エピローグ
モンブ・アシャリカの最後の配信は、そこで終わっている。
少なくとも現存する記録はそう結論付けている。
以降の映像は存在しない。
音声も残されていない。
深淵最奥において何が起きたのか。
その瞬間を目撃した者は誰一人として存在しない。
残されたのは断片的な記録だけだった。
だが結果だけは確かだった。
深淵は沈黙した。
かつて深層へ行くほど濃くなっていた魔素濃度は減少を始め、長年観測され続けていた複数の異常現象も、数年をかけてゆっくりと姿を消していく。
原因不明。
それがギルドの公式見解である。
実際、それ以外に説明のしようもなかった。
誰も深淵の真実を知らない。
誰も最奥へ辿り着いていない。
だから誰にも証明できない。
モンブ・アシャリカという男が、本当に世界を救っていたのかどうかさえ。
しかし同時期。
奇妙な現象が静かに広がっていた。
モンブ・アシャリカに関する記憶だけが、少しずつ薄れていったのである。
最初は気のせいだった。
顔が曖昧になる。
声を思い出そうとして失敗する。
昔の出来事を思い返しても輪郭がぼやける。
その程度だった。
だが年月が経つにつれ、それは無視できない変化になる。
彼を知る者たちは皆、似たようなことを口にし始めた。
名前は覚えている。
功績も知っている。
記録も残っている。
だが肝心の人間が思い出せない。
どんな顔だったのか。
どんな声だったのか。
何を考えていたのか。
手元の資料を見れば分かる。
証言を読めば思い出せる。
だが本を閉じる。
記録から目を離す。
すると再び輪郭が霞む。
まるで記憶そのものが風化していくようだった。
エアハルト・メセナはかつてのライバルについて語れなくなった。
自身の口が突然動かなくなった沈黙の中、慣れは力無く微笑むしかなかった。
ラザは思い出を語る途中で何度も言葉を止めるようになった。
彼女は誰よりも困惑し、取り乱すこともあった。
ノグラでさえ例外ではなかった。
彼はもはやモンブについて少しも語らなくなった。
確かに知っている。
忘れたわけではない。
それなのに思い出せない。
そんな奇妙な状態だった。
ある研究者は深淵汚染による集団幻覚だと主張した。
ある宗教家は奇跡だと言った。
ある探検家は偶然だと笑った。
真相は分からない。
だが少なくとも一つだけ確かなことがある。
世界は少しずつモンブ・アシャリカを失いつつあった。
もし何も残さなければ。
百年後には誰も語れなくなるだろう。
二百年後には名前だけになる。
三百年後には、それすら怪しい。
だからこそ記録には意味がある。
人の記憶は消える。
歪む。
失われる。
だが記録だけは残る。
証言も。
文章も。
映像も。
彼自身が嫌というほど残していった配信も。
そうして整理を続ける中で、あるアーカイブが見つかった。
公開履歴なし。
再生履歴なし。
日付もない。
ファイル名も存在しない。
三分にも満たない短い音声データだった。
映像は残されていない。
記録には声だけが収められている。
しばらく呼吸音が続く。
そして。
聞き覚えのある声が響く。
もしこれを見つけたなら。
少し笑う。
疲れ切った声だった。
だが穏やかだった。
不思議なほど。
君は多分、また難しい顔してるんだろ。
短い沈黙。
本当好きだな。
そういうの。
何を指しているのかは分からない。
だがその言葉だけが妙に生々しかった。
まるで目の前に相手がいるような話し方だった。
エアハルトも。
ラザも。
親父も。
そこで小さく笑う。
あいつら絶対好き勝手言ってるだろ。
遠くで風の音が鳴る。
長い沈黙が続く。
やがて再び声が響いた。
まあ。
それでいい。
どこか安心した様子だった。
まるで全て終わった後の人間の声だった。
人の記憶なんてそんなもんだ。
消える。
薄れる。
忘れる。
だから気持ち程度に配信なんて残してみたりした。
そこで声が少しだけ柔らかくなる。
今までのどの配信でも聞いたことのない声だった。
配信じゃなくても良かった。
君の中になにかひとつでも。
残るものがあれば充分だ。
再び沈黙。
長い。
ひどく長い沈黙だった。
何かを迷っているようにも聞こえる。
言うべきか悩んでいるようにも聞こえる。
そして最後に。
本当に最後に。
小さく呟いた。
もういちど会いたかった。
そこで記録は終わる。
それ以上は何も残されていない。
モンブ・アシャリカは英雄ではない。
少なくとも本人ならそう言うだろう。
救世主でもない。
聖人でもない。
ただの探検家だった。
嘘を吐いた。
煽った。
嫌われた。
余計なことばかりした。
それでも。
目の前の誰かを見捨てられなかった。
その結果として世界を救っただけだ。
エアハルトは被害者だったと言った。
ラザは見捨てる才能がなかったと言った。
ノグラは優しかったと言った。
全員言い方が違う。
だが見ていたものは同じだったのだろう。
深淵詐欺師。
その蔑称は最後まで消えないかもしれない。
だが本稿を通して調べた限り、彼が最後に欺いたのは人ではない。
世論でもない。
迷宮ですらない。
定められていたはずの未来そのものだった。
だから私は知っている。
何度も思い出さねばならない。
彼が何を見ていたのか。
何を恐れていたのか。
何を守ろうとしていたのか。
長い間、それを思い出せなかった。
だが今なら分かる。
だから2度と忘れないよう、聞いて回る。
そして忘れさせないために、書き続ける。
もし百年後、この記録を読む者がいるなら。
どうか彼を詐欺師のまま終わらせないでほしい。
モンブ・アシャリカ。
史上最速の五十階層到達者。
初の深淵配信者。
完全生身単独探検家。
そして深淵詐欺師。
本書が、その証明になれば幸いである。
記録者 セナ・アシャリカ




