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「すみませんが、お先に失礼します」
幹島は軽く頷くだけだった。
桜井は頭を下げて会社を後にした。
自動運転の車の中で、桜井はまだ明るい街を眺めた。
人が車を運転することは、禁止されてから久しい。
人間の注意欠陥によって悲しい事故が起こり続けた歴史は、AI技術の進歩によってあっさり塗り替えられた。
絶えずドライバーの首が情報交換し合い、事故はおろか渋滞や信号待ちさえ制御できるようになったのだ。
万が一のときは、首のメーカーが責任を負うことになっている。
そうでもしないと技術は普及しなかっただろうし、そうしても売上でペイできるという計算結果を、メーカーは出したのだろう。
「顔二つを使用した痕跡があるって言われても、釈然としないね。こっちは、フェイス・トゥですら身に覚えがないってのに」
『首が主人の身体を一時的にでも操作するなどあり得ません』
「どうして言い切れるのさ?」
『我々はあくまで補助頭脳です。運動神経へ作用できないよう設計されています』
「赤根だって、人を操ったじゃないか」
『赤根ウイルスは希死念慮を増幅させたに過ぎません。肉体を直接操ったのではなく、死にたいと思わせたうえで、自尽組合へ移動し、据え膳を食わせたまでです』
そうだったのか。
確かに意識は生きていて、赤い女性に導かれるままに、自分の意思でついていった気がする。
車は人が運転しないから、移動だけなら可能である。
「それじゃあ銀さんのは、演技だったとでも言うの?」
『さあ』
「さあ、って」
***
車が停止した。
降りると、車は白線の間に、綺麗にまっすぐ停まっている。
もはや、白線もいらないかもしれない。
赤ちょうちんがわざとらしく灯る、古民家風の居酒屋だった。
重たい木製の引戸を開けると、出汁の香りが鼻をついた。
店の中央で、店主が三方向のカウンターを捌いている。
一番奥の席で手を挙げる、野暮ったい男の姿が目に入った。
宍戸である。
「婚活、進展ありました!」
白いとっくりをカウンターに上げながら、宍戸は叫んだ。
先に始まっていたようで、もう少なくとも一合空けたということだ。
「大将、適当に。あと、同じの二本」
「早いな」
「祝わずにいられるかよ」
「ぬか喜びじゃなければいいけど」
「ネガティブマンだな相変わらず」
「どんな相手?」
「まだ会ったことはない」
「はあ?」
「大丈夫!先に確かめた」
「何を?」
「身体の相性」
カラシを甲斐甲斐しく桜井の皿に絞り出しながら、宍戸は小声で言った。
「……会ったこともないのに、意味わからん」
「知らねえのか?」
そう言って宍戸は、煙草を吸うジェスチャーをした。
ピースサインを顔の前にひらひらと。
例の仕草であった。
「顔二つ……」
「微妙に違えよ。フェイス・トゥな?」
乾杯しようとお猪口を軽く上げたまま宍戸はしばらく待ったが、桜井が無視するので、早めに切り上げてグイっとあおった。
「あれすげえな、遠隔でできちまうんだから」
できる、という言葉の指す内容は、きっとあれだろう。
「今度、直接会ってくる」
宍戸はにやけている。
桜井は冷静に水を差す。
「よくわからないけど、その中のことって、実際のものとは乖離してるんじゃないのか? 姿とか、経験とか」
「まあ、そうだろうな」
宍戸は箸で玉子をつつきながら言う。
「でもリモートじゃ結婚できねえしな」
桜井の皿にも、カウンター越しに店主から玉子が盛られた。
「トライアンドエラーだよ。当たって砕けろ」
箸が玉子を割った。
「ちゃちゃっと結婚して、子供作って。金はあるから。人生安泰よ」
「心配しちゃいないけど」
割った玉子は、双子だった。