ」
父は最後まで理由を教えてくれなかった。
その翌年、父は病に倒れ、二度と娘とまともに会話できなくなった。
そして十一年が過ぎた現在も、オルフィリアの姿は鏡に映らないままだった。
◇ ◇ ◇
「オルフィリア。あなた、またその古い鏡を持ち歩いているの?」
伯爵邸の朝食室で、継母のザフィレーヌが静かに尋ねた。
長い食卓には焼きたてのパン、香草を添えた白身魚、蜂蜜漬けの果実が並んでいる。窓の外では庭師たちが白薔薇の剪定をしており、初夏の柔らかな日差しが磨き上げられた銀食器を輝かせていた。
オルフィリアは膝の上に置いていた手鏡を、そっとポケットへしまった。
「申し訳ありません、お義母様。母の形見ですので、つい」
「形見を大切にすることは悪いことではないわ。でも、十八歳にもなって子供の頃の癖が抜けないのは感心しませんね。今日からは、もう少し貴族令嬢らしく振る舞いなさい」
「はい。気をつけます」
ザフィレーヌはそれ以上叱責することなく、優雅な所作で紅茶を口に運んだ。
継母は美しい女性だった。
黒紫色の髪は光を受けると赤みを帯び、金色の瞳は宝石のように澄んでいる。三十八歳という年齢を感じさせない肌には皺一つなく、王都の貴婦人たちがこぞって化粧法を真似するほどだった。
しかし、オルフィリアはこの女性が苦手だった。
怒鳴られたことは一度もない。食事を抜かれたこともなければ、粗末な衣服を着せられたこともない。むしろザフィレーヌは、世間一般の継母と比べれば随分と寛大な人物に見えるだろう。
ただし、彼女は決してオルフィリアに触れなかった。
幼い頃、転んで膝を擦りむいたときも、熱を出して寝込んだときも、母親として抱き締めてくれたことはない。必要な世話はすべて使用人に命じ、本人は一定の距離を保ったまま見守っていた。
まるで、触れてはいけない危険な品物を扱うように。
「そういえば、王宮から招待状が届いているわ」
ザフィレーヌが何気なく告げた。
「来月、白薔薇の選定が行われます。あなたにも参加してもらうことになりました」
オルフィリアの手が止まった。
「……白薔薇の選定、ですか?」
「ええ。十八歳から二十五歳までの未婚の貴族令嬢が集められ、王国で最も優れた女性を選ぶ伝統行事よ。あなたも名前くらいは知っているでしょう?」
「もちろん存じています。ですが、あれは公爵家や侯爵家のご令嬢が参加するものでは……」
「今年は伯爵家にも門戸が開かれたの。王室のご意向だそうよ」
白薔薇の選定。
それは百年に一度だけ開催される、王国最大の儀式だった。
参加する令嬢たちは容姿、教養、礼節、魔力、血統などを審査され、最も優れた一人に『白薔薇の乙女』の称号が与えられる。
選ばれた女性は王国の守護聖女となり、王族に匹敵する地位を授けられるという。
ただ、オルフィリアには一つだけ気になることがあった。
「お義母様。過去に選ばれた白薔薇の乙女は、その後どうなったのでしょうか?」
ザフィレーヌの指が止まった。
「……どういう意味?」
「歴史書を調べたのですが、選定に関する記録はあっても、選ばれた女性のその後についてはほとんど記されていませんでした。百年前の選定で選ばれたエルヴェシア公爵令嬢も、儀式の翌年から名前が消えています」
継母はしばらく黙っていた。
やがて、紅茶のカップを静かに置く。
「オルフィリア」
「はい」
「あなたは、余計なことを調べる癖を直した方がいいわ」
その声は穏やかだった。
しかし、金色の瞳には明確な警告が宿っていた。
「貴族社会では、知らない方が幸せなこともあるのよ」
オルフィリアは返事をしなかった。
ただ、その日の朝食が終わるまで、継母が一度も自分と目を合わせなかったことだけを覚えていた。




